夜叉神峠
楠木夢路
第1話
此の頃、江戸城下では性質の悪い凶賊が横行していた。
この悪党の手口といったら残忍非道で、狙いをつけた屋敷に押し入り、ひとり残らず膾にしてから火をつける。
最初は盗賊の仕業だと思われたが、商家の蔵には手を付けられた形跡はなかった。
押し込まれた店では主人夫婦はもちろん、息子夫婦の間に生まれたばかりの乳飲み子から使用人に至るまで、情け容赦なく切り刻んでいたのだから「きっと怨恨だろう」と口さがない者が噂したのも詮方ない。
だが凶行はこれだけに留まらなかった。
三日後には武家屋敷が、そして七日後には深川にある長屋が付け火によって焼け落ちた。焼け跡からは切り刻まれたと思われる見るも無残な屍骸が多数見つかった。
町方は、下手人はよもや一人ではあるまいと当たりをつけてくまなく捜索したが、下手人はおろか目撃者さえ見つけることはできなかった。
昨晩も夜半を過ぎた刻限に西海屋で火の手が上がった。町中が寝静まった時分だったこともあり、火消しが到着した頃には燃え上がった炎はすでに両隣の建屋にまで及んでいた。ようやく鎮火したときには火の出所だった西海屋は跡形もないほど無残に燃え尽きていた。
火事場の見物人に紛れて、喜八は焼け跡を眺めていた。
この喜八という男、尾張の木綿問屋の主人なのだが、所用で江戸までやってきてたまたま現場に居合わせた。商売熱心で人情に厚い良い男なのだが、商談にかこつけては旅をするのが悪癖で、しっかり者の番頭が店を切り盛りしてくれるのをいいことに旅装束に身を包むとふらりと旅に出てしまう。
旅先で面白い話を聞きつけては、それを家人や馴染みの者に披露するのが喜八の何よりの楽しみだった。騒ぎに乗じてふらりと火事場に来ては見たが、いくら珍しいもの好きといっても人の不幸を喜ぶほど喜八は悪趣味な男ではない。それでも事の顛末を見届けようとこうして見物人に紛れているのだ。
町方の調べが進むうち、焼け跡からはこの家の一家を始め、奉公人と思われる屍骸がごろごろと出てきた。大半は黒焦げで男女の区別もつかぬほどだったが、中に両手足がばらばらになっている屍骸が見つかって、どうやら彼の凶賊に違いないということになった。
「こんなに続いちゃあ、おちおち枕を高くして寝られやしねえな」
喜八の隣で若い男が呟いた。聞くとはなしに聞いていた喜八は、驚いて声をかけた。
「続いてるって、いったいどういうことですか?」
聞かれた男は目を見開いて、喜八の顔をまじまじと見つめた。
「あんた、知らないのかい。これで四軒目、しかもたった半月ばかりの間にだぜ。まったくどうなってるのか、聞きたいのはこっちの方だってんだ。町人だけじゃねえ、お武家さんまで皆殺しにされてるんだ」
「侍相手にこれだけのことを?」
「そうさ。おまけにどういう了見なのか、皆目見当がつかない。なんたって、何一つ盗みやしないから盗賊じゃあない。かといって、怨恨にしちゃあ、誰彼見境なくやられちまうってんだから性質が悪いや」
「じゃあ、何のために押し入ったんでしょうね」
「それがわからないから、気味が悪いんじゃないか。いったい何人殺めれば気が済むってんだか、人の所業とは思えないぜ。まったく江戸も物騒になったもんだ。お役人は何をしているんだか、早く下手人を捕まえてもらわなきゃやってらんねえよ」
すると、脇に立っていた初老の男が口を挟んだ。
「江戸だけではありません。少し前には下野でも同じようなことがあったらしいですぞ」
「なんだよ。あちこちでこんなことが起こるんじゃあ、世も末だね」
「確かにおっしゃる通りだが、こんな賊がいくらもいるとは思えない。下野で足が付いて重罪は免れないとなれば、いつまでも同じ場所にいるほど賊も間抜けじゃあありますまい。お縄になる前に逃げだしたのやもしれません」
「それじゃあ、そいつがこの江戸にいるって言うのかい?」
「有り得ない話ではないでしょう」
初老の男はしたり顔でもっともらしい講釈を垂れている。
熱心に聞き入っている若い男の隣で、聞くとはなしに話を聞いていた喜八はそわそわと落ち着かなくなった。この男たちの話が万が一にも本当なら、賊がそのうち尾張にも現れないとは限らない。
(店は大丈夫だろうか)
これではとても旅どころの騒ぎではない。喜八は宿に取って返して支度を整え、疾く疾くと帰宅の途についた。
甲州街道をひた歩きに歩いていると、街道沿いにある小さな祠の脇に若い男が座り込んでいた。身なりは浪人風だが、青白い顔で目を閉じて身じろぎ一つしない。まさか死んではおるまいと思ったが、このまま捨て置くこともできずに喜八は声をかけた。
「どうかなさったんですか」
男は薄くまぶたを開いて喜八を見上げるとぼそぼそと何かしゃべったが、力が出ぬのか、もともと声が小さいのか、何を言っているのかさっぱり聞き取れぬ。
とにもかくにもと喜八は持っていた握り飯を差し出した。男は受け取るやいなやがつがつと平らげ、ようやくひと心地着いたらしい。
「かたじけない。拙者は橘右近と申す」
笑った顔は思いの外、あどけない。先ほどまで死にかけていたとは思えないほど軽快にひょいと立ち上がると、喜八に人懐っこい顔で礼を言った。
「こんな所で一体何をしていたんですか」
「旅の途中に腹が減って、とうとう歩くのも難儀になってしまいました」
含羞を滲ませて頭を掻いた右近だったが、とても旅支度とは思えない。身につけている物といえば腰に差した刀ばかり。いったいどういう事情があるのかと、喜八の好奇心の虫が騒ぎ出した。
「私はこれから尾張に帰るところですが、良ければご一緒しませんか」
喜八が言うと、右近は二つ返事で頷いた。
道すがら、右近は己が身の上話をした。どうやら士官するあてもなく、身寄りを頼って大坂へ行く途中、掏りに金子を盗まれて無一文になってしまったらしい。食べるものにもありつけず倒れていたところに喜八が通りかかったのだという。
若くしてずいぶん苦労しているというのに、他人事のように語る様子に、喜八はかえって不憫さを感じずにはいられなかった。すっかり同情した喜八は、右近とこのまま別れるのが忍びなく同宿を申し出た。
「今夜は一緒に宿をとりましょう。宿代は私が出しますからご心配なく」
普段の喜八ならもう少し用心するのだが、右近のあどけなさと屈託のない態度にすっかり心を許していた。それに帯刀しているとはいえ、剣の遣い手とは思えない。
(用心棒にはなりそうにないが、さりとて害もなかろう)
心の中で呟いた喜八の手を取って、右近は涙を流さんばかりに喜んだ。こうして同宿することになった二人は、陽がとっぷり暮れる頃、宿場町の旅籠に腰をおろすことなった。
明け方近く、半鐘が聞こえたかと思うと喜八は体を強く揺さぶられた。
「喜八さん、起きてください。火事です、早く逃げましょう」
部屋にはすでに黒い煙が充満している。慌てて表に出たが、二人の外は誰も外に出てくる様子はない。すでに炎は宿場の建屋を舐めるように広がっている。
「こりゃあいけない。右近さん、助けに行きましょう」
「とんでもない。そんなことをしてはこちらが焼け死んでしまいます」
「だが、中にはまだ人が……」
喜八の言葉を遮った右近が往来を指差した。
「ほら、火消しが来ます。あとは任せておきましょう」
それでも喜八はまだ逡巡していた。右近は駄々をこねる幼子のような顔をして喜八の手を引いた。
「喜八さん、こんな恐ろしい所に長居は無用、早く行きましょう」
喜八は後ろめたさを感じながらも、右近に引きずられるようにその場を後にした。
西へ西へと歩いていても喜八は後ろ髪をひかれる思いを抱えたままだった。
この先は険しい山を越える難所だった。暑さで汗が滴り、じっとりと体を濡らすと、喜八の足取りはますます重くなった。一方の右近は今朝のことなどすっかり忘れてしまったかのように飄々としている。
山道に入ると、先ほどまで晴れていた空があっという間に黒い雲に覆われてしまった。
「嫌な雲行きですね。少々、急ぎましょう」
右近に促され、喜八は重い足を引きずるようにして歩を進めたが、一里も歩かないうちに、とうとう雷まで鳴りだした。この様子だといつ雨になるかわからない。
「こりゃ、ちっとまずいことになっちまった」
右近は木々の間から見える暗い空を見上げてひとりごちた。
旅支度を整えた喜八は、蓑を持っているから少々の雨が降っても問題ない。険しい道ではあるが、知らぬ道ではない。だが、右近は雨よけになるものは何一つ持っていない。このまま進んで雨にでも降られれば、と気にかかるのも当然だった。
喜八の方はというと、天気なんかより旅籠がどうなったのとそればかりが気になって、歩みあぐねていたものだから、ポツリポツリと雨が降り出したのを見て、これ幸いとばかりに右近の袖を引いた。
「さっきの宿場町まで引き返しましょう。今なら本降りになる前に宿に入れるでしょう」
しかし、右近は首を横に振って微笑むと、森の奥を指差した。
「喜八さん、ほらあれ。あそこに灯りが見えませんか」
右近の指の先、街道から離れた森のずっと向こうに確かに灯りが見えた。
「確かに灯りのようですが……」
「あそこで休ませてもらいましょう」
言い終わらないうちに右近は森の奥へと歩き出した。
「待ってください。こんな山奥に住んでる人がいるとは思えません。もしかすると盗賊か、あやかしの類かもしれませんよ」
喜八が用心深く言うと、右近はころころと笑い飛ばした。
「喜八さん、気が小さいんですね。人なんてどこにでも住めるものです。住めば都というじゃありませんか。案外、静かで住みよいのかもしれませんよ」
「私はこの山道を何度も越えていますが、今まで灯りなんて見たことありません」
「きっと、普段はこんな時分に灯りなんてつけていないんでしょう」
「そうでしょうかね」
言われてみれば、そうかもしれない。何度も通った道とはいえ、いつもなら昼の明るい時間だし、天気が悪ければなおのこと、ただひたすらに前を見ながら山道を登るだけだから、気がつかなくてもおかしくはない。
「とにかくいってみましょう」
喜八は少し考えてから頷いた。道らしい道もない森の中を、茂った木々を払いながら進んでいるうちに灯りは見えなくなってしまった。しかも、いつの間にか辺りは霧に包まれている。やはり物の怪かあやかしかと怪しんでいると、先を歩いていた右近が大きな声を上げた。
「あ、道。喜八さん、道がありました」
森の真ん中に忽然と苔の生えた石畳が敷かれ、その道の端には火の入った石灯籠が据えてある。どうやら、先ほど二人が見ていたのはこの石灯籠だったらしい。道の先に朱色に染まった鳥居があるところを見ると、山の神でも祀られているのかもしれない。
いよいよ強くなった雨脚に背中を押されるように二人は石畳を進んだ。鳥居の先にはあったのは小さなお堂だった。きれいに掃き清められたお堂の奥には質素な東家がひっそりと佇んでいる。二人は家の戸口の前まで来ると声をかけた。
「ごめんください」
「はい、どちらさま?」
涼やかな声がしたかと思うと、ことこと音がして戸が開いた。中から現れたのは黒髪の美しい、若い女だった。
「すみません、雨に降られて困っております。こちらに灯りが見えたので半刻ばかり休ませてもらえないかと思いまして……」
喜八は申し訳なさそうに頭を下げたが、右近は遠慮する風でもなく舐めまわすような視線を女に送っている。女は二人を見比べて、艶やかな笑みを浮かべた。
「あら、こんなに濡れて……風邪でも引いてはいけません。さあ、どうぞお入りください」
見知らぬ男が突然やってきたというのに、女は怪しむこともなく二人を中へと招き入れた。
右近は愛想のよい笑みを浮かべると、入ってすぐの土間から板の間に上り込んで囲炉裏の前に腰をおろした。その厚顔さに喜八の方が気恥ずかしくてぐずぐずしていると、女は喜八の背中にそっと手を当てて耳元でささやいた。
「さあ、あなた様もご遠慮なく」
喜八が草履を脱いで上り込む頃には、右近は涼しい顔で出された茶を飲んでいる。
(無邪気なのか、馬鹿なのか)
喜八はあきれて右近の横顔をそっと盗み見たが、右近は知らぬ顔をしている。
雨はなかなか止まず、すっかり日が暮れてしまった。手際よく夕餉の支度を整えた女が、椀をよそってくれる。
雨音はますます激しくなり、雷の轟音が森に響いた。
女はどうやら一人住まいらしい。そんなところにずうずうしく泊めてもらうわけにはいかないが、さりとて雨の中を出ていく気にもなれない。どうしたものかと考え込んだ喜八の杞憂を、くみ取ったかのように女が言った。
「このままお泊りになったほうがよろしいかもしれませんね」
お堂の隅にでも休ませてもらえればといいかけた喜八の言葉を遮るように、右近が嬉しそうな声を上げた。
「ぜひ、そうさせてもらいましょう、喜八さん。ご厚意、かたじけなく存じます」
右近の厚かましさに喜八が辟易していると、女がとりなすように言葉を添えた。
「山奥でひとり暮らしておりますと、人の言葉さえ忘れるのではないかと寂しく思うこともあります。ぜひお泊りになって、旅のお話しでも聞かせてくださいな」
そう言うと、女はいそいそと酒まで用意して、二人をもてなしてくれた。
どうしてこんな山奥に若い娘がたった一人で暮らしているものかと喜八は気になったが、あれこれ詮索するのも憚られた。そこで、喜八は江戸の様子や旅先での出来事をあれこれと語って聞かせた。
女は聞き上手で、相槌を打ちながら喜八の話に楽しげに聞き入っていた。
笑うたびに匂うような色香を放つ女の横顔を見つめ、右近は爛々と目を輝かせている。
(きっとよからぬことでも考えているに違いない。馬鹿正直なのか、この男ときたら思うことがすべて顔に出る性質らしい)
喜八は女に見惚れている右近にすっかり呆れてしまった。
囲炉裏を囲んで、出された酒を嗜みながらしばらく話に興じていたが、そのうちに右近が倒れ込んでしまった。どうやら酒はあまり強くはないらしい。
「困ったもんだ」
「隣の部屋に床を延べておきましたので、そちらへ」
二人がかりでようやく右近を布団に横たえたものの、喜八もすっかり酔いがまわったらしい。足元が覚束かず、そのまま布団に倒れ込んだ。
「どうぞ、あなた様もこのままお休みなさいませ」
女の声が夢か現かわからぬうちに喜八は深い眠りに落ちてしまった。
翌日、喜八が目を覚ますと隣で寝ていたはずの右近の姿がない。
布団は敷いたままだが、すっかり冷え切っている。もしやよからぬことでも考えたのでは、と心配になってそっと隣の板の間をのぞくと、女がひとり朝餉の支度をしていた。
ほっとしたものの右近の姿は見えない。喜八がきょろきょろしていると女が振り返った。
「お目覚めになったんですね。さあ、朝餉の支度ができております」
「連れはずいぶん早くに起きだしたようですが……」
喜八が囲炉裏端に腰をおろしながら尋ねると、女は気の毒そうな顔をした。
「お連れ様は用を思い出したからと言って、朝早くに発ってしまわれましたよ」
いったい何の用ができたというのか。元より知らぬ者同士だが、何の挨拶もなしに旅立ったのか、と思うと何やら腹立たしい。
「さあ、召し上がってくださいな」
喜八の不満にも気がつかない様子で、女はすっと喜八の前に椀を差し出した。親切なばかりの女に不愉快な思いをさせるのは申し訳ないと、喜八は不満を飯と一緒に呑み込んだ。
朝餉を済ますと、喜八はすぐに出立の準備を始めた。女は台所で片づけをしているらしい。喜八はせめて少しでも世話がかからないようにと、布団をたたもうとした。すると、右近寝ていた布団の枕の下あたりに何やら固いものがある。布団をめくってみると右近が差していた刀が置いたままにしてある。
(こんな大切なものを忘れていくなんて、なんて奴だ)
これを持って、後を追いかけようとも思ったが、すれ違いになっては元も子もない。大切な刀がないことに気がつけば取りにくるだろうと、喜八は畳んだ布団の上に刀を置いた。
外は昨日の雨が嘘のように、きれいな青空が広がっていた。
「お世話になりまして、なんとお礼を申し上げればよいものやら」
すっかり恐縮している喜八に、女は名残惜しげな笑顔を向けた。
「こちらこそ。楽しゅうございました」
喜八はもう一度深く頭を下げて、東屋を後にした。
お堂の脇を抜けて、石畳に足をかけ、喜八はふと立ち止まって振り返った。
雨のせいでぬかるんだ地面に、喜八の足跡がついている。だが、先に出たはずの右近の足跡はやはり残っていなかった。
(もしや悪心を抱いて女を手籠めにでもする気やもしれぬ)
昨日は思いがけず良心に背いてしまったが、二度も知らぬ顔をするわけにいかなかった。
せめて女に忠告だけでもしておこうと足を出したところで、お堂の中から何やら人のうめき声が聞こえた。
(さては右近のやつ、こんなところに隠れていたのだな)
喜八はそっとお堂の扉を開けた。薄暗いお堂の中には木彫りの粗末な仏像が祀られていた。
その脇の柱に、右近が荒縄で縛り付けられている。喜八は思わず駆け寄った。
「これはいったいどういうことですか。あなたはもう先に立ったと……」
右近は猿轡をはめられたまま、目だけで喜八に必死に助けを求めた。それに応じて、喜八が猿轡を外そうとしたとき、背後から厳しい声がした。
「外してはなりません」
立っていたのは彼の女だった。女の顔には笑みはなく能面のような冷たい表情をしている。
「あなたがこのようなことをしたのですか。どうして」
女は何も言わず、音もなく歩を進めて右近の横に立った。それから、憐れむような顔をして喜八を見つめた。
「どうして戻ってこられたのですか」
喜八は苛立ちを隠しもせずに女を怒鳴りつけた。
「そんなことはどうでもいい。これはいったいどういうことですか」
「こやつは大罪人です。このまま行かせるわけにはまいりません」
罪人という言葉に喜八は一瞬、たじろいだ。
「罪人……? こやつがいったい何をしたというのです」
「私は人の心を読めるのです。昨日、あなた方がここに来たとき、この男は私を妄想の中で犯していました。そしてそれを必ず実行しようと心に誓った。だから、私は身を守るためにあなた方にしびれ薬を盛ったのです」
確かに右近がよからぬ思いを女に抱いていたことは間違いない。だからこそ、喜八も心配で出立をためらったのだ。だが、身を守るためとはいえ、少々行き過ぎている。
「しかし、妄想だけで人を裁くことはできません。ましてやこんなひどい仕打ちを……」
「妄想だけではありません。この男はすでに多くの人を殺めているのです」
「人を……?」
「己が快楽のためだけに罪なき人を斬ることこそがこの男にとって何よりの快楽。それも通りすがりではなく、相手を信用させてから斬るのです。そうでしょう?」
女は、喜八が置いてきたはずの刀の刃先を右近の喉元にあてがった。
「あなたについてきたのも、あなたが木綿問屋の主人だと知ったからです」
「そんなことが……」
「ないと言い切れますか。あなたとて、この男のことは何も知らないのでしょう」
確かに知り合ったばかりであるが、それは女とて同様である。どちらを信じればいいのか。
そんな喜八の迷いを嘲笑うかのように、女は刀で右近の頬を切りつけた。鮮血が飛び散り、喜八の足もと近くまで飛んできた。
「ひぃ」
思わず声を出して喜八がのけぞったのと、右近が声にならないうめき声をあげたのはほとんど同時だった。
「なんてことを……」
真っ青になった喜八を見て、女は笑い声をあげた。それから猿轡を乱暴に引き剥がした。
「この人にちゃんと教えて差し上げなさい。あなたが本当は何を考えていたのか」
右近はごほごほと咳き込んだ。
「た……助け……て」
言い終わらないうちに、女は右近を足蹴にした。ごぼっと嫌な音を立てたかと思うと、右近はぐったりと首を垂れた。
「お前は今までそうやって命乞いをする人間に、情けをかけることもなく殺めてきたんじゃないか。そんなお前に命乞いをする資格なんてあるわけないだろう」
「おやめなさい」
だが、喜八の静止に動じることなく、女はその白い細腕で右近の髪をひっつかんだ。
「江戸に横行している人斬りも火つけもすべてこいつの仕業。あなたも見ていたでしょう、見物人に混じって。あれを見てもこいつを許せるとおっしゃいますか」
「だからって、何の証拠もないのに……。それに、このまま見捨てていけば、きっと夜ごと夢にうなされる」
「だったら、見なかったことになさいな。この男を助けても、改心なんてしやしません。恩をあだで返されるだけでございますよ」
喜八は黙りこんだ。女はますます言い募る。
「そりゃ、あなたはそれで気が済むかもしれません。善人面をして、さぞ気分がよいことでしょう。でも私の言っていることが本当だったらどうします? 膾にされるのは、あなた一人じゃない、あなたのご内儀も祝言前の娘さんも苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて……挙句にこいつに殺されるんです」
娘の祝言のことを女に話した覚えはない。ということは、この女が人心を読むのは誠かもしれぬ、そう思うや、喜八の心に迷いが生じた。女の言う通りだとしたら、このまま知らぬ顔をするべきではないか。
「そう、あなたは何も見なかった。私にもこの男にも出会うこともなかった。それともこんな男に運命を託す覚悟があるって言うんですか」
「そ、それは……」
「そうだ、もう一つ教えて差し上げましょう。昨日あなたが泊まっていた宿の火事もこいつの所業。さんざん人を斬って、火を放ってからあなたを起こしたんです。あなたが中に戻っていれば、血の海の中で切り刻まれた人の残骸を見ることになったことでしょう。当然、あなたもこいつに斬られていたでしょうがね。言っておきますが、こいつがあなたを生かしたのは、恩を感じていたからじゃありません。ひとえにあなたを次の獲物だと見定めていただけ」
喜八の背筋にひやりとした汗がひとすじ流れた。右近は己が所業を暴露されたせいか、憎しみのこもった眼で女をにらみつけている。その顔からは直情的なあどけなさは消え、残忍な殺気がにじみ出ていた。
「さあ、どうします。それでも、あなたはこの男を連れて行くつもりですか」
喜八の中の迷いはすでに吹っ切れていた。それでも喜八は聞かずにはいられなかった。
「あなたはこいつをいったいどうするつもりなんです」
女は鄙びた着物の袖で口元を隠して、艶やかに笑った。
「本当に知りたいですか」
喜八は古びた木彫りの仏像にちらりと目をやった。
(神仏を祀ったこの場所で、よもや右近を殺しはしまい)
喜八の心を読んだのか、女は小ばかにしたように鼻を鳴らした。
「仏とて罪人には容赦はありません。そのために地獄がございましょう。現世に地獄に呼び寄せたこの男が、償いに、自らその地獄に堕ちたとて文句は言えますまい」
女が何を言おうとしているのか、喜八はもう聞きたくなかった。
「さあ、お行きなさい。さもなくば、そなたもこの地獄の亡者となるかもしれませんよ」
喜八はお堂を飛び出して、一度も振り返ることなく石畳を駆け下りた。
泡を食って逃げていく喜八の背中を見送りながら、女は薄い笑みを漏らした。
「本当にいつの世も人というのは愚かなものだねえ。自分の目で確かに見ているものでさえ、言葉一つでまったく違うものに見えちまうんだから、本当に愚かなものだねえ」
するとどこからともなく幼子の声が聞こえてきた。
「どうしてあの男も一緒に捕まえなかったのさ」
血走った眼で女を見上げていた右近は、目を白黒させて辺りを見まわした。声の主はあろうことか仏像だった。いつの間にか閉じていたはずの目は見開いて胡坐をかいてぶつぶつと文句を言い出した。
「せっかくの獲物をまんまと逃がすなんて……」
「いいじゃないか、ちょっとしたお遊びだよ。どうせあんな年増の男を喰ったって、腹の足しにもなりゃしないんだから」
右近が怯えた目にいっぱいの涙を溜めて暴れ出した。
「あれ、お前みたいな下衆でもちっとは人らしい感情があるんだねえ。そんなに怖がることはないじゃないか。お前の望みどおりに、この私がたっぷりと可愛がってあげるから安心しな。お前がこれまでしてきたのと同じように」
女はそう言うと、持っていた刀から滴る血を赤い舌でなめ、うまそうに目を細めた。
「ひとり占めはなしだよ。おいらにも楽しませてくれなくちゃ」
近づいてくる仏像の姿を見て、右近は気が狂わんばかりに必死にもがいたが、荒縄は緩むどころかますます右近の体を締め付けた。
「本当に人は愚かだねえ。神や仏を信じないのはかまやしないが、人を殺めることができるのはお前だけではないのだよ。お前は幸せ者だねえ、血を見るのがたまらなく好きなんだろう。人を斬ったその手の感触が忘れられないんだろう。怯えて逃げ惑う人を追いつめると高揚するんだろう。そのすべてを己が体でじっくりと味わうがいい」
恐怖で歪んだ右近に流し目を送った女がお堂の扉を閉じると、それきりその扉が開くことはなかった。
あとにはただ深閑とした森が広がるばかりだった。
夜叉神峠 楠木夢路 @yumeji_k
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