第7話 女神の愛し子は役目を果たすー偶然も奇跡と読み替えましょう

 気持ちまで暗くなりそうな曇天の中、フェリシアは淡々と事実を口にした。


「やはり来たのね、『予定通りに』」


 フェリシアは砦の見張り塔から、ヘルパ軍の行軍を見下ろしていた。

 その数はざっと200人はいるようだ。

 対して、こちらの北東軍はフェリシアたちを含めても150人余り。

 数の上では劣勢だ。

 フェリシアの隣から、昨日までの指揮官のコナーがゴクリと唾を呑む音が耳に入った。フェリシアは視線をヘルパ軍から彼に移し、緊張を隠せないその顔に微笑みを向けた。


「予定通りに私が行くわ。ここで戦況を確認してね」

「はいっ」


 初々しさすら感じてしまう歯切れのいいその返事に、フェリシアは自分の2年前を振り返り、そして初々しさにたどり着くには2年では足りないことに思い至ると、少々もの悲しさを覚えながら、これからの事に考えを戻した。   

 まだ緊張に縛られている彼に、それでも言わなければいけない。


「もしもの時は、頼んだわ」

「はいっ」


 身体まで強ばらせてしまった彼に心の内で謝る。フェリシアは最善を尽くすけれども、それでも備えてもらわなければいけない。そっと、彼の背後に控える壮年の補佐役に目を向けた。

 彼が小さく頷いたのを目に収め、フェリシアは出陣に向かった。



 砦から出陣したフェリシアは、ヘルパ軍と対峙した。

 敵ながら、実に整然と隊列が組まれている。

 隊列をさっと見渡し、最前列に並ぶ歩兵に目を留め、それから敵の指揮官に目を向けた。

 兜から覗く彼の眼光は鋭いものだった。

 

 彼の眼光は、まだ「戦場」にはなっていないこの場が、彼の号令一つで瞬時に「戦場」へと変わることを雄弁に語っていた。


『フェリ』

 祈るような囁きが蘇り、同時に腕の傷が熱く疼く。


――不安にさせてごめんなさい。

 

 敵の指揮官の眼差しを受け止めたまま、フェリシアは心の内でレイモンドに謝った。

 そして、この場で最も信頼している仲間に声をかけた。


「ヴィクター」

「何、俺を先に行かせてくれるの?」


 いつも通りの長閑で気楽な調子に、僅かに口角が上がるのを感じながら、フェリシアは敢えて願いを口に出した。


「もしもの時は、お願いね」


「……任せろ」


 一拍の後、いつもの彼からはかけ離れた、神妙な声で願いを受け止めてくれた。


――ならば、もう準備は終わったわね。


 フェリシアは兜を外し、銀の髪をなびかせながら、愛馬の上に立った。

 愛馬は彼女のために、ピタリと静止する。

 敵軍のどこからでもフェリシアの姿は目に入るようになった。

 それは、どこからでも攻撃の対象を知らせてしまうことにもなったが、フェリシアは姿勢を正し、敵軍を睥睨した。

 

「我は女神の祝福を受けし者」


 辺りに彼女の声が響き渡る。


 腕の傷跡が、一段と熱を持った。

 分かっている。それでももう後には退けない。

 銀の髪と紫の瞳を持って生まれたものの、特別なものなど何もない。

 天与の才もない。努力を重ねるしかなかった。

 不死身の身体などない。腕の傷が何よりの証拠だ。

 

 あるのは、「女神の愛し子」という周りの期待と希望。

 それだけだ。

 

 けれど、物心ついてから、周りのその思いに応え続けることに全力を尽くしてきた。

 

 だから、今も演じてみせる。

 

 フェリシアは自分を鼓舞し、声を響かせた。

 

「そなたたちに女神の意思を告げる」


 静けさが、襲いかかるような鋭さを持って場を支配した。その中をフェリシアの声が切り込む。


「この地を穢す者を、女神は決して許さない」


 背後に控えるヴィクターたちが、士気を高めたのを感じた。

 フェリシアは彼らの熱を背負いながら、最前列の歩兵をひたと見つめ、言葉を紡いだ。

 

「武器を捨てるならば、この地に留まることを許そう」


 後ろに控える指揮官を見据えた。


「女神の地を穢そうと考えた悪しき者を、討ち取る決意をした者には――」


 フェリシアは剣を抜き、天に突き上げた。


「女神の祝福を与えよう」


 その時、厚い雲に切れ間が生まれ、日が差し込んだ。

 フェリシアの剣と銀の髪が日を受けて煌めく。

 それは、古の神話を彷彿させるに十分な煌めきだった。


 歩兵の一人が武器を地面に置いた。

 それを皮切りに、最前列の歩兵たちが次々に武器を置く。


 ヘルパ軍に響めきが起こる中、敵の指揮官は目を細めた。

 一瞬の逡巡がその目に浮かんだが、彼は瞬時に逡巡を振り切ると、ゆっくりと隊をかき分けながら、前に進み出た。

 そのままゆっくりと馬を進める。

 静まりかえった場に、彼の馬の蹄の音が響く。空気で肌が切れるのではないかと思うほど、辺りは緊張に張り詰めた。

 その中を悠々と進んだ彼は、フェリシアの2歩前で馬を止め、ひらりと地面に降り立った。

 そして兜を脱いで優雅な動きで跪いた。


「女神の意思を承った。どうか私に祝福を」


 フェリシアは愛馬から降り、ゆっくりと距離を詰め、そして彼の肩に剣を置いた。


「女神の意思を護るあなたに、祝福を授ける」


 瞬間、ヘルパ軍、ゲニアス軍は共に歓声に沸いた。


 興奮で辺りは喧噪に包まれる中、跪いた彼が不敵な笑みを浮かべて囁いた。

「見事だったぞ」


 フェリシアも同じく不敵な笑みで彼に返した。

「あなたもね」

 

 こうして『予定通り』、両軍の邂逅は幕を引いたのだった。



◇◇

 砦は祝宴で盛り上がっていた。

 指揮官に戻ったコナーが興奮に頬を染め、フェリシアに熱く語りかけた。


「交渉で決まっていたとはいえ、自分は不安で不安で仕方なかったのですが、さすが女神の愛し子のフェリシア様です」


 指揮官の立場で、あっさりと不安を吐露してしまうその幼さに思わず苦笑しながら、フェリシアは小さく首を振った。


「交渉の段階が一番の難関だもの。私は決まったことに乗っただけよ」


 刀を交わすだけが戦ではない。

 フェリシアたちは、2面戦争を避けるために、ヘルパ国ではなくヘルパ軍と交渉を試みた。


 切っ掛けは、チャーリーがヘルパ軍を探る中で、軍に蓄積していた不満を嗅ぎ取ったことだった。


 ヘルパ軍の指揮官を務める第2王子カークは、窮地に陥れられていたのだ。

 

 彼は周囲が自ずと気づくほど優秀なために、兄の王太子に疎まれ、度々、無謀な出撃要請を出されていた。

 カークが戦死することを狙っての要請だった。

 今回のゲニアス国への要請も、「王都の安全」を確保するために、出撃を許した部隊は3つしかなかったのである。

 加えて、王太子は品行方正とはかけ離れた人物であり、横暴な行動だけでなく浪費も激しく、カーク自身は何の野望も抱いていなかったが、彼の周りには徐々に人が集まり始めていた。

 すっかり火種を抱えてしまったカークには、命の危険が迫っていた。

 出撃では足りないと、暗殺も何度も仕掛けられるようになっていた。

 

 そこに、フェリシアたちは付け入った。

 チャーリーを通じて、彼に反逆の大義名分を与えると迫ったのだ。

 

 これはゲニアス国にとっても危険な賭だった。

 反乱が失敗すれば、カークを支援したゲニアス国は被害を免れない。

 フェリシアも含めたゲニアス国の首脳陣は、支援を決断するまでに激論を交わしていた。

 結局は、かの王太子は何度も攻撃を企てるとの予測の下に、カークを支援することに踏み切ることになった。

 

 支援を手にして臨んだカークとの交渉は、手応えはあった。

 しかし、カークの決心頼みであることが、フェリシアたちには不安材料だった。

 カークがこちらとの交渉を裏切っても、カーク自身は与えられた役割を果たしただけのことで、――これからも暗殺を潜り抜けなければならないという緊張はあっても――、痛手を受けることはない。


 そこにチャーリーが別の不満の燻りを提示した。

 ヘルパ軍の最前列に配置される歩兵部隊だ。

 歩兵部隊は古の遊牧民の出身が多く、ヘルパ軍では出身から差別を受けていた。

 どれだけ武功を立てても、騎馬も許されず、出世もない。


 そこをチャーリーは狙った。

 ゲニアス国には、出身を問わない選抜をされた部隊がある。「銀の槍」だ。

 それを牽引にチャーリーが彼らと交渉する傍ら、フェリシアは総司令官の父に、彼らを軍に受け入れるだけでなく、彼らに初めから騎馬を許すように説得をしていた。彼らにはそれだけの経験があったのだ。


 父はその条件をあっさりと呑んだ。

 ヘルパ軍の歩兵部隊の強さは父も知るところで、軍に軋轢は生まないとの見立てを持ったのだ。


 こうして、もし、カークがこちらを裏切ったとしても、軍の勢力を削ぐことはできる算段がたったのだ。

 

 アクフルーメンの侵攻が予想よりも早く、カークと密約を締結する時間はなかったものの、つまるところ、今日の出来事は概ね『予定通り』のものだったのだ。

 フェリシアがルークに「戦場に行くのではない」と話したのは、――少し苦しいところはあるものの――全くの嘘ということではなかったのだ。

 

 予定と狂ったことは二つだけだった。

 一つは、両軍が対峙する時期だった。両軍が対峙――落ち合うのは、フェリシアが北西に赴きアクフルーメンを撃退してからの手はずだった。けれど、フェリシアが北西に行く必要はなくなり、それを独自に知ったヘルパ軍は、行軍を早めることになった。

 

 そして、もう一つは、フェリシアが宣言をし終わったときに訪れた、一瞬の晴れ間だ。

 こちらは予定にそもそも無かったことだったが、女神の愛し子の演出に仕上げをしてくれた。

 

 フェリシアは小さく息を吐いて、今日までの過程の疲れを振り切ると、一番の功労者に目を向けた。

 実際、大変な交渉だった。

 戦を避けて、尚かつ、不満を残さないように寝返らせたのだ。

 交渉の責任者を務めたチャーリーは、ヘンリーを超える逸材になるかもしれない。

 

 チャーリーの本当の功労は一般の兵には知らされてはいないが、適時に敵情を知らせてくれたとして、フェリシアは皆の前でチャーリーを称え、彼は頬を染めて賛辞を受け取った。

 今は仲間に囲まれ、何度も杯を満たされている。


 チャーリーが酔いつぶれないことを祈りながら、フェリシアは視線を移した。

 ゲニアス国が受け入れた「元」歩兵部隊は、その頑強な体格から、次々に腕相撲を挑まれている。

 彼らがこの地に馴染むのも、そう時間はかからないかもしれない。


 安堵の息をついたとき、広間に駆け込む者がいた。

 ヘンリーの部下の一人、北西軍に張り付いていた諜報員だ。

 すっと静寂と緊張が広間を覆ったが、息せき切った彼の顔を見て、緊張はすぐに解かれた。

 彼は笑顔のままに声を上げた。


「アクフルーメンが降伏しました」


 広間に轟くような歓声が上がった。



◇◇

 フェリシアは広間のお祭り騒ぎを抜けだし、執務室で一人、静寂を味わっていた。

 開け放した窓からは、昼間の厚い雲が消え去った空に、月が美しく浮かんでいるのが見える。

 フェリシアはじっと月に目を向けていたが、長閑な声が静寂をかき消した。


「お嬢ぉ、一人で泣くなんて止めろよ」

「泣いてなんかいないわ」


 フェリシアは振り返らず、ぼやけた月にひたすら顔を向けていた。


「はいはい」


 ヴィクターは、いつもより少し温かな声で、フェリシアの抗議を躱しながら、自分の背をフェリシア背にそっと凭せかけた。


「女神の愛し子、しっかり演じたな」

「そうね」


 気安さから、返事は短いものになる。


「格好良かった。凄いと思ったぞ」

「そう」


 もはや返事ではなく、気のない相槌となる。そんな彼女の態度に臆するヴィクターではない。彼はのんびりと話し続けた。


「お嬢が討たれないか、どうしても冷や冷やしていたが」

「そう」


 相槌は、殊更に軽いものになった。

 コナーのように口に出すことはなかったけれど、あの時、フェリシアも鼓動は跳ねていた。交渉で流れが決まっていたとはいえ、密約は締結まで至っていなかった。

 カークはフェリシアを簡単に討てる位置にいた。

 カークの裏切りを考慮しないわけにはいかなかった。カークが裏切らずとも、武功に逸る者が仕掛ける可能性もあった。「もしもの時」を頼む必要があったのだ。

 そして、それはフェリシアに鼓動が跳ねるほどの恐れを抱かせた。それでも、女神の愛し子は恐れを抱くわけにはいかない。必死に恐れを抑え込んでいたのだ。


「お嬢の姿は、どこから見ても女神の愛し子だったぞ」


 声が出なかった。

 ヴィクターの声は低く染み渡るような響きを持っていた。

 その響きは、彼にはフェリシアが内心に抱いていた恐怖も見切られていたことを分からせた。

 それでも、フェリシアが役目を果たしたと称えてくれたのだ。

 フェリシアは、ひたすら月に顔を向けた。


 ヴィクターがコツンと頭も凭せかけた。

「凄かったぞ。頑張ったな」

 

 染みこむような労りに、フェリシアは熱くなった目をひたすら瞬かせた。

 女神の愛し子たる自分が、役目を果たした安堵と心からの労りに泣く姿など、誰にも見せてはいけない。

 何度も瞬かせるしかなかった。


「あいつも頑張ったようだな。良かったな」


 とうとうフェリシアは堪えきれなくなった。

 涙は頬を塗らし、せめて嗚咽だけでも堪えようと手を口元に当てる。

 北西軍の指揮官を彼が務めていると知ってから、不安だった。自分の役割に自分の全てを集中しなければいけないときなのに、不安はどうしても収まらなかった。叶うものなら、フェリシアこそが彼の元に馳せ参じたかった。


 不安が安心と喜びに変わり、張り詰めていたものの全てが緩んで、フェリシアの涙は止まらなかった。


 ヴィクターはフェリシアが落ち着くまで、珍しくも沈黙をくれた。

 そして、彼女の涙がようやく収まったとき、長閑に疑問を投げかけた。


「お嬢ぉ、アクフルーメンがこんなに早く降伏したのはいいことなんだが、――ルークたち、間に合ったと思うか?」


 フェリシアは泣き疲れた頭を何とか回した。

 降伏の知らせの早馬がここまでたどり着く時間を考えると――、


――間に合ったことを祈るばかりだった。

 


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