第4話(Ⅰ)
「本川くん、いないんだ」
別棟の三階にたどり着いて、私は声を出した。もう、ここに来ても緊張はしない。いつもは点いてる電気がついていないのが、ちょっと残念なくらい。
あれから、月曜日と木曜日には本川くんの熱量に若干押されながらも古文を教えてもらってる。基本的にはテストの範囲の文法解説とか、授業でよくわからなかったところ。雑学とか、覚え方とか。だからまあ、和歌語りとかは聞けてない。別に聞きたいわけじゃないけど、いわゆるヲタトークは初めてここに来たとき以来展開されてないと思う。
文芸部っぽいことはなにもやってないから私たちがやっているのは勉強会なのか部活なのかはよくわからない。まあ、楽しいからいいんだけどね。
あれだけ嫌がっていたけど、入ってみたら結構楽しかった。古文を教えてもらいながら、雑談をしてる感じ。調理部よりずっと気楽だ。本川くんは明るいし、思っていたよりも話しやすいから。
「失礼します」
本川くんとは掃除の場所が違うから、まだ来ていないだけかもしれない。とりあえず電気を点けていつもの席に座る。来るまでここで待ってよう。そう決めて荷物を置き、机に突っ伏すと思わずため息が漏れた。
「はぁ……」
そのまま一人で沈黙していると、後ろからパタンパタンとゆっくり階段を上ってくる音がした。次いで、声。
「え、増森さんが死んでる」
「生きてるけど……。生きてはいるけど……」
顔を上げた私がうめくと、本川くんは首を傾げた。私の向かいの席に座って、話してごらんとでも言うようにこっちを見る。そう都合よく解釈して、私は机に顎をつけたまま本川くんを見上げた。
「いいよね、本川くんは」
「ん?」
「私なんか、進路も科目選択もテストの点も、何もかもどうしたらいいかわかんないよ」
またため息が出た。ついこの前終わった中間テスト。結果も返ってきて、私は今、絶賛落ち込んでいるところだ。進路とかを考えろってよく言われるけど、考えれば考えるほど最近わからなくなってきた。やりたいこと、将来なりたいもの、大学、そういうの全部。
「何か一つものすごく好きなものとか得意なものがあるわけでもないし、将来やりたいことも決まってないし、テストも散々だし。本川くんはどうせ成績いいんでしょ? 好きなことあるから進路とかも迷わなそうだし」
ぐちぐち言っている私を見て、それまで黙っていた本川くんがふっと笑った。
「ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」
「え?」
「意味は、もしこの世に生き永らえていたら、辛い今が懐かしく思い出されることもあるだろうか。辛かったあのときも、今思い出すと恋しく思われるのだから。って感じ」
「もう一回言って」
私が体を起こすと、本川くんがちょっと驚いた顔をした。
「今の和歌、もう一回言って」
「ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき……?」
「なんか、いい」
「ん?」
「それ、なんかいい!」
生きてたら、いつか辛かった日々も懐かしくなるってことだよね。こんだけ悩んでうじうじしてる私も、いつか懐かしく思えるのかな? 確かに、今まで嫌だったことも今別に気にしてないかも。そういうこと? 合ってる? なんか、すっごい励まされてる気がするんだけど。え、和歌ってそういうメッセージ性があるやつもあるの? 知らなかった!
「ねえ、その和歌ちょうだい」
「ちょうだいって?」
急にテンションが上がった私を、本川くんは呆気に取られたように見ている。わあ、いつもと立場が逆。私、こんな感じで本川くんのこと見てるのかな。
「この前みたいに。紙に書いて、それちょうだい」
「あ、うん」
気圧されたようにしながらも、本川くんは和紙に筆ペンでさらさらっと書いて渡してくれた。相変わらずの達筆……。少しの間見惚れてから、本川くんに聞く。
「なんていう人の歌?」
「
「また百人一首なんだ。この前のもそうだったよね」
調べて覚えた大中臣能宣の歌。あれも、百人一首に載ってるらしい。そう言うと、本川くんは苦笑した。
「それはまあ、俺の原点が百人一首だからしかたないよ」
「原点?」
「そう。俺が和歌にハマったきっかけ」
「なにそれ気になる」
私が目を輝かせると、本川くんはニヤッとした。もうわかる。いつものやつだ。
「いいの? また語るよ?」
「どうぞ。今の私は珍しく聞く気になってるから」
私は本心で言ってるのに、本川くんは大きく目を見開いた。私、そんなに興味なさそうだった? 本川くんはすっごく楽しそうに話すから、聞いてて嫌な気にならないんだけどな。むしろ、最近はちょっと待ち遠しかったんだよ、本川くんの和歌トーク。あ、内容は理解できないけどね。
「聞かせてよ。そういう条件で入部したんだもん。それに、和歌好きな人って珍しいじゃん。そのきっかけとか、気になるよ?」
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