田舎暮らしが小説家にもたらすメリット②

 

 前項で世の中のマーケットは外見を変えただけで本質は似通っている。


 語弊を恐れずに言うなら「イミテーション」だということを書きました。

 

 今回はこれに関連する話で「本物」ということをテーマにしたいと思います。

 

 本物とは何でしょうか?

 

 存在する、実在するという点に関しては、全てが本物とも言えます。

 

 しかし私は、本物とは偽りがないことだと考えています。

 

 偽りというと少々キツイ物言いかもしれませんので、ここでは「作為」や「ある方向に導こうとする意図」と定義したいと思います。

 

 前回申し上げたように、マーケットでは売るためにどうしてもこの「作為」と「意図」を用いなければなりません。


 上辺を塗り替えただけの同じものを、あたかも真新しいように演出しなければなりません。


「新商品入荷しました」 

「これは良い商品です」

「お買い得です」

「今流行ってます」

 

 本当に良いものを勧めてくれるなら良いのですが、はっきり言って「買わすため」のリップサービスが大半でしょう。

 

 作為や意図に満ちた嘘や偽物に囲まれていると、人は混乱します。

 

 自分は何が欲しいのか?

 自分は何がしたいのか?

 自分とはどんな存在なのか?

 自分の本当の意見は何か?

 

 そういったことが理解らなくなっていきます。

 

 その状態で小説を書くのは、私にとってはとても難解なことです。

 

 自分の心の中、頭の中にしか存在しないはずの「自分の物語」を書こうというのに、その心と頭が混乱しているのですから、多くの人にとっても難解なことだと思います。

 


 都会にも本物は数多に存在するでしょう。


 しかしそれは複雑な構造の中に隠されていて、なかなか正体を掴みにくいです。



 田舎には実感しやすい本物があります。

 

 それは自然であり、四季のサイクルであり、何代にも渡って同じ場所で繰り返されてきた人の営みであります。


 なまの命があり、命を脅かすほどの自然の大きさがあり、規則正しいフラクタル構造が自然の中には折りたたまれています。


 ミクロの中にマクロが存在し、雄大な山や海にに目を細めれば無数のミクロが確認できます。


 宇宙の構造が自然の中には詰まっています。


 

 そして田舎では、悪の真の姿、善意の真の姿も見せつけられることになります。


 取り繕いや、社交辞令がとして存在する都市部よりも、田舎の欲や優しさはずっと生々しく、剥き出しです。

 

 不躾で、無礼な扱いもたくさん受けました。

 

 こちらが若い、新入り、立場が弱いと見て取れば、遠慮なしに好きなことを言う人も少なくなかったです。

 

 しかしそれの本質は、都会にも存在します。


 上品に着飾って、悪意を悟られないようにぶつけて、モヤモヤだけを残す都会の流儀の本質や骨格を、私は田舎で言語化できるようになりました。

 

 優しさの本質や骨格も同様です。

 

 シンプルに削ぎ落とされた人間の本質を田舎はまざまざと見せつけてくれます。

 

 本物の命のダイナミックさを見せてくれます。

 

 生きるために最低限必要な環境や物資を教えてくれます。

 

 そして本物を知ると、人は偽物に対してとても敏感になります。

 

 

 これらのことは、田舎に住めば自動的に手に入る類のものではありませんし、都会にいても体得出来る人はいるでしょう。

 

 しかし、何度も言うように、田舎の方がはるかに構造がシンプルで、大枠を理解し、体感を捕まえるのが簡単だということを、強調したいと思います。

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【小説家にこそ勧めたい】田舎暮らしという選択 深川我無@「邪祓師の腹痛さん」書籍化! @mumusha

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