第3話 神降ろし
いま、サヒの眼の前にはクマワニの
ここは
肉体を離れた魂が迷うことなく、黄泉の国へと旅立つことができるよう見送るのがサヒの役目だ。
殯をとり行うのは、これが初めてではない。
以前、ともに暮らしていた姉巫女が病で亡くなったとき、サヒは殯を経験していた。ただしこれほど寂しい、ひとりきりの黄泉送りをするのは初めてであった。
サヒは、幼い頃の記憶があまりない。
薄ぼんやりとした、霧がかったような記憶しかない。
父の顔はおろか、母の面影すら、輪郭をむすばない。
だからこそクマワニに聞いた父と母の話は、それだけでサヒにとって貴重なものだった。
しかしそのクマワニをも失った……サヒの喪失感ははかりしれないものがあった。
サヒ自身が鮮明に覚えている、もっとも古い記憶……――それは
おそらく
暗闇に幾重にも尾を引き、飛びかう
泣き叫ぶ声、怒号、雑踏、揺れる地面、汗と血のにおい、煙のにおい。
必死に逃げる、乳母の激しい息遣い。
気がついたときは、深い山の……、見知らぬ洞穴の中だった。
「ヤシオ
乳母のほかにも、知っている姉巫女らの顔もあった。
「サヒちゃん、よかった。無事だったの?」
姉巫女もサヒの無事を喜んでくれた。
しかしそこに母の顔はなかった。
「お母さまは?」
サヒの問いに答える者はいなかった。なぜだれも答えなかったのか……。幼いサヒにはその意味がわからなかった。
「あいつら、マキムクを空け渡せといってきた」
焚き火を囲んで、大人たちが神妙な面持ちで話しをしていた。
「突然やってきていきなりそういってきたのよ。私は、そんなことはできませぬと突っぱねた。そしたらいきなり夜襲をかけてきた。いまマキムクは兵士でごった返している。今マキムクに戻れば、殺されるにちがいない」
「いったいだれがこんなひどいことを」
「……ニギハヤヒさまの名のもとに、と言っておった」
「まさか、そんな。ニギハヤヒさまがそんなことするはずがない!」
ニギハヤヒとは、生駒にあるアスカの宮にまします
「……わからない」
「そもそも、なにが望みなのか。マキムクは
「それもわからない。だが、巫女はいらんといった。マキムクの巫女はどこへなりと
「そんな無茶なこと……タタラヒメさまさえいれば、このような
タタラヒメとは、サヒの母の名だ。
子供ながら、大人の話に耳をそばだてた。
お母さまはおられぬということなのだろうか。お母さまはどこへ行ってしまったというのか……。
「さあサヒさまは、もう遅いのであちらで休みましょう」
年長のヤシオがサヒの聞き耳を塞ぐように立ち、洞穴の奥へといざなった。
「お母さまは? お母さまはいないの?」
ヤシオはしばらく沈黙し、やがて首をふった。
「まだこちらにはおいでにならないわ。でも、そのうち……」
「そのうち?」
「………………」
「サヒのところに来てくれる?」
無垢な幼子のまなざし。その目から逃れるようにヤシオは言葉をにごした。
「………さあサヒさま、夜も更けました。もうお休みにならなければ」
しかしいつまで待てども、母が現れることはなかった。
そしてある年の春、ヤシオが死んだ。
母代わりとして、姉代わりとして、なにくれとなくサヒを気にかけてくれたヤシオが死んだ。
もともと病がちだったが、慣れない山の隠遁生活のせいで、寒さと飢えに悩まされ、その苦境の末の病死であった。
骨と皮だけにやつれたヤシオは、あまりにも哀れな最期であった。
サヒは何日も
はじめてサヒが殯を行い、黄泉送りをした相手は、姉巫女のヤシオであった。
殯の宮は、木の柱と
死者を黄泉に送ったあとは、
静かに横たわったクマワニを前に、サヒは静かに片膝をついて座っていた。
ここには誰も来ない。
死者と、死者を
サヒは顔も手も、衣も、血と汗と涙で汚れていた。
血を浴びたままの衣は、異様な匂いを放っていた。
しかしサヒは気にもとめない。
これはクマワニの流した血のにおいを、自分の皮膚の中、血肉の奥、骨の髄までしっかりと沁みこませたいがためであった。
二度と、忘れないために。
クマワニのことを、クマワニが話したことを、そして犯してしまった自分の過ちを。
「サヒさま、わたしとともに参りましょう。ツミハさまのおられる
生前、クマワニは一刻も早く、サヒをツミハのもとへと連れて行きたいといっていた。最愛の娘が生きていたと知ったら、ツミハがどれほど喜ぶかしれないと。
しかしサヒはその願いを聞き入れることができなかった。
「まだ阿波の宮へは、行けない」
サヒはクマワニの願いを断った。
あの戦のあと、サヒたちマキムクの巫女はちりぢりに逃散し、もうお互いの消息もわからない。
しかしサヒはもう一度、このマキムクに戻ってきた。
自分が何者であるか、身分を隠し。
勇気だけを握りしめ。
「だからまだここを離れたくない」
マキムクに戻ってきたものの、まだ、母の安否がわからない。
なにか母の消息を掴むまでは、ここを離れたくなかった。
そして、いくつか気がかりなことがあった。
「ご自分の父上のこと以上に、気がかりなことがありましょうや?」
クマワニは目を白黒させていた。
マキムクでいまなにが起きているのか知るためには、もうしばらくここにいるつもりだった。
父に会うのはそれからでも遅くはない……――と。
(でもわたしは間違っていたのかしら)
選択を間違えたのかもしれない。
「あのとき」クマワニとともにここを離れていたら、はたしてクマワニは死なずにすんだのではないだろうか。
誰よりも主人を慕っていたクマワニ。幾年も、わたしを待ち続けたクマワニ。阿波宮に一刻も早く復命したいと願って いたクマワニ。その穏やかな声音がサヒの脳裏によみがえってくる。
父ではないのに、つかのま父のように錯覚した。その人が身体じゅうに傷を負い、苦 しみながら亡くなるなんて。
サヒは胸にさげた首飾りを、手のひらで握りしめていた。
それは亡くなる直前、クマワニが手ずから渡した形見の品だった。
狼の牙か、獣の骨か、なにからできているのかはわからなかったが、幾重にも革紐で縛り、長年大切にしていたもののようだった。
「かならず、ツミハさまのもとへ」
そう言い残してクマワニは亡くなった。
「わかったわ、かならずこれをお父さまに届けるわ」
それがせめてもの償いになるのなら、サヒはかならずこれをたずさえて阿波の宮へ赴こうと心に決めた。
今年の冬はあたたかい。
ここ数日、春のような陽気が続いたために、クマワニの遺骸は一足飛びに腐敗が進んでいた。
亡くなったその夜から、強烈な腐敗臭があたりいっぱいにたちこめていた。
二日目、三日目……とたつうちに、クマワニの顔はいつのまにか別人の面相に変化していた。
身体が、大甕のように膨らみ、そこからとんでもない悪臭を放っていた。
しかしまだクマワニの身体は少し動いていた。そしてかすかなうめき声も聞こえた。
黄泉国へと
そして四日目、雨が降りだした。
視界が、薄暗い。
とん
とん
とん………と、一定の感覚で、雨だれが落ちる音が鳴り響いている。
(ああ、いけない。この感じは………)
サヒの本能が警告を発している。
雨だれの音がだんだん激しさを増してくる。
そしてこの匂い。
吐きそうな、腐敗臭。
(気が………遠くなる)
まるでそれを待っていたかのように、どんどんと膨張をつづけていたクマワニの身体が、最大に達し……ものすごい音とともに破裂した。
ぽかんと空いた目や口、鼻から、無数の
その瞬間、サヒは意識が弾け飛ぶのがわかった。
サヒのなかに、別の人格が入りこんでくる。
(いけない。この状況で神降ろしは……!)
……しかし遅かった。サヒの中からそれ以降の、記憶が、消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます