第3話

 ゴールデンウィークが明けて最初の木曜日、私は別棟の階段を上がっていた。パタパタと軽やかな音を立てながら、ドキドキしている胸を抑える。久しぶりだけど、やっぱりここに来るとなんだか緊張してくる。

「本川くん、いるかな……」

 月曜日と木曜日に、きっと別棟の三階にいるであろう本川永司、たぶん和歌ヲタク。私は、古文はよくわからなくて点数が取れない敵教科だと思ってる。なのに、どうしてそんな本川くんを訪ねることにしたのか。それは今月末に中間テストが待ち構えているからに他ならない。

「失礼します……」

「また来た」

 本を読んでいた本川くんは顔を上げてそう言った。しょっちゅう来てるみたいに言わないでほしい。まだ三回目だ。しかも、前回は不可抗力。本川くんに言われたから来ただけ。

「ちょっとお願いがあるんだけど、いい?」

「お願い?」

「そう」

 本川くんの向かいの席に座って、手に持っていたノートを机に出す。それから両手を合わせて本川くんを拝んだ。本川くんは面食らったような顔で私を見下ろしている。よし。とりあえず興味は惹けた。

「古文、教えてくれない?」

「なんで俺?」

「だって得意でしょ。授業中も誰も答えられないやつとか先生に指されて答えてるし、和歌好きって言ってたじゃん」

「まあ、好きなことは否定しないね」

 本川くんは照れたように頭をかいた。好きだからできる、ってこと? 私はため息をついた。予想はしてたけど、本川くんは強気だ。

「ちなみに、本川くんって古文の最高点何点?」

「九十八」

「……念の為聞くけど最低点は?」

「九十」

 こともなげに言ってのける本川くんに私はだんだん腹が立ってきた。私がどれだけ古文で苦労しているかも知らずによくもまあ。私は、九十点なんて高校生になってから見たこともない。どの教科でも。どんなによくても。

「それ、常に学年一位でしょ」

「いや、一回だけ三位だったよ」

 こいつ……! 私は本川くんを睨んで深いため息をついた。ある程度の好成績を予想していたからわざわざ教えてもらいに来たわけだけど、まさかここまでとは。怒っている私を見て本川くんはきょとん、としている。そういう、鈍そうなところもムカつく。

「あのさあ、それ、わざとやってる?」

「ん? 増森さんもうちのクラスなんだし文系得意でしょ?」

 あのね、文系クラスにいる人がみんな文系科目得意ってわけじゃないんだよ。本川くん、やっぱり勉強できるんだな。

 うちの高校は二年生から理系クラスと文系クラスに分かれる。私たちのクラスは、本川くんの言う通り文系。でもまあ、大半は私と同じような理由で文系に来てると思うけど。

「数学壊滅的だもん。理系なんていけないよ。でも、だからって国語も社会も本川くんみたいにトップなわけじゃないから、中途半端な文系。てか、どうやってそんな高得点キープしてるの?」

「俺の場合は和歌とか覚えて文法暗記に繋げてるかな。ほら、和歌を暗記すれば、その意味覚えるだけで助動詞とか活用わかるじゃん?」

「出たよ、和歌」

「許して。ヲタクだから」

 本川くんは笑う。自覚はあるんだね。そう思って小さくため息をついた。

「教室ではそんなんじゃないのにね」

「まあね。別に隠してるとかじゃないけど、通じないし」

「私思いっきり語られたよ? 通じないのに」

「あれは増森さんが悪いでしょ」

「私?」

 自分の顔に指を向けて聞くと、本川くんはさも当然と言うふうにうなずいた。

「部室まで来て、和歌のこと聞くから」

「聞きたくて聞いたんじゃないけどね……」

 本川くんは、教室ではごくごく普通の男子だ。明るいけど、特別フレンドリーなわけでも、おしゃべりなわけでもない。席替えはしてないからまだ私の後ろにいるけど、席替えしたらもう話すこともなくなりそうな、そんな人。まあ、高校生なんて男子は男子、女子は女子で固まるからそんなもんなのかな。

 でも、なんとなく気になってはいる。もらった紙の歌はもう覚えたし、意味もちゃんと調べた。何も見ないでも言えちゃうくらい、頭に入ってる。それに、あれから和歌、とか短歌って聞くと反応してる私がいる。きっと理解はできないけど、また語るのを聞いてみたい、とも思ってる。でも、絶対に本人には言わない。言ったら、「ほら、やっぱハマってんじゃん」とか言われそうだから。

「そういえばさ、新入生入った?」

 ふと思いついて私は聞いた。今、部屋には本川くんしかいない。この前は「新入生に期待」とか言ってたけど、入ったのかな。

「残念ながら、ゼロ」

 右手の親指と人差し指で作った丸を見せつけて、本川くんはニヤリとする。あ、嫌な予感。

「増森さんさ、文芸部入んない?」

「前も言った通り入りません!」

「古文教えるからさ、交換条件でどう?」

「え?」

 本川くんは丸を解除して、代わりに指を二本立てた。

「週二だし、楽だよー」

「私が入ってなんかメリットある?」

「うん。俺がいっぱい語れる」

「そうじゃなくて私のメリット」

「俺が古文教える」

「うぅー」

 私は唸った。部活……。週二……。部活をやめて半年。今さら入部するのもなあ……。本川くんは指を立てたまま私を見ている。私が断る、とは思ってなさそう。たしかに古文教えてほしいとは言ったけど、それとこれとは違うような……。

「よお、本川。って、もう一人いるのか」

 迷っていると、ジャージ姿の男の人が入ってきた。ひょろっとしてて、メガネの奥の目は眠そう。見たことないけど、文芸部の顧問の先生かな。本川くんはにっこり笑って片手を挙げた。

「林田先生。入部届、一枚欲しいんですけど」

「ちょっと!」

 さすがに強引すぎる本川くんに立ち上がって抗議の声をあげた。本川くんをにらみつけるけど、笑って流される。それはない。さすがに、ない。まだ、私は決めてないのに。前回の川柳のときといい、強引すぎるよ。

 視線を感じて顔を上げると、私を見ている先生と目が合った。興味深そうに私たちのやりとりを見ている。どうしよう。文芸部。週二。古文……。ニコニコしている本川くんに視線を戻して、それからもう一度先生を見た。

「二年四組増森香です……。入部します」

「よっしゃ」

 ため息をついて座る私と満面の笑みでガッツポーズを作る本川くんを交互に見て、先生はかしかしと頭をかいた。困ったような顔をしている。理由はわかるけど。

「それ大丈夫? ほんとに?」

「はい。入部します」

「じゃあ、入部届持ってくるよ?」

「お願いします」

 覚悟を決めた私がうなずくと、先生は頭をかきながら部屋を出ていった。さっきのやり取りだけ見てると無理やり言わされてるように見えるんだろうな。まあ、実際そんな感じだけど。

 学年一位が教える古文の魅力に負けた。でも、これで点数が上がるなら。私が入部したのはこんな不純な動機なのに、本川くんは本当に嬉しそうだからなんかフクザツ。でも、どこかこの状況を楽しんでいる私もいる。また、教室とは全然違う本川くんが見られるかもしれない。和歌にはそんなに興味ないけど、熱く語る本川くんにはちょっと興味がある。別に変な意味じゃないけど。

「さっきの先生、顧問?」

「そ。林田先生。情報科」

「情報!?」

 私は叫んだ。確かに理系っぽい見た目はしてたけど。なんで情報の先生が文芸部の顧問? パソコン部とかじゃないの?

「国語じゃなくて?」

「そ。和歌も短歌もこれっぽっちもわかんないけど、空いてたから顧問になったんだって」

「……」

 私が驚いていると本川くんは笑った。相変わらずよく笑う人だ。でも、そういう人だから許せちゃうのかな。これで無愛想だったら、自分の好きな話をして、成績を自慢して人を無理やり入部させるだけのやなやつだもんね。

「ね? うちってテキトーフッカル部活でしょ?」

「だね……」

 こうして、私は文芸部に入ることになった。 古文を教えてもらう代わりに本川くんのヲタトークを聞くという、なんともふしぎな交換条件で。

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