第8話 トミノフツクミ






「いったいどういうことだ!」

 サヒは、饗宴みあえの席で酒にうらいでいい気持になっているスメラギを見つけ、鋭い剣幕で責め問うた。

「……おお、誰かと思ったら、イスズヒメ(※サヒの巫女名)ではないか。待っていたぞ、ここに座れ。座って酌をせよ」

 スメラギは隣に座っていた女を押しのけ、代わりにサヒが座るように促したが、サヒはそれらをいっさい無視し、墨をいれた鋭い目でスメラギを睨めつけた。



「わたしをマキムクの巫女頭みこがしらにせよと、そう命じたと聞いた。なぜそんな勝手なことをする?」

「………なぜ怒っている? 喜ぶと思ったのだが」

 スメラギはしれっとうそぶく。

「わたしは母の消息をたずねてここに来たのだ」



「まあ、ここに座れといっておる」

 スメラギは盃を口元にもっていったまま、じっとサヒを見ていた。口元は笑っていたが、目は笑っていなかった。その目を撥ねつけるように、サヒはスメラギを睨みつける。

「いやだ!」

 周囲の音が、止んだ。


「わたしはお前の思い通りになる女じゃない! 舞えといわれれば舞い、ここに座れといわれれば座り、酒をつげといわれれば酒をぐようなそういう女じゃない!」


 太鼓の音、笛の、人々の話し声も静まりかえり、いままで笑いさざめいていた人々が一斉にこちらを見た。

 でもサヒはもう止まらない。

「巫女は、斎垣いかきの内なるものだ。お前のいいようにはならない!」



「座れ」

 スメラギは静かにいった。憎らしいことに、少しも怯むようすがなかった。

「なおのこと、わしはお前をいいようにしたいぞ」

 そのときチラリと微笑んだ。自嘲が滲んだような、そんな笑い方だった。その一瞬、本心が透けて見えた。

「話しにならん、お前とは。もうほっといてくれ、わたしのことも、マキムクのことも」

 サヒは怒りにまかせて饗宴の席を出ていった。







 すっかり日が落ちて、屋敷の外は暗闇だった。

「フツ」

 サヒは暗闇に呼びかける。

「マキムクの宮へ帰りたい。ここからそう遠くないはずだ。フツ、夜目のきかないわたしの代わりに導いておくれ」

 すると闇夜がざわざわと動き、ふと獣の匂いが鼻先をかすめた。

 フツは、サヒの手にも身体にも触れようとしない。ただサヒの半歩先を、サヒの歩調に合わせて先導した。

 サヒはそおっと手を伸ばし、フツのつるばみの肩掛けの端を掴んだ。するとなにかとても穏やかな気持ちをとりもどし、安心して暗闇を進むことができた。


「フツ、覚えている?」

 サヒは暗闇のすぐむこうにある背中に話しかけた。

「わたし、あなたを始めて見たとき、犬が泳いできたかと思ったのよ、黒い大きな犬………」

 フツは返事をしない。しかし話さないのはいつものことなのでサヒは気にもとめない。聞いているのか、いないのか。人語を解するのか、解さないのか……しかしサヒは彼がきちんと言葉を理解していることを知っている。ただ余計な言葉を話さないだけだ。あまりに無口すぎるので、出会って間もないころはフツがおしなのではないか思っていたほどだった。

「フツがいなければ、わたしは今ここに生きてはいなかったわ」

 大げさではなく、真剣にそう考えていた。

 マキムクの巫女王の娘として生まれたが、突然の戦乱でマキムクを追われ、山中に潜伏し、そして……

(生きながらに水に沈められた。あのときも……――)

 フツがいなければ、どうなっていたかわからない。





 ……あの日。

 マキムクを追われたサヒたちが隠れて住まう山懐やまふところに、訪ねてくる旅人がいた。

 シャーン、シャーン、と聞き慣じみのない金属かねが鳴っていた。

 やわらかく響くぬりての音とはちがう、もっと繊細な、おそらく韓渡からわたりの白銀の音だ。

 見ると、老婆が一人立っていた。手には玉杖ぎょくじょうが握られ、それを地面に突くたびに、澄んだ音が風にのって響き渡っていた。

 老婆は背が小さく、すっぽりと頭から頭巾をかぶっているので顔は見えなかったが、なにやら禍々まがまがしい気配を感じ、サヒはすこし身震いしたのを覚えている。

「みつけたぞ、こんなところに隠れておったか……野ネズミのように」

 老婆は、まことに愉快そうに声をたてて笑った。

「イスズヒメぇ……」

 驚くことに、老婆はサヒの巫女名を知っていた。



 なぜ知っているのだろう、わたしはこんなババ見たこともないのに。サヒはきょとんと赤松の落ち葉の上に腰を掛けていた。良い天気なので、汁物にいれるきのこを採ってこようと山にはいった……そんな何でもない日のできごとだった。

「トミノフツクミさま、この者をどうなされますか」

 あとに続いてやってきた従者が数名いた。従者らは老婆のことを『トミノフツクミ』と呼び、ひどく畏れているようだった。

(トミノフツクミ…………)

 サヒは口の中でその聞き慣れない名を反芻した。聞いたことのない名前だった。

「何をしている、すぐに捕らえよ。イスズヒメはだ」

 トミノフツクミに命じられた従者は、屈強な男たちばかりだった。サヒなどなんの苦もなく捕らえられ、後ろ手に縛り上げられる。

「痛いっ」

「痛いか、そうか、そうだろうとも、すぐに楽にしてやろうなあ」

 気違いじみた笑い声はさらに高らかに響いた。

なかウミに放り込んで、みずちにえにでもしてしまえ!」




「おまえたちが長く根城としていたマキムクは、もうもとのマキムクではないぞ。わしがこの手で徹底的に壊し、滅ぼし、焼き尽くし、あの偉そうな火の巫女も殺し、腹心どもも血祭りにしてやった。我が手で、こうして、こうして、こうして、二度と蘇らぬように握り潰してやったぞ」




 その後なにか弱い毒でも含まされたのか、サヒの頭は朦朧としていた。

「ハヤカレ、ナミカレ、オソカレ、シツカレ、ナカカレ、ホツカレ......」

 虻の羽音のようなまじないの声が、低く響いていた。サヒの魂を御贄みにえにするため、二度と水面に浮かんでこないようにほどこす呪詛かなにかなのだろう。

 おそろしいほど澄みきった、降るような星月夜だった。

 サヒは二度と浮かんでこられぬよう腰に大きな石を結わえつけられた。そして舟で湖の中ほどまできて、

「早うね!」

 トミノフツクミに突き飛ばされ、サヒはなんの抵抗もなく水に落とされた。


 その一瞬、たしかに見た。

 風にふわりと舞いあがった黒い被衣物かずきものの奥の、トミノフツクミの顔だった。

(なんという禍々まがまがしい………)

 しわだらけの顔面いっぱいに描かれた大きな一つ目玉のずみ。その不気味な一つ目玉がぎょろりとこちらを睨んでいたのだ。

 その大きな目玉を見つめつつ、サヒはゆっくりと水中に没していった。

 トミノフツクミの一つ目玉は、サヒが確実に沈んだかを確かめるように水中を何度も覗きこんでいるのがわかった。

(苦しい、死んでしまう……、なぜわたしが……わたしばかりがこんな目に)

 サヒは腰に結わえた石にひきずられ、どんどん深みに沈んでいった。問いかけに対する答えは、ありはしなかった。

(……お母さま、助けて。ヤシオ姉、助けて)




『サヒ、お前はまだやることがある』

 薄れゆく意識の間に、脳髄に響く声……それは神の声なのかもしれず、行方知れずの母の声なのかもしれず、はたまたサヒ自身の声なのかもしれなかった。




 ほの暗い水のとおい向こうから、なにやら黒い影が近づいてくるのがわかった。

 黒っぽい小さな影がこちらに泳いでくる。

(………犬?)

 それが犬ではなく、痩せぎすで、小柄で、まっくろな肌の少年だとわかったのは、水中から助けだされ、すんでのところで息を吹き返した、そのあとのことだ。

 それがサヒがフツと出会った最初であった。





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