第10話 角笛の音
しばらく夢中になって小さい子達を見つめていたら、ノアに呼びかけられているのに気がつかなかった。
「……エミリア、エミリア。どうし……」
その時、微かに角笛の音が聞こえて、なぜか体が反応してビクッとなった。ノアがシッと指を口にあてて、ふたりで耳を澄ませる。遠くの方から、微かに下手な角笛の音がする。角笛を練習しているような音。誰かが吹いているんだから、そこに行けば人のいる場所に着けると思う。
「この音、どの方向から聞こえてくるか分かる?」
なぜか少し眉間に皺を寄せているノアが、しばらく目を閉じて耳を澄ませると、おもむろに右手の方角を指さした。
「あっちかな。たぶんだけど。とりあえず音のする方向に歩いて行ってみよう。」
ときどき止まって、音のする方角を確認しながら、しばらくふたりで歩いていると、なんとなく見覚えのあるような牧草地帯にたどり着いた。
「ここは、……たぶん、いつもたくさん羊が通る所じゃなかったかな。向こうに見える丘のもっと向こうの方まで続いていて……。」
思い出そうと景色をよく見るようにしながら、ノアと歩いていると、またあの下手な角笛の音が聞こえてきた。さっきまでより近くで聞こえる。
「……近いね。とりあえず、音のする方に行ってみよう。笛を吹いている人がいるはずだよ。」
それからしばらく、なだらかな坂になっている牧草地帯を歩いて登っていると、一匹の白い羊がどこからか現れた。
「わあ!かわいい!子羊だよ。おいで、こわくないよ。」
子羊は人に慣れているのか、怖がるそぶりも見せずに近づいてきて、体をすり寄せて戯れついてくる。毛がふわふわのもふもふで、たまらなく、とても可愛い。
「かわいい!よしよしよし~。いい子いい子~。群れからはぐれちゃったの?」
甘えるように、すり寄ってくる子羊を撫でまわしていたら、顔をペロペロ舐めてくる。ほんとに可愛い。
「エミリア。この子を群れに返しに行こう。親が近くにいるはずだよ。あんまり人に慣れすぎるのも、よくないかもしれない。」
ノアが手をひいて立たせてくれてから、子羊から少し距離を離した。見るといい笑顔でニコニコしている。
「そっか、そうかもしれないね。群れに返してあげよう。」
少し残念に思うけれど、ノアの言う通りなので、あまり触りすぎないように気をつけないと。人の匂いがついちゃって、親に嫌われちゃったら、可哀そうどころでは済まない。ノアと手を繋いだまま、すり寄ってくる子羊をたまに空いた方の手で撫でながら、坂を登っていると、見晴らしのいい丘の上までたどり着いていた。
「エミリア。向こうに見える白い点々が羊の群れだと思う。」
ノアが指さしている先を目で追ってみると、確かに白いものが点々と散らばるように動いていて、羊の群れに見えた。
「良かった。あそこに、この子のお母さんもいるよね?急いで追いつこう。」
なだらかな斜面を駆け下りて、遠くに見える羊の群れに、なんとか追いつこうと走り出したその瞬間、牧草の色と同化した緑色の小さい子に躓いて盛大に蹴り上げてしまった。放物線を描きながら飛んでいく、その緑の子に手を伸ばしながら、自分も浮かび上がるように飛び出していて、斜面を転げ落ちる事になるその景色を、なぜかゆっくりとした時間の流れを感じていた。まさにその瞬間。
走馬灯のように様々な記憶が、頭の中を駆け巡った。わたし、私、私は……
エミリア。私の名前はエミリア。繰り返し、発音させられている。何回も、同じ事を、繰り返し、繰り返し。なぜって、いつもぼんやりしていて、ひとりでは何もできないと思われているから。一日中のほとんどの時間をぼんやりと座っていた。
なにかとくべつに難しい事を考えていた訳ではない。ただなんとなく、いつも、頭の中がぼんやりと靄がかかったようだった。話せなかった訳ではないけれど、意思疎通のできない子として、いつも他の誰かのお世話になっていた。
たくさんいるお姉さん達。働き手になる幼い男の子。死なない程度に与えられる食事。朝早くから夜中まで働かされる子供たち。ある日どこからか、連れて来られて増える子供たち。そしていつの間にかどこかにいなくなる子供たち。
「エミリア!エミリア!あんたの名前はエミリアってんだろうが!ったく!名前ぐらい愛想よく言えないと、商売にならないんだよ!値が下がんだろうが!」
「あれだけの器量なんだから、早く大きくして稼いでもらわないと。」
「宿の手伝いも出来ない、穀潰しが!早く客をとれるようになってもらわないと!いっそ今すぐにでも買い手がつかないもんかね!」
私はたぶん……大人になったら……たぶん……体が、大きくなったら……私は……
「エミリア。逃げなさい。今のうちに逃げなさい。」
何回も、何人ものお姉さんが教えてくれる。たまに本を読んでくれたり、教会のお祈りに連れて行ってくれる。優しいお姉さんたち。……いつもやさしいおねえさんたち。逃げなさい。逃げなさい。今のうちに。逃げられるうちに。
うろうろ歩きまわって、また捕まって、その度に叩かれて、痛めつけられて、教え込まされる。痛みで覚えなさい!痛みを覚えなさい!
「この笛を吹いたら、こっちに来なさい。すぐに音のする方に来なさい。遅い!遅い!もっと早く!遅い!早く!遅い!遅い!早く!早く!遅い!遅い!遅い!」
……困ったな。思っていたより過酷な過去だった。その時の私には、ぼんやりと途切れ途切れにしか意識が無かったけれど、今はバッチリ意識がある。
そんなことより!笛の音で教育されている!動物みたいに!そして、たくさん、暴力を振るわれている!許すまじ!宿屋夫婦!ん?宿屋夫婦は両親じゃないよね?憶えてないけど!まあ、扱い的に実の子ではなさそうだけど。顔も似てないし。でも、あの場所には、……戻りたくないな。
そして気がつくと、まだ私の体は空中に浮いていて、今まさに地面に打ち付けられる所だった。やけにゆっくりと感じているけれど、たぶん今瞬きする程の、一瞬の出来事なんだろう。ゆっくりと地面が近づいてきて、ぶつかると思ったその時、ぼよんとなにか柔らかいものに体が弾かれて、ふわっと地面に着地した。
「え?」
どこにも痛みはない。頭は混乱しているけれど、振り返って弾かれた場所を見てみると、緑色の小さい子達が集まって、大きな塊を作っていた。落ちる予定の場所にあの子達が集まって、怪我をしない様に庇ってくれたとしか思えない光景だった。お礼を言いに戻ろうとしたその時。
「エミリア!!!」
なにかの影がもの凄い勢い高くでジャンプして、ぐるぐる回転しながら私の目の前でピタッと着地した。影のように見えたのはノアだった。
なぜか頭の中で、10点!10点!10点!とゆう言葉が浮かんだ。……なんの点数?
「……ノア……凄いね。今。ジャンプして、ぐるぐるって、それで、ピタって。」
「エミリア!怪我はない?坂道から、躓いて、ふわって、どこか、ぶつけた?どこかに怪我は?痛いところはない?」
「大丈夫。落ち着いて。どこも痛くないし、怪我も……、そうか、躓いて、私、見えてない時も、あの子たちに躓いてたのかも。それで、よく転けたり……。」
焦って真剣な顔で、体中に怪我がないか素早い動きで調べている姿が、だんだん可笑しく思えてきて、思わず吹き出してしまう。
「ふふ、ふふふ、どこも、どこにも、ノア、まって、あははは。」
笑いだした私を見て、キョトンとした顔のノアがまた面白くて、笑いが止まらなくなってしまった。ノアもつられて笑いだして、ふたりで一頻り大笑いした。
ふたりで大笑いして、いつも心配してくれて、なんだか、なんだか私、今、胸がぽかぽかと温かい気持ちでいっぱいだった。
「良かった。元気そうで。それにどこにも怪我もないみたいだ。良かった。」
「心配ばっかりかけちゃって、ごめんね。ありがとう。なんともないよ。」
心底ホッとしたように、やっと安心したみたいにノアが言ったので、なんだかじいんとして、お腹をおさえながら涙を拭った。いつの間にか近づいていた子羊がすり寄ってきていた。この子も心配してくれたんだと感じた。
「よしよし。ありがとう。ごめんね。ビックリしたよね。もう大丈夫だよ。お母さんの所に連れて行ってあげるね。」
撫でながら、安心させてあげる。ふわふわのもふもふで安心して癒されるのは、私の方なんだけど。しばらくそうしながら、周りを見渡してみると、塊のように集まっていた小さい子達は、いつの間にかバラバラになっていて、ぽよんぽよんとしていたり、くるんくるんとしていたり、それぞれが好きなように漂っている。
……本当に、この子達は何なんだろう。私にいつも親切にしてくれるから、まったく悪い感情はもっていないけれど、私以外にも見える人はいるのかな。
もう慣れてしまって、景色の一部みたいに思っていたけれど、踏んだり、蹴ってしまったりしない様に、もっと気をつけないと。さっき蹴り上げてしまった緑色の子が、どの子かは分からないけれど、痛くなかったかな。そこら中に、ごめんねとありがとうを言っておいた。
それに、あんまり考えたくはないんだけど、……私は、何なのだろう。
ずっとぼんやりしていた頃の記憶も、今はなんとなくある。なぜか、その事も忘れていたけれど、私が私以外だった事なんてない。だけど、なんとゆうか、うまく言えないんだけど、なんか、私、普通じゃなくない?なんか、変じゃないかな。……私。
「羊の群れは見失ってしまったみたいだね。とりあえず、さっき羊がいた辺りまで行ってみようか。大丈夫だよ。ここは見晴らしが良いから、またすぐ見つけられると思う。」
「……そうだね。早くお母さんを見つけてあげないと。」
ノアの言葉に、ぼんやり考え込んでいた意識がハッと目覚めた気がした。考え込んでも、仕方がないよ。そのうちフッと解決するかもしれないし。ま、いっかの精神は大事だ!なんとかなるさも良し!そう思うようにする。
そうして新鮮な空気を思いっきり吸い込んでから吐き出した。よし!
角笛の音はもう聞こえてこないけれど、私達はまた元気よく歩き出した。
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