第4話 憑依






意識が弾けとび、サヒの中に別のが入ってくるのがわかった。

視界が、暗転する。

ドサリと音を立てて倒れ伏す身体。


「………………」


死肉を喰らう蛆虫うじむしが這い回るかすかな音だけが、底にひくく鳴り響いていた。

その不気味な静けさのあと。


サヒの肉体がむくりと起き上がる。

大義そうに身体をゆすり、ふらつきながら立ち上がった。


『……ツミハサマ、ノ、モトヘ…、カエル……』


手がサヒの胸元をまさぐり、いさなの喉骨を、男鹿おしかの革紐でしばった古い首飾りをさがしだし、ぎゅっと握りしめる。






……――これは、その昔。

クマワニがツミハとともに、あらゆる国という国を巡っていたころのこと。

海道うみつじを経て、隠岐オキへと向かう途中、突如、うしお波涛はとうがまきおこり、ふねが大揺れにゆれたことがある。


「何事か!?」

海中わたなかを覗き込むと、艇の下に黒い大きな魚影が見えた。

「おおお!」

ゆうに舟底を覆いつくすほどの、巨大ないさなが海中にひそんでいた。

鯨は、舟上の人をなぶるように、尾で大波をつくっては、船をゆらして遊んだ。

海神わたつみだ! 海神が鯨となってわれらの船を沈めようとしている!」

水夫かこらは真っ青になって、船板にはいつくばってしまった。


このままでは、全員が船から放りだされるは必至である。

クマワニはくるくると衣を脱いでたふさぎとなり、もりを手にとった。

ゆっくりと魚影を観察している。

(銛は、二本きりしかない……)

クマワニは、ここ、というときに、満身のちからをかけて振りかぶり、銛先を鯨の鼻先にむけて射ちこんだ。


「命中した!」

赤い血が波間に散った。

が、負傷した鯨はなおも激しく暴れまわり、波が山のようになって舟を翻弄した。舟は激しくゆさぶられ、ツミハも人々も放りだされぬようふなばたに齧りつくのに必死だった。

(このままではツミハさまが……)

クマワニは残ったもりを手にとるなり、ひとり、海へと飛びこんでいった。


波間に姿をけしたクマワニだったが、二度と浮かんでくることはなかった。

ツミハはクマワニの死を哀しみ、水夫らは海神の霊威に畏れおののいた。


ところが舟が岸についてみると、先にクマワニが待っているではないか。

たふさぎもつけない真っ裸で。


「おまえ、喰われたのではなかったのか」

驚きあきれる一同。

がまことに海神であったら、喰われる心づもりをしていた」

驚くべきことに、海辺には銛がささったままの鯨が仰向けになって死んでいた。

「褌はほどけて、喰われてしまった……」

そのせいでクマワニは真っ裸になってしまったのだ。

「なんてやつだ!」

一同、驚き呆れ、たまらず大声で笑った。


ツミハも大いに笑い、

「こんな益荒男ますらおは見たことがない。われがよみしよう、熊のような図体をした、わに(※サメの古名)のような勇敢な男だと」

といって、このとき初めてクマワニという名を授かったのだ。


仕留めた鯨は、佐渡の族人うからびととともに食し、喉骨をもらって首飾りにした。

そのときの誇らしい気持ちがみずみずしく蘇り、サヒの身体にも喜びが染みだしてくるように感じた――……。





−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





殯の宮のなかは、臭いをかぎつけた羽虫がたくさん集まってきていた。

ぶんぶんとうるさくまといつく虫たちを手で追い払い、サヒの身体をしろとしたクマワニがゆらりと立ち上がる。


『ツミハサマノ、モトヘ、カエル』


喉奥からは、低く、しゃがれた男の声が、枯れた風のように漏れた。

身体を取られたサヒは、もはや抵抗する術がない。


巫女が神降ろしをするときは、かならず審神者サニワを伴うのが鉄則だ。

なぜなら、神降ろしをしている巫女は抜け殻のようになってしまうため、巫女の口を介して語られる神託を受け取るには、審神者がいなくては意味をなさないからだ。

また巫女は、憑いた神をその身から自力で引き剥がすことができない。

遊離した魂はそのまま黄泉国へと引き込まれてしまうこともある。

だからこそ巫女のほかに、憑いた神をはらうため、審神者が同伴しなければならないのは自明であった。

神降ろしとはそれほど危険な神事であり、軽々しくやってはいけないことなのだ。









「クマワニ……」

現身うつしみから追い出されたサヒの魂は、黄泉国よもつくにとの境目にとどまってた。

彼に対する負い目もあって、サヒにはクマワニの狼藉ろうぜきを責めることができない。

ただ黄泉国との道股ちまたで、地に這いつくばってでも生きようとする彼の姿をみつめていた。


しかしそこに佇んでいると、サヒは自らの肉体を通じてクマワニの魂にふれることができた。

形があるようでないものや、においや、味のようなもの。

人の声や、音や、記憶のようなもの。

クマワニのなかの雑多な思念が、浮かんでは消えていった。

サヒはある声を聞いた。






「わたし、殺されるかもしれない」

怯えたような女の声だった。


「どうして、そんなことを思うんだい?」

これは、クマワニの声。


「だって、何人も……わたしが知るかぎりでも三人もいなくなった」

「いなくなった?」

「おそらく殺されたんだわ」


「なぜそう思うんだ?」

「だってみな神託をきく審神者サニワだから。みな正しく神託を宣ったから。だって正しく宣らなければ、わたしたちは霊力ちからを失ってしまう。だから正しく神託した。だが正しい神託を宣れば、に消されてしまう。それはにとって知られたくない真実だから……」

「あの人たちとは?」

女はぶるぶると震え、何も言わなかった。

「次に審神者になるのは、このわたしなのよ……」

「……ムメどの」

「わたしはほふられるのだろう、この邪悪なマキムクに。オヅノどの(※クマワニの別名)、あなたには良くしてもらった。わたしのことを忘れないでおくれね……」



「!!」

そのあと耳を塞ぎたくなるような、なんともいえぬ気持ちの悪い感覚に、サヒは包まれ、声にならない声をあげた。


(これはなに? こんな……)


苦しい。

息ができない。

引き裂かれるような、苦しみ。憎らしい……、哀しみ、もう戻らない。暗闇。どこまでも続く、奈落。

落ちていく感覚。







そのころサヒの肉体に憑いたクマワニは、みずからもがりの宮に火をつけ、蛆虫だらけの遺骸ごとすべてを燃やしつくした。

火を吹いて燃えさかる宮と、天へと登っていく黒煙を見送り、そして自分は川のほうへと歩いていった。


「おい。……だれだお前」

不審そうに、サヒもとい、クマワニを呼び止める声。

ゆっくりと、声の主をふりかえるクマワニ。

そこには一人の男が佇んでいた。

「サヒ、じゃないな?」

サヒの姿かたちをしているが、肩を怒らせ、外股で、のしのしと大熊のように歩く姿はとても女の仕草とは思われない。

「お前、だれだ」

澄んだサヒの眼差しとは似てもにつかない、ドロリと粘りつくような目の色に、おもわず怯む男。……無理もない、クマワニはすでに黄泉平坂よもつひらさかへ向かうべき死者なのだから。


『ワガ名ハ、クマワニ。ツミハサマ、ノ……モトヘ、カエル……』











  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る