第一章 人生の春・大学生編 日常
2035年、季節は夏の7月。蝉の鳴き声が都会の喧騒に混じり、昼下がりの空気を重くしている。大学のキャンパスは青々とした木々に囲まれ、日差しが強く照りつける中、学生たちは木陰で休憩を取っていた。
その中でもひときわ目立つ建物があった。旧式の赤レンガ造りの校舎で、モダンな建物に比べると古めかしいが、歴史と伝統が感じられるその場所こそが、汎用テクノロジー学部の渡ゼミが開かれる場所だった。
ゼミ室の中は冷房が効いているとはいえ、熱気に満ちていた。議論が白熱するにつれ、空気がピリピリと張り詰める。大きな窓から射し込む夏の光が、教室の床に模様を描き、時折風がカーテンを揺らしている。机の上には雑多な資料やノートパソコンが並び、その中で2人の男女が激しい議論を交わしていた。
「だから、私は何度もデータプライバシーが重要だって言ってるの! コンプライアンスを遵守しなければ顧客からの信頼は勝ち取れない。故に長期的な成長は望めないわ」
一人の女子学生が声を張り上げる。彼女の髪は汗で額に貼りつき、熱くなった頬が紅潮していた。
「それはわかるけど、技術の進歩を阻害するような規制は逆効果だってことも理解してほしい。否定ばかりでは前には進めないよ。ある程度の犠牲も必要だ」
対する男子学生は冷静さを保ちながらも、その目には鋭い光が宿っていた。
「新たな技術はすでにある問題を隠蔽するために生み出されているのよ」
女子学生が再び声を上げた。彼女の言葉には揺るぎない決意が感じられた。
「私たちを目の前の問題から一時的に記憶喪失にしているだけ。生み出された技術が問題を生み、それを解決するためにまた新たな技術が生み出されている。私たちがしなければならないのは、現状の問題を真剣に受け止めて向き合うことよ」
教室の空気がより一層緊張感に包まれる中、男子学生が口を開いた。彼の表情は冷静で、言葉を慎重に選びながらも、自信に満ちていた。
「君の言うことは一理ある。でも、技術の進歩を否定することはできない。技術は常に進化してきたし、それによって僕たちの生活は劇的に改善されてきた」
彼は一息つき、続けた。
「例えば、医療技術の進歩を考えてみてほしい。かつては治療不可能だった病気が、今では治療可能になっている。技術は問題を生み出す一方で、解決策も提供しているんだ。重要なのは、その技術をどう使うかということだと思う」
女子学生は一瞬考え込み、言葉を返す。
「でも、その技術を使う人間の倫理や責任が欠けていることが問題なのよ。技術そのものは中立かもしれないけれど、それをどう利用するかは私たち次第。だからこそ、問題に向き合う姿勢が大事なんだわ」
「確かに倫理は重要だ」
男性学生は同意しつつも、さらに意見を述べた。
「しかし、現実的には技術の進歩を止めることはできない。それに、技術は僕たちに新たな可能性を提供している。例えば、環境問題の解決に向けた新しい技術は、世界が直面している危機を乗り越える手段となり得る」
「それでも、目の前の問題に向き合わずに技術に頼り続けるのは危険だわ」
女性学生は反論を続けた。
「技術が進歩しても、それを使う私たちが変わらなければ、結局同じ問題を繰り返すだけ。まずは私たち自身が変わることが必要よ」
「君の言うことも理解できるよ。だからこそ、僕たちは技術と共に進化する必要があるんだ。問題に真剣に向き合いながらも、技術を賢く利用する方法を見つけなければならない」
「お二人とも、一旦ストップしましょう。本題からだいぶ逸れてしまっていますよ。クールダウンです、クールダウン。いやぁ、実に興味深い議論でした。白石さんと藤崎くん、お二人はいつも平行線を辿りますね。歳をとると人との距離感が分かってきて衝突を避けるようになりますから、自分の意見をぶつけ合えるのは学生の特権ですよ。本当に羨ましい限りです。ですが、少々熱くなりすぎですよ」
渡教授の一言が、議論の熱を少しだけ冷ました。
彼の白髪交じりの頭が光を受けて輝き、長年の経験と知識が感じられる。
窓の外では、日差しが強まり、木々の葉が風に揺れる。先ほどまでの教室内の熱気とは対照的に、自然の静かな営みがそこにあった。
渡教授の渡り船で教室内は再び静けさを取り戻し、学生たちはそれぞれの考えを整理する時間を持った。その瞬間、外の蝉の声が一層大きく響き渡り、夏の訪れを感じさせた。
その静寂もつかの間、教授は静かに咳払いをして、議論を再開する準備を整えた。
「さて、皆さん」
教授は穏やかな声で口を開いた。
「今日の議題は『フィルターバブルをビジネスモデルに活用すること』について、でしたね。
この問題は、私たちの社会にとって非常に重要なものになります」
教授の言葉に応じて、学生たちの視線が一斉に集まった。
彼の目は鋭く、しかしどこか優しさも含んでいる。
「フィルターバブルとは、情報の偏りを生むアルゴリズムによって、私たちが見る情報が制限される現象です。この現象をビジネスモデルとして活用することは、短期的には利益をもたらすかもしれませんが、長期的な影響については慎重に考える必要があります」
教室のホワイトボードにペンを走らせる音が響き、学生たちは教授の言葉をメモに取る。先ほどの熱気が再び戻り始めた。
「例えば、ソーシャルメディアのアルゴリズムが私たちの興味に合わせて情報を選別することで、ユーザーのエンゲージメントを高め、広告収入を増やすことができます。しかし、その結果、情報の多様性が失われ、社会の分断が進む可能性があります」
「それに対して、データプライバシーを重視する視点も重要なはずです」
先ほどの女子学生が口を開いた。
「フィルターバブルによって収集されるデータは、ユーザーのプライバシーを侵害する可能性が高い。私たちはそのバランスをどう取るべきかを考えなければなりません」
教授はその意見に頷きながら、次の言葉を探した。
「そうです。そのバランスが非常に難しい。ビジネスの利益と社会的責任の間で、私たちはどのような選択をすべきか。この問題は、技術の進歩だけでなく、私たちの価値観にも深く関わっています。私たちは、フィルターバブルがもたらす可能性とリスクを冷静に評価し、適切な規制や対策を講じる必要があります」
男子学生が口を開く。
「先生の仰る通り、技術の進歩を阻害せずに情報の多様性を保つための方法を見つけることが大切です、ね。僕の考えは短絡的でした」
教授は満足げに微笑み、
「いえ、そこまで卑下する必要はありませんよ。藤崎くんの主張も熟考に値するものです」
そして教授は最後にこう付け加えた。
「皆さんの意見は非常に貴重です。この議題について、これからも深く考えていきましょう。今日の議論を通じて、新たな視点やアイデアが生まれることを期待しています」
ゼミ室の外では、太陽が少しずつ傾き始め、夏の一日がゆっくりと終わりに近づいていた。しかし、教室の中では、熱い議論と共に新たな洞察が生まれ続けていた。
************
ゼミでの激しい議論が終わり、藤崎斗真は深く息をついた。ゼミ室を出ると、同じゼミに所属している間宮伸介が待っていた。二人はルームシェアしている家に帰るため、キャンパスを歩き始めた。
夕暮れの中、大学の敷地内は静かで、遠くで蝉の鳴き声が微かに聞こえる。伸介は肩にかけたバッグを軽く叩きながら、ふと笑みを浮かべた。
「今日も白熱した議論だったな、斗真」
伸介の口元はニマニマしている。
「特に白石とのやりとり、まるで熟年夫婦みたいだったよ」
斗真は笑いながら首を振った。
「そんなことないだろ。ただ、意見がぶつかると熱くなるだけだ」
「いやいや、お前たち二人のやりとりは見てるこっちがドキドキするくらいだったぞ」
伸介は冗談めかして言った。
「あの真剣さ、どこか羨ましくもあるよ」
斗真は黙って歩きながら、今日の議論を振り返っていた。百合の言葉には一理あるし、彼女の情熱も理解できる。しかし、技術の進歩をどう活用するかについては、まだまだ考えるべきことが多いと感じていた。
「でも、百合の言うことも分かるんだよな」
斗真が呟いた。
「技術の進歩だけに頼るんじゃなくて、現状の問題に真剣に向き合うことも大事だって」
「そうだな」
伸介も同意した。
「でも、教授も言ってたけどそのバランスをどう取るかが難しいんだよな。俺たちもまだまだ学ぶことが多いってことだな」
二人はしばらく無言で歩き続けた。夕暮れの風が心地よく、大学の木々の間を通り抜けるたびに、緑の香りが漂ってきた。
「ところで、今晩は何食べる?」
伸介が話題を変えた。
「うーん、簡単なものでいいよ。疲れたし、あまり手の込んだ料理はしたくない」
「じゃあ、パスタでも作るか。簡単だし、美味しいし」
伸介は笑顔で提案した。
「それがいいな。家に帰ったら、すぐに作ろう」
斗真も笑顔を返した。
二人はルームシェアしている家に向かって歩みを進めた。
夕焼けが空を染める中、彼らの足取りは軽やかだった。
藤崎斗真と間宮伸介を含めた四人でルームシェアしている家にたどり着くと、玄関を開けると同時に美味しい匂いが鼻をくすぐった。二人は顔を見合わせ、不思議そうにリビングへと足を進めた。
「おかえり!」
リビングから元気な声が響いた。満面の笑みをしている伸介の妹、美穂が出迎えてくれる。
その奥には髪を後ろで丁寧にまとめ、大きい猫の顔が描かれているエプロンを身につけた百合がキッチンに立っていた。
テーブルには既にいくつかの料理が並べられており、どれも美味しそうに仕上がっている。
「百合、帰るの早くない?」
斗真が驚いた様子で問いかけた。
「斗真が鈍いだけよ」
百合は笑いながら肩をすくめ、斗真は困ったように頭をかきながら笑った。
「さ、せっかく料理ができたんだから、はやくみんなで食べよ」
美穂が楽しげに言った。彼女はキッチンに回って百合と一緒に最後の仕上げをしながら、満足そうに微笑んでいる。
四人はテーブルを囲んで座ると、伸介が料理の香りを嗅ぎながら感嘆の声を上げた。
「本当に美味しそうだな。ありがとう、美穂、白石。実は今日、斗真と簡単なパスタでも作ろうかな〜って思ってたんだけどさ」
「それなら私たちだけで頂くけど」
百合はすかさず返した。
「いや、俺たちも頂きます。食べます。食べさせてください。ほら、斗真も」
伸介は大袈裟に頭を下げる。
百合は斗真にも頭を下げるようジト目で訴えているので、斗真は降参と言わんばかりに両手を上げ頭を下げた。
食事が始まると、しばらくの間は料理の話や大学の話題で盛り上がった。
やがて、伸介がふと思い出したように口を開いた。
「そうそう、今日のゼミで斗真と百合の議論、すごかったんだよ」
美穂は目を輝かせて兄を見つめた。
「へえ、どんな風に?」
「まあ、お互いの意見が対立してて、どっちも引かないから教室の雰囲気がピリピリしてたんだ」
美穂はそれを聞いて、ニヤリと笑った。
「さっすが熟年夫婦だね」
斗真は赤面しながら反論しようとしたが、百合が先に口を開いた。
「熟年夫婦とは失礼ね。私たちはただ、真剣に議論していただけよ」
「そうそう」
斗真も慌てて付け加えた。
「お互いの意見をぶつけ合うのは、成長のためだし」
「まあでも見てる側としては、まるで夫婦ゲンカを見てるみたいだったけどね」
伸介が茶化すように言った。
百合は微笑みながら斗真を流し目で見る。
「それなら、それでいいわ。少なくとも、私たちの議論が他の人にとっても刺激になるなら、それは良いことだもの」
斗真も照れながら笑って頷いた。
「そうだな。それに、お互いに学び合うことがとても大事だと思うんですよ」
「と、斗真、なんだよその返答は」
伸介は口に入れていた白米を行儀悪く吐き出して笑う。
「兄さん汚い、というかうるさい」
「伸介君、私が炊いた米吐き出すとか最低ね。今度から三人分だけの食事を用意するわ」
「ご、ごめんよ美穂、白石」
「白石さん、でしょ?」
「百合ちゃん、あんまり兄さんをいじめないであげて」
「おい伸介、俺に謝罪は」
和やかな雰囲気の中で食事が進み、絆がさらに深まっていく。外では夜の静けさが広がり、家の中の温かな灯りがその一日の終わりを静かに彩っていた。
食事が終わり、それぞれが後片付けを手伝った後、斗真はシャワーを浴びた。熱い湯が疲れた体をほぐし、心地よい疲労感が全身に広がった。タオルで髪を拭きながら、斗真はふと思い立ち、屋上へと向かった。
夜風が心地よく、星空が広がる屋上は静かな場所だった。都会の明かりが遠くに霞む中、無数の星が夜空に輝いていた。斗真は深呼吸をして、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
すると、屋上の隅に誰かがいるのが目に入った。近づいてみると、それは百合だった。彼女は夜空を見上げ、星々に思いを馳せているようだった。
「百合、こんなところで何してるんだ?」
斗真が声をかけると、百合は驚いたように振り向いた。
「あ、斗真。星を、見ていたの。ここ、落ち着く場所だから」
彼女は微笑み、再び星空に目を向けた。
斗真も隣に立ち、夜空を見上げた。
「キツい性格してるのに星を見て黄昏てるなんてロマンチストだね」
百合は目だけを斗真に向ける。
「うるさい。レディーに容赦なくそんなこと言えるあなたの方が良い性格してるわ」
二人はお互いの皮肉に声を出して笑う。
しばらくの間、二人は無言で星を眺めていた。
静かな時間が流れ、心の中のざわめきも次第に収まっていく。
やがて、斗真が口を開いた。
「今日のゼミ、ちょっと言い過ぎたかもしれない。ごめん、百合」
百合は斗真の顔を見つめ、優しく微笑んだ。
「私も同じよ。つい熱くなっちゃってごめんなさい、斗真」
斗真は頷きながら続けた。
「でも、君の言うことも分かるんだ。
技術の進歩だけに頼らず現実の問題に向き合うことも大切だと思う」
百合は静かに答えた。
「斗真の意見も大事。技術は私たちの生活を豊かにする力があるし、それをどう使うかが重要かって話には賛成する」
百合の目線は遠い遠い星に向けられている。
「そっか」
斗真は真剣な表情で言った。
百合は小さく頷き、微笑みを浮かべた。
「別に、意見が食い違ったからってあなたを嫌いになるとかないから。
その心配してるんでしょ?」
「は!?」
斗真の顔が急速に真っ赤になる。
「ちなみに、ソースは間宮くんだから」
そういうと、百合はしてやったりと言う顔をする。
「あとで伸介に一発お見舞いしとく」
「ほどほどにね」
二人は再び星空に目を向け、静かな夜風に包まれながら、これからの道を思い描いた。星々が瞬き、夜空は無限の可能性を秘めているように見えた。斗真と百合の心にも、新たな希望と決意が芽生えていた。
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