第2話(Ⅱ)
あんな風に決意を新たにはしたんだけど、放課後別棟の階段を上る私の気分は沈んでいた。昨日の夜はようやくできて上機嫌だったし、ついさっきまでもそう思っていた。なのに、今は緊張している。なかったことにして帰りたい。
というか、そもそも本川くんはあれ以来何も言ってこないんだし私が来なくてもなんとも思わないんじゃない? そんなふうに逃げるための理由をいろいろ並べてみたけど、三階にたどり着いた私は全てをあきらめた。
「失礼します」
「どーぞー」
本川くんはスマホから目を上げて私に座るよう促した。今日はイヤホンをしていない。私が来るのがわかっていたからかな。言われるまま本川くんの前の席に座ってため息をつくと、本川くんはニヤリとした。
「どう? 短歌ってむずいっしょ」
「うん。とりあえず作ったけど、難しかった。てか、私が作ったの川柳だし。えーと、七七の分だから十四文字? 足りないけど」
「いいよ、別に」
「……」
私はちょっと上目遣いで本川くんを見た。両手を握ってお願いのポーズまで作る。
「短歌も難しいって認めるからさ、それで許してくれない?」
「なにずるいこと言ってんの」
案の定本川くんにあきれられて、私はため息をついた。試しに言ってみただけだ。端からあてにはしてない。私は心を落ち着かせるために深く息を吸った。
「夜にだけ忘れた約束浮かぶのね。ほら、言ったよ? ちゃんと五七五でしょ? これでいい?」
「うん。いいね」
真っ赤になって早口で言うと、本川くんは笑った。それからぐっと親指を立てる。
「センスあると思う。俺、好きだよ」
「本当に言ってる?」
ああもう。まだ頬が熱い。両手でパタパタと仰いだけれど、本川くんはそんなことを気にしていないみたいに続けた。
「うん。ほんと。てかさ、この前俺の数学のノートに書いてあったのと似てるね」
「ん?」
よくわかっていない私の様子を見て、本川くんはノートを出した。この前私が見た最後のページを開いて、そこに書かれている和歌を詠みあげる。
「これ。俺が気に入ってる和歌のひとつなんだ。『みかきもり衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ』」
「え、なんか意味わかるかも。意味は?」
なんとなく雰囲気がわかる気がして、正しい意味を聞いた。
「ちゃんとした意味は個人で調べてもらうとして、『衛兵が焚く火のように、私の恋心も夜は燃え上がり、昼は消えてしまいそうに沈んで悩んでいることです』って感じかな。どう?」
「おー!」
きっと、この和歌を詠んだ人も夜にいろんなことを考えていたんだろう。私と同じように。そうだ。夜はいろいろ考えてしまう。特に、寝る前には。
「やっぱなんとなくわかる! みかきもりってなに?」
「宮中の門番のこと。門番が夜に火を焚くのに、自分の恋心を重ねた歌。まあ、これは部活の一環だし単語はなんとなくでいいよ。大事なのは感覚だしね」
「私、それ見てパクっちゃったのかな」
落としたノートを拾ったタイミングで見たのを、自分で思いついたって勘違いしたのかもしれない。一度そう思うと、もうそうとしか思えなくなった。そもそも、私に短歌とか川柳を詠める実力なんてあるはずがない。不安になっていると、本川くんは軽い調子で言った。
「いいんじゃない?」
「え?」
「増森さん的にはあれ本音なんでしょ?」
「うん」
「じゃあいいんだよ」
そう言って笑う本川くんに甘えることにした。もう一個詠めと言われても無理だし、褒められるのは嬉しい。うん。頑張ったのを認めてもらえてる感じがする。
「ありがとう。でも、なんかその和歌親近感湧くね。私、好きかも」
「でしょ?」
ニヤッとした本川くんを見て、私の本能が危険を告げた。これはまたスイッチを入れてしまったに違いない。褒められて調子に乗ったのがよくなかった。
「俺、そういう和歌を集めてコレクションしてるの。やっぱ歌って感情なんだよ。実感とか、共感があるから今まで語り継がれてるっていうのも大きいと思うんだ。あくまで俺の主観ではあるけどさ。だから、やっぱり共感は大事。で、増森さんが思ったことを歌ったあの川柳もOK。だって感情を素直に歌ったわけだから」
「和歌のコレクション……」
本川くんは私を褒めてくれているけど、出だしで引っかかった。和歌のコレクションって、なに?
「そう。めちゃくちゃ大変だけどね。図書館とかで和歌集を借りて、一生懸命一首一首調べるの」
「大変そうだけど、なんか楽しそうだね」
言ってから後悔した。本川くんはすでに熱くなっているのに、アクセルを踏んでしまった気がする。実際、本川くんはニヤッとしている。
「増森さんもやる?」
「やりません!」
「増森さんは部活やめたって加藤が言ってたけど? 時間はあるよね。文芸部入らない?」
本川くんは突然加藤くんの名前を出した。そっか。去年同じクラスだったから覚えてたんだ。でも加藤くん、なんてことをばらしてるの! これじゃ断れないじゃない。
「いや、まあ、それとこれは別っていうか……」
しどろもどろになって断る理由を考えていると、本川くんは笑い出した。
「増森さんって面白いよね。冗談だよ、冗談」
「……」
からかわれたことに気が付いて、深いため息をついた。本気で焦った自分がばかみたいだ。でも、本川くんの和歌愛は相当みたいだから本当にやらされると思った。実際、川柳を詠まされたばかりだ。
むすっとしている私の前で、本川くんはカバンから何かを取り出した。たぶん和紙と筆ペンだ。何をする気なんだろう。わざわざ聞きはしないけど。
本川くんはなんの説明もなくさらさらっと何かを書いて、その紙を私の前に差し出した。縦に長くて、ちょうど太めの十五センチ定規くらいだ。
「はい。あげる」
「なに、これ」
「さっきの和歌。
「ハハハ……」
ごめん本川くん。途中から何を言ってるのかわからないよ。話してる本人は楽しそうだけど、一般人相手に話すときは専門用語をやめてほしい。
理解を諦めた私をよそに、本川くんは紙を持った手を揺らす。
「とりあえずこれ、増森さんが和歌にハマった記念の一枚ね」
「ハマってない!」
「ハマってるよー」
「ないっ!」
「るってば」
必死に否定する私に、本川くんはケラケラと笑った。和歌に興味があると思われたら何をされるかわかったもんじゃない。これは、しっかり否定しておかないと。和歌集を片手にコレクションとか、絶対に嫌だ。
「私、帰るから」
立ち上がって、でもとりあえず紙は本川くんの手から取った。なんとなく、そのままにできなかった。
「これは一応もらっとくけど……」
「どうぞ~」
部屋を出る前にちらっと見た本川くんは、ものすごく楽しそうだった。
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