第9話 フツとクロヒメ







 平べったい月が、低く架かる夜だった。

 あおーん、と遠くで犬が鳴いた。

 いそぎおこした焚き火の前で、白い少女が震えている。


(白い………)


 月夜の晩に魚突きをしていると、水中に大きな白いうおがたゆたっているのを見た。

 突いてやろうと近づくと、それは魚ではなく人であった。

 フツは、なにがなんだかよくわからない。


 これほど『白い』人がいるのだということにも驚いていた。

 直視できないほど、まばゆい白い人……。

 暖を取るためにあわてておこした焚き火の、赤い光に照らしてもまだ、白い。

 しかし里やむらにいる女とはあきらかにちがう。淡雪あわゆきよりもまだ白い、こんなヒトを見たことはなかった。


「なぜ私を、助けたの?」


 ようやく息を吹き返したサヒは、震えながらこういった。

 それに対して、フツは沈黙するしかなかった。

 フツにもよくわからない。


 フツには親も兄弟もいない。

 血縁も、うからもない。

 はじめから天涯孤独で、守るべき者も、守りたい者もいない。

 誰からも愛されたことがない少年が、誰かをかわいそうに思うことなどない。

 困っている者を助けたいと思ったこともない。

 それにもかかわらず、なぜサヒを助けたのか。


 人は、貧しさから人を殺す。

 飢えて、飢えて、飢えて、どうしようもなく……

 子を殺す。

 親を殺す。

 弱い者を殺す。

 生きるためには仕方がない、と。

 人を殺すことの罪深さに泣きわめき……しかし泣くことしかできず。

 だれかを殺さなければ、全員が飢えの道連れになるから。

 飢えを凌ぐための人殺しを、誰も責めることなどできない。

 殺すことが正しいか、殺さないことが正しいか、他人が決めることはできない。


 はじめ、この娘も口減らしに殺された人間かと思った。

 普通に、よくあることだったから。

 口減らしに捨てられた子どもがいても、フツはたいてい助けない。

 そいつの生涯を背負い切ることなどできないからだ。

 そのとき死んでいたほうがよかった生命だってあるんだ、と。

 にもかかわらず、なぜ、サヒを助けたのか。


「あなたが助けてくれなければどうなっていたかわからない」

 ずぶぬれで地に伏せる少女は、きらきらと輝く無垢なひとみで、フツにこういったのだ。


「ありがとう」


 ………と。

 そう言われたときの気持ちを、フツはうまく説明できない。

 胸の内が、ごちゃごちゃになってしまってなにがなんだかわからなくなる。

 これまで一度も味わったことのない感情だった。


 これより後、サヒとフツはともに過ごすようになる。

 この世になんのも持たないフツと、この世のをすべて断ち切られたサヒは、肩よせあって風雪をしのいだ。


 白と黒、光と影、表と裏、神の子と獣。

 異質な二人だったが、混ざりあうことのない者同士が混ざりあったとき、まるで血のつながった兄弟よりもより堅固な絆で結ばれあうのは、とても不思議であった。



 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




 サヒには、市井の生活は見るものすべてが新しい。

 辻に、ひしめくように並んだ店。

 食べ物のにおい、飯を炊く煙のにおい。


 すれ違うたくさんの人々、筋肉たぢからが盛り上がったたふさぎ姿の男や、色とりどりの衣を着て、思いのままに化粧けわいした女たち、牛に山のような粗朶そだをのせ、ムチをあてて曳いていく爺、よく通る声で歌いながら物を売る女……。


 笑い声、怒鳴り声、誰かを呼ぶ声、子どもの泣き声、あらゆる雑多な音が押し寄せてきて、サヒは初めて触れる世界に目が回りそうだった。


 活気は、育ちざかりのサヒの胃袋を刺激した。

「お腹が空いた」

 そう言うと、フツはどこからともなく飯を調達してくる。

 もちろん、どこかの店からかっぱらってくるのであるが。

 かっぱらうものがなければ、森へはいって獣を狩る。

 獣がいなければ、木の実を拾ったり、木の皮を煮て食べたりした。



 フツは狩りをするとき鳥を使った。



 ピイィィィィ………



 耳をつんざくような鋭い指笛の音。

 その指笛の音が鳴り止むとともに、どこからともなく舞いおりてくる黒い影。



 ――黒いカラスであった。


 フツは黒いカラスに「クロヒメ」と名をつけ、下僕しもべのように手懐けていた。


「なにか獲物を見つけたか?」

 するとクロヒメは鈎爪の隙間から、捕まえてきた子ねずみをボトリと落とした。

「ねずみか、こんな小さなの狩るなよ。こんなのうまくない」

 フツは唇を尖らせ、足元に転がっている子ねずみを拾うなり、空高くほうりなげた。

 クロヒメは翼を広げて飛び上がり、空のネズミを捕まえると、口に咥えたまま飛びさっていった。


「……ちぇっ、なんだよ」


 つまらなそうに小石を蹴るフツ。

 ところがしばらくすると、森の奥がざわざわとしはじめた。


「きたぞ!」


 舌なめずりをするフツ。

 クロヒメに追い立てられて、森の木の間から凄まじいいきおいで走り出てきたのはイノシシであった。

 フツは落ちていた木切れでイノシシの鼻っぱしらをしたたか殴りつけると、方向を失ったイノシシは自ら大木へ突進してぶつかり、動かなくなった。


「俺は、まちがえて人に生まれてきた」


 死んだイノシシを小刀で器用に解体しつつ、フツはそういった。


「本当は鳥に生まれてくるはずだったのさ」


 人ばなれした軽い身のこなし、鳥の言葉を解し、鳥を自在に操るフツを見ていると、本当にそうかもしれないと思えてくる。




 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




 サヒは美しい少女だった。

 集団にまぎれこんでも、顔を泥でよごしても、かならず男がよってきた。

 あるときサヒを力ずくで連れ去ろうとした野卑な男がいた。

 汚い手でサヒの肩にさわり、顔を近づけて匂いをかいでよろこんだ。


 サヒは振りはらったが、男の力は強く、びくともしない。

 闇にまぎれるように佇んでいたフツは、そっと男の背後から忍びより、男の腰に刺さっている太刀を音もなく抜いて、そのままズブズブと腰のあたりから肩口まで串刺しにした。


 動かなくなった男を足蹴にして倒し、太刀だけ抜いて血を拭った。

 人殺しをなんとも思っていないようだった。

 サヒは頭の先から足の先まで、べっとりと返り血を浴びていた。あまりのことに言葉が出てこなかった。


「だってサヒを、汚い手で触ったから」


 フツはいいわけするように、小声で呟いた。

 死んだ男から奪った太刀をゆっくり振りかぶり、狙いを定めて男の足を切り落とす。

「なんだあ、あんまり切れるやつじゃあないなあ」

 太刀の切れ味を試したかったようだ。


「太刀も使うの?」

 サヒは尋ねた。

 太刀を抜く仕草も、太刀を振るう姿も、どこかサマになっていた。とても見様見真似で振っているようにはみえない。


 うん、フツが頷いた。

「師がいる」

 フツには太刀の師がいるというのだ。

「知らなかった! どんな人? どこにいるの?」

 初めて知る師の存在に、サヒは興味をひかれた。


「あっちのほう」

 フツは幼児おさなごがするように、山の向こうを指さした。

「会ってみたいな」

 サヒがいった。

「そうだね、いつかね」

 フツが答えた。





 そんなやりとりからしばらくして、二人はフツの師であるタカクラジに会うため、険しい道のりを歩き、クマノの山中までやってきた。

 そこで偶然にも、熊に追い回されて瀕死の状態になっているスメラギに出会ったのである。

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