第10話 最終話 責任を取ります 全てをかけて

 彼の温もりの心地よさに、フェリシアの複雑な思いはゆっくりと解れ、代わりに眠気が訪れた。

 それを察したレイモンドは、彼女の膝裏に手を差し込み、抱き上げようとする。


「ここで眠らせてくれないの?」


 1ヶ月ぶりの彼の温もりと心地よい眠気を手放したくなくて、フェリシアはゆっくりした抗議の声を上げたけれど、レイモンドは額に口付けを落とした。


「ここにいたら、フェリを眠らせないから」


――え?


 ぼんやりした頭は、レイモンドが発したとは思えない言葉に覚醒し、フェリシアは顔を上げてレイモンドの表情を見た。

 彼は視線を逸らして、囁いた。


「フェリが寝台にいるんだ。当然のことだ」


 その言葉に真実を感じたフェリシアは身体を捻って、彼から抜け出し、そのまま体術で彼を寝台に組み敷いた。


「フェリ」


 咎めるにしては、弱く、熱い囁きだった。

 フェリシアはその熱を逃すつもりはなかった。


 この8年間、彼がこのような欲を見せてくれたことはなかった。彼のくれる口付けは、いつも柔らかく、優しさを感じるものだった。

 それは、軍の休み時間や打ち上げで盛り上がる猥談とは、余りにかけ離れたもので、彼が自分を愛してくれているのは分かっていたけれど、その愛は親愛の延長なのだろうと思っていた。

 

 何しろ腰のくびれ以外、魅せられる身体ではない。

 腰のくびれでも、彼の嗜好によっては魅せられるかどうかは微妙なのだ。欲を抱かれにくいことは、哀しいほど自覚している。

 今、彼が欲を持ってくれたとしたら、それは1ヶ月離れていたという特別な事情でしかないだろう。

 絶対にこの機会を逃したくなかった。

 初めての夜は、親愛で抱かれるよりも欲を持って抱かれたい。

 

「レイは私が婚姻するまで、婚約も婚姻もしないのでしょ?」


 婚約破棄の賠償を持ち出すと、彼は目を丸くした。

 見たことのないその表情に可愛らしさを感じながら、フェリシアは追い打ちをかける。


「だから、私はレイと婚姻したければ、婚約はできないのよ」


 これは屁理屈ではないと思う。彼の作った賠償の内容を素直に解釈しただけだ。

 彼は目を瞬かせたけれど。王位継承権1位の者が婚約も経ずに婚姻するなどあり得ないけれど。

 賠償は守られるべきだと思う。

 そう自分に言い聞かせ、フェリシアは微笑した。


「レイ、私と婚姻の事実を作って。……また何か起きてしまう前に」


 拙く色香の欠片も無い、フェリシアの精一杯の誘いに、僅かに苦笑していたレイモンドは、フェリシアが最後に零した本音に息を呑んだ。


 もう別れられるのは嫌だった。

 身体を結び合わせても、事が起きれば、また別れられてしまうかもしれない。

 それは分かっていたけれど、せめて身体だけでも結びつきたかった。

 

 彼は目を閉じ柳眉を寄せた後、くるりと彼女と身体を入れ替えると彼女を押さえ込み、耳元に囁きを落とした。


「フェリ。もう離さない」


 囁きに確かな熱を感じて、ゾクリと身体が震えた。

 彼女の震えを和らげるように、いつもの優しい口付けが始まった。

 彼女がその温もりに身を任せたことが伝わると、彼の口付けは深くなる。

 彼の熱に慣れないフェリシアがただ彼の舌を受け止めている間に、彼の手が滑り降り、フェリシアのガウンの紐に伸びた、その瞬間、フェリシアは重大なことを思い出し、飛び起きた。


「ま、待って!明日にして!」


 突き飛ばされた彼は目を丸くして、そして、力尽きたように彼女の肩に頭を埋めた。

 さすがにひどいと自分でも思う。


「あの、5分、いえ3分でいいの、時間をくれないかしら」


 何とか流れを引き戻したくて頼んでみても、「無理はしないで」と宥めるように力なく言われるばかりだ。

 絶対に誤解されている――フェリシアは確信していた。

 臆したわけではないのだ。

 できれば事情を彼に見せたくはないけれど、このままでは、優しい彼ならば「フェリの気持ちが追いつくまで」と結婚式の初夜すら無くなってしまうかもしれない。

 フェリシアは諦めて、ガウンを脱いだ。


「フェリ!そんな無理――」


 慌てて止めさせようとしたレイモンドの声は途切れた。

 部屋に沈黙が落ちた。

 彼の反応が恐くて、フェリシアは顔を逸らした。


「まだ、戦争が終わってから時間が経っていないから、武器は付けていたの。その……こんなことも期待していなかったから……」


 暗殺を警戒して、ガウンの下の彼女の身体は、隠し武器を幾つも付けていたのだ。付け加えるならば、ガウンにも仕込んでいる。

 これを見ては彼の熱も完全に冷めてしまっただろう。甘やかな夜は完全に消え去ってしまった。

 悄然とガウンに手を伸ばそうとしたフェリシアの手が、止まった。

 彼が、彼女の腕に付けられていた武器をそっと撫で、そこに口付けを落としたのだ。


「私は、フェリから戦場に行く権利を奪い取った」


 胸がツキリと痛んだ。

 それは、今まで敢えて目を逸らしていた傷だった。

 向き合う覚悟のできていない傷だった。

 もう、自分は戦場に立つことは許されない。レイモンドが今回、見事に軍を率いたことで、完全に機会は失われるだろう。

 『女神の愛し子』であるのに。

 

 彼は絞り出すように言葉を紡ぎ続けた。


「フェリが『女神の愛し子』としてどれだけ努力を重ねてきたか、知っていたのに」


 その掠れた声に、彼の葛藤が窺えたけれど、彼女の傷は癒やされない。

 『女神の愛し子』は彼女の人生をかけた役目だった。役目を果たすために、彼女にできる努力は全てしてきた。

 戦場に出ることを禁じられ、その全てが失われてしまったともいえる。

 胸の痛みが増し、フェリシアは目を閉じた。


「フェリ」


 レイモンドは彼女の頬を包んで、請うように呼びかけた。

 フェリシアはゆっくりと目を開いた。

 真摯な青い瞳が強い意思をのせてこちらを見つめていた。

「謝ることも許しを請うこともしない」


 誠実――といえるのだろう。

 彼が望んだ結果なのだから。

 それに、彼に謝られたとして、許せるかどうか分からなかった。どうにもならない、どうすることもできない痛みを逃がしたくて、フェリシアは息を吸い込んだ。

 

「だから、私は全てをかけて、フェリが、奪い取られたものを振り返ることを無くしてみせる」


 彼の目指しているものが分からず、フェリは瞬きもせず、ひたと彼を見つめた。

 彼は辺りに響くような強い声で、誓いをくれた。


「決して、ゲニアス国に戦場など作らせない。フェリの命が尽きるまで、必ずゲニアス国の平和を護る」


 瞬間、胸が熱いもので満たされた。

 その熱は目にまで届きそうで、フェリシアは再び瞳を閉じた。

 先ほどまで痛んでいた胸の傷も、熱で満たされた気がした。

 戦場に出ることができなくなり、『女神の愛し子』としての自分が終わったことで、傷ついた思いはまだ確かに残っているけれど、この傷が深まることも広がることもないのだ。

 この傷自体に意味が無くなる、彼はそんな未来を誓ってくれた。

 きっと、自分はこの傷を穏やかに、温もりをもって見ることができる――、そう思えた。

 フェリシアは目を瞬かせて、そして微笑んだ。


「なら、私の武器はもう要らないのね」


 フェリシアは彼に抱きついて、囁いた。


「レイ、私の武器を取って」



◆◇◆

 寝台には、小さな音が途切れ途切れに響いていた。


 一つ一つ、レイモンドは彼女の身体から武器をそっと外していく。

 一つ一つ、フェリシアの身体は軽くなる。

 

 馴染んだ武器が離れていくことに、寂しさや心許なさを感じることはなかった。

 彼が、武器が付いていた場所を埋めるように口付けを落としてくれたのだ。

 彼は何度も彼女の名を囁きながら、口付けを落としていく。

 彼の想いが身体に染みこんでいく心地がして、全ての武器が外されたとき、なぜだか涙が零れた。

 彼は切なげに目を細めて、涙を口付けで吸い取ると、フェリシアの髪をそっと撫でた。

 フェリシアの涙を見たからだろう。彼の目に躊躇いが浮かんでいた。

 フェリシアは自分の望みを囁いた。


「レイ。あなたと一つになりたい」


 彼の瞳が一瞬見開かれ、そして、一段と切なさを滲ませると、彼女の唇に口付けた。その口付けは泣きたくなるほど優しく柔らかなものだった。


「フェリ、愛している」


 吐息と共に囁かれたその言葉は、フェリシアの身体全てに染み渡った。

 もう何が起ころうとも、彼の想いを信じられる――、そんな温かな、けれど胸の痛むような幸せに押し出されて、気がつけば言葉が零れていた。


「レイ、好きよ。誰よりも、何よりも」


 言葉にするだけで、また切ない幸せが胸に走った。

 彼の答えは口付けだった。

 口付けは徐々に深く、熱くなる。やがて、彼の手と彼の口付けでフェリシアの全てが熱を帯びた頃、二人はゆっくりと一つになった。

 

◆◇◆


 彼も疲れていたのだろう。眠りについたのは意外にもレイモンドの方が先だった。

 フェリシアは彼の穏やかな寝息を耳にしながら、自分を抱え込んでいる彼の手を見つめ、その手にどれだけ熱を与えられたか思い出し、頬を染めた。


 子どもを授かるかしら――。


 ようやく押し寄せ始めた眠気に身を任せながら、彼女はぼんやりとそんな事を思った。

 彼との子はどれだけ可愛いだろう。甘やかしてしまいそうだ。

 子どもが生まれれば、レイモンドの生きる縁が増えるかもしれない。

 もちろん、彼を無理に変えるつもりはないけれど、もし、もしも、そうなったら、どれだけ素敵なことだろう。


 眠気に完全に飲み込まれる直前に脳裏に過った光景の中で、彼は辺りを照らすような光り輝く笑顔を浮かべて、生まれたばかりの子どもを抱きしめていた。



◇◇

 ゲニアス国16代国王は、歴代の国王の中で、一際特異な存在だ。

 16代国王は直系の王族ではなく、元王太子の婚約者である公爵家の令嬢だった。

 銀の髪と紫の瞳を持ち、「女神の愛し子」と国民から慕われたこの女王の治世の間、周囲の国々では内乱や戦争が起こる中で、ゲニアス国だけは内乱はもちろん他国と戦争することも一度たりともなかった。

 そこには王配となった元王太子の弛まぬ内政と外交努力があったとされる。


 「女神の愛し子」という女王の特異性と、戦のないこの時代はゲニアス国の繁栄を築いたということもあり、国民にはこの陛下夫妻は根強い人気がある。

 夫妻を題材とした戯曲は現在まで演じられているほどだ。

 戯曲の中では陛下夫妻の仲は睦まじく描かれるのが常であり、史実としては5人もの子供に恵まれた記録が残されている。


 とかく目を惹くこの時代を研究する歴史家たちは多いが、彼らが必ず直面する最大の難問がある。


――なぜ、そもそもの王太子は自身の婚約者と婚約破棄をしたのかということだ。

 

 王配は婚約破棄の後、女王と婚姻している。破棄をする必要があったのだろうか。

 王配は、国政に対して共同統治と言って良い役割を担っていた。

 ならば、なぜ婚約破棄をして継承権を譲渡したのだろうか。

 

 残念なことに、その疑問への解明の手がかりとなるであろう婚約破棄の諸々の書類は、女王が「素敵な思い出」と位置づけ、自身の墓に封印することを命じ、永遠に秘されてしまった。

 

 戯曲には夫妻の熱愛を絡めて、様々な解釈が盛り込まれている。

 一体、どこまでが事実なのか、どのような経緯があったのかは、歴史家たちと国民の尽きない論点となっている。

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とても「誠実な」婚約破棄をされてしまいました 石里 唯 @kaku1420719

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