003.モンスター

 左手が宙を舞っていた。後から遅れて焼かれるような痛みがやってくる。わたしは痛みに逆らって後ろを振り向いた。


 少し離れたところで、体型だけはカマキリのような姿をした巨大なモンスターが立っていた。ただし首を傾げるその顔はカマキリのそれではない。ゴブリンとオークを足して2で掛けたとでも言わんばかりの醜悪な相貌でこちらを見つめている。


 とっさにあれとは反対側に駆け出していた。勝ち目がないと分かりきっていたから。


 わたしは一応神聖魔法の使い手だけど、攻撃魔法が使えない。それに加えて相手は、どうやってかはわからないけど、部位を切り飛ばせるほどの殺傷能力を持っている。どちらに部があるかは火を見るよりも明らかだった。


 左手から流れる血が滴り、心臓が早鐘を打ち始める。痛みと恐怖で頭が麻痺してくる。


「神聖なる光よ、我が声に応じて闇を拒む光の結界を構築せよ! ルミナスフィールド!」


 光の結界がわたしを包むように半径状に広がる。神聖魔法の結界だ。これで少しでも時間が稼げれば……。


 ズシャ。


 ダメだった。


 あの気色の悪いモンスターはいとも簡単に光の結界を切り裂いた。そのままかしゃかしゃと音を立てながら、すごいスピードでわたしを追ってくる。


 ヒュン。ヒュン。


 風を切る音とともにわたしの近くにある地面が削れた。もしかしてかまいたち? 左手が切り飛ばされたのもあの風の斬撃のせい? どちらにしてもあれを受けてしまったら一巻の終わり。


「神聖なる光よ、我が声に応じて我を守護せし聖なる障壁を築け! ホーリーバリア!」


 わたしは少しでも被弾を避けるために近くにバリアを展開した。どこまで効果があるかは分からないけど。


 案の定、バリアはすぐに切り裂かれた。モンスターの追撃は止まらない。風の斬撃が次々と飛んできて、逃げ道を絶たれそうになる。


 このままでは逃げきれない。


 心の中でそう思った瞬間、ふと別の思考が頭をよぎる。


……逃げる? どこへ?


……そもそも逃げる必要はあるの? 


 やっぱりわたしはここで死ぬ運命だったんじゃないの? 聖皇様や皆の望み通り果てるべきなのでは? やっぱり助けられなかった人を差し置いて安らかに生きることは許されていなかった?


「……やっぱり神様はわたしをお見捨てになったのね」


 わたしは立ち止まってモンスターの方へ振りかえった。顔前には首をかしげた醜悪な口元が、ニタニタと笑っているかのように弧を描いている。


 体が逃げてと警鐘を鳴らしているのが分かる。本能が危険だと叫んでいる。理性がこのモンスターになぶられると今も釘を刺しつづけてる。


 それでもわたしは逃げなかった。


 モンスターは楽しむようにゆっくりカマをかかげる。


 涙で視界が霞んでくる。


 ……涙が溢れてくるのはなぜ? 左手の痛みから? 助けられなかった人たちへの罪悪感? 神に見捨てられた喪失感? それとも恐怖から? それはなにに対しての恐怖? 目の前のモンスター? 死?


「助けて」


 不意に声が聞こえた。誰の声? いや、そうじゃない。助けに行かなくちゃ。どこから聞こえてくる? 誰の声? 近い? あれ? わたしの声?


 ズシャ。グチャ。


 気づいた時には目を閉じていた。この音はきっとわたしを蹂躙する音。あのモンスターに殺されている真っ只中に違いにない。


 ああ、あの声がわたしの声でよかった。誰かの声でなくてよかった。死ぬのがわたしでよかった。


 だけどいつまで経っても痛みがやってくることはなかった。


 不思議に思って目を開く。


「助けてあげたよ? それで見返りはあるんだろうね?」


 端正な顔の青年がわたしのことを覗き込んでいた。

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