第6話 一生に一度、それは今だと思うのです
行軍が始まることに緊張していたのだろうか。
眠りは浅いものとなってしまったようで、夢だとはっきり分かる夢を見ていた。
いつものように、別れ際にレイモンドに抱きしめられている。
彼の体温と気配に包まれたその時間は、幸せで、けれど胸に痛みが走るものだ。夢の中でもその痛みは無くならない。
彼はそっとフェリシアの腕をとり、傷痕に口づけを落とす。泣きたくなるほどに優しい口づけは、彼の抱えた傷を知らせ、胸の痛みは一層強くなる。
痛みにフェリシアが目を閉じる間に、彼はいつもの囁きを落とし、ゆっくりとフェリシアを離すはずだった。
けれど、あの日は違った。
婚約破棄されてしまう前の、レイモンドとの最後のお茶となったあの日、彼は傷跡に柔らかく口づけ、そして僅かに彼の痕を残した。息を詰めていたフェリシアがほっと息をついたとき、彼は再び口付け直した。
「――っ」
痕を刻みつけるような、熱く鋭い口付けに、思わず息が漏れてしまう。
その瞬間、我に返ったようにレイモンドは口付けを緩め、フェリシアの顔を見た。
向けられた彼の青い瞳を見て、ドクリと心臓が跳ねた。
縋るような切なさと、彼女を絡め取るような強さが混じった眼差しに、彼を抱き締めたい気持ちと逃げ出したい気持ちが入り乱れる。
小さく息をのんだフェリシアを、彼は再び抱き抱えた。
「フェリ、お願いだから、自分を大切にしておくれ」
いつもの囁きが、熱を帯びていた。
穏やかな彼とは違う、その熱に戸惑いながら、フェリシアはそっと抱き返した。彼は一段と力を込めて彼女を抱きしめ――、そして腕を緩めた。
彼の激情が収まったことに安堵しながら、けれど、彼を波立たせたものが分からず不安が過る。
彼が答えをくれることはなかった。
ただ優しく髪に口付け、そして初めての囁きを落とした。
「……君は私の命なんだ」
小さく、小さく落とされたその囁きは、夢の中でもフェリシアの耳に長く留まっていた。
夢の終わりに逆らわず、目を開けた。
寝台に朝日が差し込み、先ほどまでの時間が夢だったことを教えてくれる。けれど、腕の傷跡は、まるで、今、口づけを落とされたかのように熱く疼いていた。
今なら、あのとき、彼がどうしていつもと違う行動を取ったのか、分かるところはある。
分かるところはあるけれど――、
フェリシアは銀の髪をかき上げて夢を振り切ると、支度を始めたのだった。
◇◇
行軍の支度を整え、フェリシアたちは城門へと馬を進めた。全員が鎧に身を固め、いつでも戦闘に入る用意をしている。もう戦は起こり、隠密に動く時ではないからだ。
一刻も早く北東へ駆けつけようと、用意も気力も万端であったのに、フェリシアたちは城門で足止めを余儀なくされた。
門前は、同じく鎧に身を包んだ「銀の槍」隊に固められていたのだ。
「そこをどきなさい」
予想していたとはいえ、この非常時に取られた愚かな行動に、フェリシアの声は低くなる。フェリシアの苛立ちを感じ取って、彼女の愛馬は首を立ち上げ、耳を伏せた。
けれどもルークが退くことはなかった。
「王位継承権1位の方は、戦場に出ることを禁じられています」
ふっとフェリシアは笑いを零した。ルークはもう建前は捨てたらしい。
彼はフェリシアをここに留めるために、この時のために、駐留していたのだ。
『フェリ』
縋るような声が脳裏に過ったものの、フェリシアは微笑を浮かべたままだった。
「そうね。でも私は戦場に行くのではないわ」
ルークはフェリシアの言葉に失笑した。
「どこへ行くというのです?」
「付いてきて確かめたらどうかしら」
ルークの緊張に強ばった顔に、困惑が浮かぶのを目にしながら、フェリシアは愛馬に合図を送った。
即座に駆け出した馬の速度に応じて、フェリシアは身体を前傾にする。
邪魔をするなら排除すると通告してある。あの時の反応ならルークは覚悟しているはずだ。――もっとも、このような強引な排除は予想していなかったかもしれないが、そこは見解の相違とさせてもらおう。
全く止まる様子を見せないフェリシアの速度に、銀の槍隊は反射的に避けてしまい、隙間が生まれた。フェリシアはそこを逃すことなく、そのまま駆け抜けると、「開門!」と叫ぶ。背後からはヴィクターたちが駆けてくる音も聞こえた。
大慌てで開けられた門を抜けて、フェリシアたちの行軍は始まった。
馬が倒れないギリギリの速度で2日強行し、前方に湖が広がるのを目に入れたフェリシアは愛馬の脚を止めた。
それに続いて、一団も行軍を止める。誰も、声に出してフェリシアに問いかけることはなかったが、皆の視線は彼女に集まっていた。
フェリシアは視線を振り切って、最後尾のルークの場所まで引き返した。
彼も何も問いかけることはなかったが、はっきりと疑問を浮かべている。
フェリシアは苦笑した。
「ここでお別れよ」
ここから街道は二つに分かれる。
湖の西に進めば、アクフルーメンと戦闘中の北西軍に、東に進めばヘルパを迎撃する準備に追われている北東軍に向かうことになる。
ハッと息をのんだルークは、フェリシアを睨み付けた。
「我々は、貴女を戦場に行かせないこと、それが叶わなければ貴女を全力で守ることを厳命されている」
とうとう一切の建前を投げ捨てたルークに、フェリシアの苦笑が深まった。
「北西軍を率いているのは、彼だと知っているのでしょう?」
目の前の生真面目な隊長は、歯を噛みしめて答えを避けた。
それは答えを言っているようなものだ。
突如現れた者に軍が従い、しかも善戦する。それは、納得の上でその指揮官に従ったことを意味している。
そのような信用を得ることができる者など、そもそも数は限られている。
先代の総司令官の祖父や、女神の愛し子であり軍で2番目の権限を与えられたフェリシア、そして、――出身の垣根を壊した部隊を創設し、評価を高めたレイモンドぐらいなのだ。
もし、今まで隠れていた予想外の人物が現れたのだとしたら、ヘンリーは情報を隠す必要はなかった。
敵とのつながりがないか徹底的に調べ上げ、フェリシアに報告しただろう。
そうしなければ、北西軍の、ひいてはゲニアス国の今後に関わるからだ。
けれど、ヘンリーは情報を隠した。
隠してもいい相手だったのだ。
フェリシアに対して忠義だけでなく親愛を抱いてくれていたヘンリーが、彼女に情報を隠したのは、レイモンドに頼まれたからだろう。
レイモンドは、自分がここにいることを彼女に隠したかったはずだ。
なぜなら、彼は、情報を知ったフェリシアがどう動くかを予想できただろうから。
そして、彼の予想はもちろん正しかった。
彼女はこれから彼の予想通りの行動を取るのだ。――彼の望みに反する行動を。
『フェリ、お願いだから――』
祈るような彼の声を振り切り、フェリシアはルークに声をかけた。
「彼は上手く北西軍をまとめているようだけれど、軍との絆は浅いわ」
100人の名前と顔を覚えることはできても、彼らがどのような癖を持っているのか、今までどのような苦労や楽しみを重ねてきたのか、僅か1ヶ月で知ることは不可能だ。
「銀の槍は、彼のための部隊でしょう?」
ルークの背後に並んでいた隊員たちの顔が、悔しげに歪む。レイモンドの手足となって動くのは、まずは自分たちだと思っているのだろう。レイモンドによって創られた隊なのだ。それは正しい思いだ。
しかし、ルークは唸るように、言葉を返した。
「殿下の意思を守ることが第一だ」
フェリシアは片眉を上げて、異議を示した。
隣国が攻め込んできたという大きな国難に際して、それでも国難よりもレイモンドの個人的でしかない命令を優先するとは、やはり崇拝が過ぎる。
レイモンドがこの状況を狙って、部隊を創ったとは思いたくないけれど、結果としてルークはレイモンドの願望に添った行動を取っているのだろう。
フェリシアは溜息をついて、最後の手段を執ることにした。
鋭い音ともにルークの喉元に剣を突きつけた。
フェリシアの抜刀と剣の早さに追いつけず、ルークは身動きもできず息を止めた。
「今すぐ、彼を手伝いに向かいなさい」
「脅されようと――」
甘いわね。脅すのは今からなのよ。
心の内で苦笑しながら、フェリシアは剣を反転させて、ルークの言葉を遮った。
「なにをっ!」
フェリシアは口角を上げ、自分の剣をさらに「自分の」喉元に近づけた。ルークの目が大きく見開かれる。
「今すぐ、彼を助けに行かないと、首を切るわ」
沈黙が流れた。彼が従わざるを得ない理由を作って見せたというのに、ルークは逡巡を見せ始めたものの、まだ動こうとしない。
フェリシアは彼にだけ聞こえる囁きを零した。
「私の代わりに彼を手伝って。彼には慣れた部隊が必要よ」
「くそっ」
ルークの歯がみする音が聞こえた瞬間、彼は馬首を西に向けた。背後の部下たちは意気揚々と彼に倣う。ルークは顔をひねって、フェリシアを睨んだ。
「あの方の命令に背かせた貴女を――」
そこで言葉を途切れさせたルークは、忌々しげに顔をゆがめた。
さぞや、恨む思いがあるのだろう。フェリシアはそれを受け止めるつもりだったけれど、ルークは彼女の予想を裏切った。
「感謝します」
静かに言い置いて、彼は馬を駆けさせた。残る隊員たちもフェリシアに黙礼をして、彼を追って駆け出した。後ろ姿まで喜びに溢れた彼らを見送り、フェリシアは剣を収めた。
そして、ひたと前方に目を向けた。
いつも冷然としたダスティンは、何の揺らぎも見せずにフェリシアの視線を受け止めた。
◇◇
ダスティンの位置まで戻ったフェリシアに、彼は静かに声をかけた。
「私にあの手は通用しませんよ」
「分かっているわ」
悔しいことに、ダスティンの動きはフェリシアよりも速く、巧みだ。ダスティンならフェリシアが喉を切る前に、難なくフェリシアの剣を薙ぎ払うことができるだろう。
それが分かっている相手に、脅しなど効くはずもない。
そして、彼は職務としてもこの場にいることが許されている。
王位継承権1位を護衛することは、彼に課せられた役目なのだ。
ダスティンは、静かに言った。
「私はあの方の心を守るために、ここにいるのです」
ダスティンの放った言葉は、フェリシアの胸を突き刺した。
『君は私の命なんだ』
囁きがフェリシアの胸を締め付ける。
あの言葉は、レイモンドにとって比喩ではないのだろう。
私にもしもの事があれば、彼は――、
フェリシアは大きく息を吐いた。もう心は決めている。
「ダスティン。忠誠は大切だわ」
当然のことを今更に言われて、ダスティンは瞬きをした。
フェリシアはダスティンの黒い瞳に自分を映し、そして気持ちをぶつけた。
「でも、一生に一度くらい、自分の気持ちを優先するべきではないかしら」
ダスティンの目が見開かれた。彼の感情がはっきりと分かったのは、これが初めて、――もしかすると最後になるかもしれない。
影として、徹底的に忠誠を叩き込まれた彼には、驚くべき、耳を疑うような言葉だったろう。
内心で苦笑しながら、フェリシアは言葉を続けた。
「彼は今、一生に一度の危機に直面していると思うわ」
慣れない部隊を率いて、抗戦している。既に辺境伯が毒を盛られたように、アクフルーメンは、まず指揮官を狙う戦法を採るようだ。敵の攻撃の目標は、指揮官の彼となっているだろう。
けれど彼自身に付けられた護衛は、フェリシアの予想ではわずか1名だ。
レイモンドは自身の護衛を、――最強の護衛までをフェリシアに振り向けたからだ。
間違いなく、レイモンドは最大の危機に瀕している。
ダスティンの眉がほんの僅かだが、苦しそうに寄せられた。
「一生に一度よ」
フェリシアの言葉に大きく揺らいだダスティンは、目を閉じた。
フェリシアはその隙を逃さなかった。
ダスティン本人への動きなら、彼は防いでいただろう。けれどフェリシアの目標は彼ではなかった。
ダスティンの馬の尻を、押し出すように叩いたのだ。
訓練された馬は、反射的に数歩動いた。
馬を止めようとしたダスティンに、フェリシアは叫んだ。祈るように。
「私の代わりに、彼を守って!」
それは、恐らくはレイモンドがダスティンに命じた言葉と同じだったはずだ。
ダスティンは息を呑み、馬を止め損なう。
ゆっくりと馬は進み始めた。
ダスティンは、射殺すような鋭い眼差しをフェリシアに向けた。
「絶対に死ぬな。何があっても生き延びろ」
地を這うような低い声で、呪うように言い捨てると、ダスティンはフェリシアの返事も聞かずに駆け出していった。彼を追って、いくつかの気配が遠ざかったのを確かめてから、
フェリシアは馴染みの面々に顔を向けた。
「いやぁ、楽になったねぇ」
ヴィクターが晴れ晴れと嘯く。
馴染みの仲間は笑い声を上げた。
明るい笑い声に笑顔を浮かべたフェリシアの耳元には、囁きが蘇っていた。
――『お願いだから、自分を大切にしておくれ』――
大切にしているのよ。
フェリシアは囁きに胸の内で答えた。
4年もヘンリーをレイモンドに付けていた。だから、レイモンドがダスティンに託した思いも十分に分かっている。
それなのに、わずか1ヶ月でダスティンを追い返すとは我ながらひどいものだとは思う。
でもね、レイ、私はあなたの望みに添っているのよ。
厳しい戦いのためには、統率が肝要だ。
ここにはフェリシアと何年も過ごしてきた者しかいない。
作戦を無視して彼女を守ることだけに動こうとする者はいない。
戦いながら、けれどもいざというときは彼女を守る、それに慣れた者たちばかりだ。
フェリシアには自分を守るためにもこうするしかなかった。
もっとも、彼の守りを厚くして、戦いに向かう自分の心を守ろうとした思いを否定できないことは、一生の秘密だ。
多くの想いを奥底に押しやると、フェリシアはヴィクターたちに不敵な笑顔を向けた。
「さぁ、ヘルパを迎えに行きましょう」
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