第5話 スメラギ




 サヒの意識は、光のささない闇の底からひと筋の光がさす方角へと、ゆっくりと昇って行った。

 その途中、とおい昔にどこかで聴いた歌声がどこからともなく聞こえてきた。


(お母さま……? ヤシオ姉さん……?)


 女たちの賑やかな笑い声と、手拍子、足拍子、太鼓の音。

 記憶のなかで、ぼんやりと霞む景色。

 サヒ自身、すっかり忘れていた、この世に生をうけたころ、その頃の断片的な記憶……。







 すずよれ れよすず

 すずよ生れ 生れよすず


 みなそこの ひじの ひだせる すずなりし

 みすずなりし すずなりし


 たたらひの ひをつぐこ

 うずのこ わくご


 さーあれ さあれ


 あまつかみ くにつかみ

 よも てらしませ


 あめまつる ひのかみ

 やも てらしませ


 いとこやの さひのこや

 ありけや ありけ すずおうてや


 えましかれ よろずとせ……







「サヒ!!」


 そのとき、いきなりぐいっと肩を掴まれ、一瞬で現実に引きもどされた。

 はっと目をあけると、いちばんに目に飛びこんできたのは、切羽詰まった男の顔だった。


「え?」


 とっさに状況がつかめないサヒ。

 わけがわからないまま、男はガクガクとサヒの体を揺さぶってきた。

 サヒはとっさに抵抗することもできず、揺さぶられるままになっていたが、


「やめよ!」


 …と一括し、男をようやく突き飛ばし、ついでにむこうずねを蹴あげた。

 げほげほと、苦しげに咳きこむサヒ。

 まさか女に蹴られるとは思わず、脛をかかえて尻もちをつく男。

われにこのような無礼をはたらけども、罪に問われぬなどお前くらいぞッ!」

 男はそうとう痛いのか、苦しげに顔をゆがめている。

「はっ、いきなり女にしがみついておいて……もっと他に言うべきことがあるのではないか?」

 一瞬で正気に戻ったサヒは、眉も動かさず鼻で笑った。





 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−






 実は、サヒはこの男を知っていた。

 少し前のことになるが、クマノの山中で大熊に追いまわされているところを助けたのだ。

 男は、熊の爪にやられたのか、小枝にひっかけたのか、きぬはかまもやぶれていたが、銀の甲冑や朱の首玉など、一目で貴人あてびととわかるような格好なりをしていた。

 従者や側人も多く引きつれていただろうに、逃げまどううちにちりぢりになってしまったのか、近くには誰の姿も見えなかった。

「死んだか?」

 大熊を追いはらったあと、サヒは男にまだ息があるかを確かめた。

「……いきている」

 弱々しく、男は答えた。……が、答えたきり気を失ってしまった。



「フツ、背丈のある男だがかつげるか? まだ息があるのにおいていけまい」

 サヒが宙に問いかけると、サヒの背後にある影が音もなく動いて、背中を丸めた痩せた少年がどこからともなく現れた。


 少年は、「はい」とも「いいえ」ともいわず、無言のまま、気を失った男を担ぎ上げると、先に立って歩き始めた。

 サヒもあとに続いて歩いていく。



「思わぬことで道草をくった。フツ、まだ道のりは遠いのか?」

 サヒは、フツの案内で、彼が生まれ育った故郷を訪ねていた。

「……………」

 サヒの問いかけに、フツと呼ばれた少年は返事もしない。

 しかし答える代わりに、ずっと伏せていた顔をはじめて上げた。

 その視線につられて、サヒもそちらの方に目をやると……そこには、そびえるような巨漢が立っていた。

 大きな男だった。長く垂らした髪もヒゲも真っ白な老人だったが、両肌を脱いだ衣からは隆々たる筋肉が盛り上がっていた。

 フツは、担いでいた男を静かに降ろすと、大きな男のまえに片膝をついた、



「フツ、お前が来ることはわかっていたぞ。昨夜、夢をみたのだ」

 大きな男は、自らの名を『タカクラジ』と名乗った。


「昨夜、タケミカヅチの神が我が夢に現れた。そしてわしにこう言うた。これより後にやってくる天孫すめみまにフツノミタマを献上し、これにより国内くぬち擾乱じょうらん言向ことむけよ(※平定せよ)、と」


 タカクラジは、続けていった。

「タケミカズチの神が光り輝いたとたん、フツ、お前のみたまが遊離し、黄金の大鳥おおとりり、我がかいなより翔びたつのがえた。すると、幾年も帰っていない我が息子フツノミタマ客人まろうどを携えてやってきた。この夢は予兆であった……」

 フツは片膝をつき、いつものようにもだしたまま聞いていた。わかっているのかいないのか、どんな感情も読み取れない表情だった。

 つぎにタカクラジは死んだように斃れふし、気を失っている男の方をまじまじとみつめ、「おお」とつぶやいた。

 しかしそれ以上はなにもいわず、やしろへ連れ帰り、手当てして差し上げるようにとだけフツに命じた。

 ただ、社へと入っていくサヒの後ろ姿だけは、なにか怪訝なものでも見るように、タカクラジはずっと目で追っていた。







「スメラギ」

 森で行きあったこの男のことを、タカクラジはそう呼んだ。

 まるで昔から知っている者のような口ぶりだった。

青松葉あおまつばの葉が、細きへいの口を貫きて、中の酒に落ちたようなもの」

 タカクラジは、この広大なクマノの森で、スメラギがフツとともにここへ導かれてきた偶然をそんなふうに例えた。

 それほどの奇貨であった。





 男は、二、三日ものあいだ眠りこけ、ようやく目を醒ました。

 彼はみずからのことを西の辺境ほとりらすひとごのかみだ、といった。


「われのことをツクシオキミと呼ぶものもいるし、ヒジリノミコと呼ぶものもいる。スメミマとも、スメラギとも、ミコトサマとも呼ばれる、そなたも好きなように呼ぶが良い」


 身につけた物や仕草から、位のある人物らしいことはサヒにもわかったが、具体的にどれほどの人物であるのか、世間知らずのサヒにはよくわからない。


 ただ病から回復するにつれ、スメラギという男の容姿が次第にはっきりとしはじめた。

 顴骨かんこつが高く、鼻筋がとおっている。はっきりした黒い眉に、二重のまぶた……確かに、ヤマトの土人くにびとにはあまり見ない顔立ちをしていた。

 日に焼けた浅黒い肌をしているのは、長旅のせいかもしれない。

 サヒよりもだいぶ年上のように見えるが、ときおり、眸光ひとみを踊らせて楽しげに談笑するときもあり、そんなときは年若としわかくも見えた。


 ちなみにクマノではその後、散り散りになっていた彼の部下いくさの大部分が彼のもとに戻ってきたのだが、総じてみな彼の無事を喜んだ。同胞の絆は、なかなかに硬いもののようだった。

 




 サヒは薬草に詳しかったから、野草を煮出してスメラギの傷の手当もした。

「お前」

 サヒは、スメラギをお前呼ばわりした。

 ヤマトの土人くにびとからしてみると、どれほど身分が高い貴人あてびとであろうとただの異国人とつくにびとである。

 サヒが価値を認めなければ、サヒみずから彼にぬかづくつもりはなかった。

「……おまえ、と?」

 しかしスメラギはどういうつもりか、意外にも腹を立てるそぶりを見せず、くるりと起き上がってサヒのほうに向き直った。小娘のいうことだから間に受けていないのかもしれなかった。


 サヒはズバリと聞いた。

「お前、だいぶ人をあやめただろう?」

 スメラギは言葉を失った。

「……そんなに血の匂いが染み付いているか?」

 すこしおどけたように、自分の身体の匂いを嗅ぐふりをする。

 サヒは「ちがう、匂いなどではない」といい、

「大熊からお前を助けたあのとき、お前の腰帯こしおびいばらのツルがきつく巻きつけてあった。いかにも毒々しい、瘴気に満ちた棘だった。まるで呪詛とごいのような……」

 と、言葉をにごした。


 スメラギには覚えがない。

「そんなものいつの間に巻きついたのか? 山深き道を彷徨ったゆえか……」

 サヒは小首をかしげ、闇を透かし見るようなしぐさをした。

「……ニシキトベ」

「にしき、とべ?」

 思わずはっと息を呑んだ。スメラギには思いあたることがあったのだ。

丹敷浦にしきのうらというところで、邑の老女をころした。皇軍にまつろわぬといったからだ。そいつの名がニシキトベといった。それをなぜ、お前が知っている?」

 怪訝そうに首をかしげるスメラギ。

「さあ? お前の顔に、書いてある」

 サヒは冗談めかして笑った。はじめて見る笑みであった。

「……書いて?」

 そんなわけはないのに、スメラギは思わず自らの顔を衣の袖でごしごしと拭った。





 サヒは頷き、

「棘に、その老女の呪詛とごいがかかっていた。呪詛とごうたのは老女だが、その恨みは老女のものだけではない。お前の殺した幾百、幾千の悪霊まがつひが束となって大熊を呼び寄せ、お前の腰帯めがけて殺到するように仕向けていたのだ」

 サヒはその時とっさに、スメラギの腰帯に固く結びつけられていた棘のツルを引きちぎり遠くに放りなげた。すると、大熊は急にくるりと向きを変え、棘を追いかけるようにその方向へと走りさっていったのだった。


「……………」

 ごくりと生唾を飲み込む音がした。

 小娘のたわごとだと笑って聞きながすことができればよかった。

 しかしスメラギにはそれができなかった。なぜなら……。

 なぜならこれまでの戦いで彼が奪った生命も多かったが、かけがえのない肉親や仲間、大切な部下たちをも失ってきたのだから。

 まるで、自分の手足を一つ一つもぎとられるように、順番に。

「自分は皇軍だ」と信じこそすれ、神の加護があるにもかかわらず「なぜこれほどまでに負けるのか」と問わずにはいられないほどの苦しい戦況であった。



「名は?」

 ついサヒの名を尋ねた。

 改めて、この小娘の顔を見たというかんじだった。

 しかし、サヒはこのとき答えなかった。

 たまたま行きあった旅人の傷の手当をしているだけだと思っていたからだ。そんな相手にまでいちいち名告なのっていては堪らない。

 ――サヒが名をげたのは、これよりもう少し後のことになる。



「ほお、巫女か。おもしろき女子おなごだ」

 戸口に寄りかかり、この会話を聞くものがいた。

 タカクラジである。

「フツが連れてきただけのことはある」

 そして、砂粒の音すらたてずその場を後にした。










【補足】


 スメラギとは、スメラミコト、ひいては神武天皇のことをさします。

 古代史を知る方はご存知でしょうが、「神武」は諡(おくりな)であり、死してのちにつけれられた名です。生前は別の名で呼ばれていたと思われるのですが、日常で忌み名は使わないだろうし、「伊波礼毘古命」もイワレムラ制圧後の通り名だとすると、時系列的に適当でない。狭野命という幼名を使うような年齢じゃない。

 ……本当に、最後の最後まで悩んだ末、当面のあいだは神武天皇のことを「スメラギ」と呼ぶことにしました。古代はむつかしいです。




 ……で、ようやく、神武天皇のような有名人が出てきたわけですが、今回の物語の背景的には、神武天皇が大阪湾(ちぬの海)で敗北したため、紀伊半島へ迂回し、新宮から上陸、熊野古道を通り、宇陀へと抜ける途中のお話。

 高倉下(タカクラジ)が神から賜った韴霊(ふつのみたま)という剣を神武天皇に与え、それによって天下平定の一助としたというエピソードを脚色しています。




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