第3話 神降ろし




 いま、サヒの眼の前にはクマワニの遺骸なきがらが横たわっている。

 ここはもがりの宮―――死者を弔う場所だ。

 肉体を離れた魂が迷うことなく、黄泉の国へと旅立つことができるよう見送るのがサヒの役目だ。

 殯をとり行うのは、これが初めてではない。

 以前、ともに暮らしていた姉巫女が病で亡くなったとき、サヒは殯を経験していた。ただしこれほど寂しい、ひとりきりの黄泉送りをするのは初めてであった。





 サヒは、幼い頃の記憶があまりない。

 薄ぼんやりとした、霧がかったような記憶しかない。

 父の顔はおろか、母の面影すら、輪郭をむすばない。

 だからこそクマワニに聞いた父と母の話は、それだけでサヒにとって貴重なものだった。

 しかしそのクマワニをも失った……サヒの喪失感ははかりしれないものがあった。


 サヒ自身が鮮明に覚えている、もっとも古い記憶……――それはいくさの記憶であった。

 おそらく六歳むっつか、七歳ななつの頃だったと思う。寝ているところを叩き起こされ、夢うつつのまま乳母ちおもの背中におぶさって逃げた。

 暗闇に幾重にも尾を引き、飛びかう火箭ひやの群れ。

 泣き叫ぶ声、怒号、雑踏、揺れる地面、汗と血のにおい、煙のにおい。

 必死に逃げる、乳母の激しい息遣い。


 気がついたときは、深い山の……、見知らぬ洞穴の中だった。

「ヤシオねえ!」

 乳母のほかにも、知っている姉巫女らの顔もあった。

「サヒちゃん、よかった。無事だったの?」

 姉巫女もサヒの無事を喜んでくれた。

 しかしそこに母の顔はなかった。

「お母さまは?」

 サヒの問いに答える者はいなかった。なぜだれも答えなかったのか……。幼いサヒにはその意味がわからなかった。





「あいつら、マキムクを空け渡せといってきた」

 焚き火を囲んで、大人たちが神妙な面持ちで話しをしていた。


「突然やってきていきなりそういってきたのよ。私は、そんなことはできませぬと突っぱねた。そしたらいきなり夜襲をかけてきた。いまマキムクは兵士でごった返している。今マキムクに戻れば、殺されるにちがいない」


「いったいだれがこんなひどいことを」

「……ニギハヤヒさまの名のもとに、と言っておった」

「まさか、そんな。ニギハヤヒさまがそんなことするはずがない!」


 ニギハヤヒとは、生駒にあるアスカの宮にまします大王おおきみの名だ。マキムクは大王一族と長く、友好的な関係をつづけてきたはずだ。それが、なぜ態度を急変させたのか。


「……わからない」

「そもそも、なにが望みなのか。マキムクは斎宮いつきのみやぞ、くがねも馬も、奪うに値するようなものもないぞ」

「それもわからない。だが、巫女はいらんといった。マキムクの巫女はどこへなりと放逐ほうちくせしめよと。でなければ殺す、と」

「そんな無茶なこと……タタラヒメさまさえいれば、このような暴虐しいわざゆるされざるものを……」


 タタラヒメとは、サヒの母の名だ。

 子供ながら、大人の話に耳をそばだてた。

 お母さまはおられぬということなのだろうか。お母さまはどこへ行ってしまったというのか……。


「さあサヒさまは、もう遅いのであちらで休みましょう」

 年長のヤシオがサヒの聞き耳を塞ぐように立ち、洞穴の奥へといざなった。

「お母さまは? お母さまはいないの?」

 ヤシオはしばらく沈黙し、やがて首をふった。

「まだこちらにはおいでにならないわ。でも、そのうち……」

「そのうち?」

「………………」

「サヒのところに来てくれる?」

 無垢な幼子のまなざし。その目から逃れるようにヤシオは言葉をにごした。

「………さあサヒさま、夜も更けました。もうお休みにならなければ」







 しかしいつまで待てども、母が現れることはなかった。

 そしてある年の春、ヤシオが死んだ。

 母代わりとして、姉代わりとして、なにくれとなくサヒを気にかけてくれたヤシオが死んだ。

 もともと病がちだったが、慣れない山の隠遁生活のせいで、寒さと飢えに悩まされ、その苦境の末の病死であった。

 骨と皮だけにやつれたヤシオは、あまりにも哀れな最期であった。

 サヒは何日も慟哭おらび、ヤシオのために嘆き悲しんだ。

 はじめてサヒが殯を行い、黄泉送りをした相手は、姉巫女のヤシオであった。






 殯の宮は、木の柱と稲藁いなわらでできた簡素な宮だ。

 死者を黄泉に送ったあとは、亡骸なきがらとともに燃やしてしまうからだ。

 静かに横たわったクマワニを前に、サヒは静かに片膝をついて座っていた。

 ここには誰も来ない。

 死者と、死者を黄泉国よもつくにへと送りだす者のためだけの場所だった。


 サヒは顔も手も、衣も、血と汗と涙で汚れていた。

 血を浴びたままの衣は、異様な匂いを放っていた。

 しかしサヒは気にもとめない。

 これはクマワニの流した血のにおいを、自分の皮膚の中、血肉の奥、骨の髄までしっかりと沁みこませたいがためであった。

 二度と、忘れないために。

 クマワニのことを、クマワニが話したことを、そして犯してしまった自分の過ちを。



「サヒさま、わたしとともに参りましょう。ツミハさまのおられる阿波アワの宮へ。ツミハさまはサヒさまに会える日を、首を長くして待ちわびております」

 生前、クマワニは一刻も早く、サヒをツミハのもとへと連れて行きたいといっていた。最愛の娘が生きていたと知ったら、ツミハがどれほど喜ぶかしれないと。


 しかしサヒはその願いを聞き入れることができなかった。


「まだ阿波の宮へは、行けない」

 サヒはクマワニの願いを断った。


 あの戦のあと、サヒたちマキムクの巫女はちりぢりに逃散し、もうお互いの消息もわからない。

 しかしサヒはもう一度、このマキムクに戻ってきた。

 自分が何者であるか、身分を隠し。

 勇気だけを握りしめ。


「だからまだここを離れたくない」


 マキムクに戻ってきたものの、まだ、母の安否がわからない。

 なにか母の消息を掴むまでは、ここを離れたくなかった。

 そして、いくつか気がかりなことがあった。

「ご自分の父上のこと以上に、気がかりなことがありましょうや?」

 クマワニは目を白黒させていた。

 マキムクでいまなにが起きているのか知るためには、もうしばらくここにいるつもりだった。

 父に会うのはそれからでも遅くはない……――と。


(でもわたしは間違っていたのかしら)


 選択を間違えたのかもしれない。

「あのとき」クマワニとともにここを離れていたら、はたしてクマワニは死なずにすんだのではないだろうか。


 誰よりも主人を慕っていたクマワニ。幾年も、わたしを待ち続けたクマワニ。阿波宮に一刻も早く復命したいと願って いたクマワニ。その穏やかな声音がサヒの脳裏によみがえってくる。

 父ではないのに、つかのま父のように錯覚した。その人が身体じゅうに傷を負い、苦 しみながら亡くなるなんて。



 サヒは胸にさげた首飾りを、手のひらで握りしめていた。

 それは亡くなる直前、クマワニが手ずから渡した形見の品だった。

 狼の牙か、獣の骨か、なにからできているのかはわからなかったが、幾重にも革紐で縛り、長年大切にしていたもののようだった。

「かならず、ツミハさまのもとへ」

 そう言い残してクマワニは亡くなった。

「わかったわ、かならずこれをお父さまに届けるわ」

 それがせめてもの償いになるのなら、サヒはかならずこれをたずさえて阿波の宮へ赴こうと心に決めた。




 今年の冬はあたたかい。

 ここ数日、春のような陽気が続いたために、クマワニの遺骸は一足飛びに腐敗が進んでいた。

 亡くなったその夜から、強烈な腐敗臭があたりいっぱいにたちこめていた。

 二日目、三日目……とたつうちに、クマワニの顔はいつのまにか別人の面相に変化していた。

 身体が、大甕のように膨らみ、そこからとんでもない悪臭を放っていた。

 しかしまだクマワニの身体は少し動いていた。そしてかすかなうめき声も聞こえた。

 黄泉国へとかけりさることを拒み、苦悶する魂がそうさせているのか……、 サヒは恐ろしさに震えながら唇を噛み締め、ひとり、恐怖に耐えていた。



 そして四日目、雨が降りだした。

 視界が、薄暗い。


 とん

 とん

 とん………と、一定の感覚で、雨だれが落ちる音が鳴り響いている。


(ああ、いけない。この感じは………)


 サヒの本能が警告を発している。

 雨だれの音がだんだん激しさを増してくる。

 そしてこの匂い。

 吐きそうな、腐敗臭。


(気が………遠くなる)


 まるでそれを待っていたかのように、どんどんと膨張をつづけていたクマワニの身体が、最大に達し……ものすごい音とともに破裂した。

 ぽかんと空いた目や口、鼻から、無数のうじ虫がとびだし、死肉とともにあたりに飛び散った。


 その瞬間、サヒは意識が弾け飛ぶのがわかった。

 サヒのなかに、別の人格が入りこんでくる。

 

(いけない。この状況で神降ろしは……!)


 ……しかし遅かった。サヒの中からそれ以降の、記憶が、消えた。








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