第1話(Ⅱ)
最後のページを見たことは言っちゃったけど、一応ノートを落としたことは黙っておこう。話したら、ついでにつまずいたことも言わなきゃいけなくなるから。それはさすがに恥ずかしすぎる。そんなことを考えていると、本川くんはノートを指でつつきながら言った。
「これね。和歌」
「和歌って、百人一首とかのあの和歌?」
「そ。その和歌」
「でも、なんで和歌?」
「好きだから」
「へー……」
にっこり笑ってごく当たり前に言った本川くんに、私は適当な相槌を打った。私もだけど、たいていの高校生は、和歌なんて好きじゃないと思う。勉強のイメージが強いし。授業でやらされるものって感じかな。
本川くんは、今度はスマホに目を戻さないで私を見ている。なんとなく沈黙に耐えられなくて、話題を変えた。
「ところで、ここ、何部なの?」
「文芸部。俺一人だけど」
「え?」
私は思わず聞き返した。調理部はやめる人も多いけど、学年で十人くらいいた。一人って、部活っていうより同好会って感じだ。
「一つ上の先輩はいなくて、三年だった先輩たちが卒業したから俺一人。まあ、新入生に期待かな」
驚く私をよそに、本川くんはあっけらかんと笑った。仲間がいなくても、全然気にしてないみたいだ。私とは違う。私なら、一人で部活は続けられない。
「文芸部って、何してるの? しかも一人で」
「一人で百人一首やったり、コンクールに応募したりしてる」
「応募って、小説?」
「いや、無理。基本短歌かな。ま、ときどき俳句とか川柳もやるけど」
「短歌って、和歌ってこと?」
「ううん。ちょっと違う」
本川くんは首を振った。好きなのは和歌なのに、応募するのは短歌なんだ。そもそも、和歌と短歌ってなにが違うんだろう。
「具体的には? どっちも五七五七七だよね。和歌に季語ってあったっけ?」
「季語の有無で違うのは俳句と川柳だね。短歌と和歌の違いは、ひと言でいえば時代かな」
「時代?」
聞き返すと、心なしか本川くんの目が輝いた気がした。なにか嫌な予感がする。
「今は、明治時代以降に作られたものを短歌って言うんだ。で、それまでの古典的短歌を和歌って言ってる。でも、そもそも短歌も和歌の一部で、だから厳密には和歌=短歌じゃない。奈良時代とかには長歌とか旋頭歌とか片歌とか……」
そこまで言って、本川くんは急に黙った。ついさっきまでの楽しそうな空気はどこかに行って、気まずそうな顔で目をそらす。
「ん?」
「いや、ごめん。とりあえず、俺がコンクールに出してるのは現代短歌だよ」
「……」
なんだろう。正直本川くんが話している内容はよくわかっていないけど、あんな風に中途半端に切られると続きが気になる。聞きたいような聞きたくないような、ふしぎな気持ちだ。しばらく葛藤してから私は口を開いた。
「和歌は古いってこと?」
「うん。和歌っていうのは日本独自の歌のことで、昔は短歌以外にも五七を繰り返して最後を五七七にする長歌とか、五七七五七七の旋頭歌とか、いろんな種類の歌があったんだ。だけど、だんだん五七五七七の短歌が主流になっていって、他の種類は減ってく。で、和歌って言ったら短歌のことになるんだ。だからまあ、和歌=短歌っていうのもあながち間違ってはないんだよね。ただ、厳密には短歌はたくさんある和歌の中の一つってこと。
たぶん何言ってるかわかんないと思うから、とりあえず明治時代の前は和歌、後は短歌って思っといて」
ごめんね、本川くん。楽しそうに語ってくれるのはいいんだけど、やっぱり途中から脳がフリーズしてた。ただ、本川くんがすごく好きなんだろうなっていうのと、和歌と短歌では時代が違うことくらいは理解したつもり。あと、本川くんが意外と熱い人ってこともね。
「たしかに、短歌とか俳句作るのって小説書くより簡単そうだね」
「ふっ」
本川くんは鼻で笑った。
「じゃあ、増森さん一個詠んでみて」
「え、今?」
「今じゃなくてもいいから。木曜か、来週の月曜にまたここ来てよ。俺、月木は部活でここにいるから。で、作れたら聞かせて」
「……」
あまりのことに私は沈黙した。私には短歌なんて詠めない。でも、戸惑っている私を無視して本川くんは楽しそうに続ける。
「短歌でも長歌でも旋頭歌でも片歌でも仏足石歌でもなんでもいいから、一個詠んでみてよ」
「なんで……」
「だって、簡単だって思ったんでしょ?」
「いや、あれは、」
小説を書くよりは簡単そうだと言っただけで、別に短歌を詠むのが簡単だとは言ってない。
「じゃ、俺今日特に用ないから帰るわ。ノートありがとね」
「え、ちょっ!」
本川くんはささっと荷物をまとめると、扉の隣で棒立ちしている私の横をすり抜けて本当に部屋を出て行った。取り残された私はしばらく呆然としてから慌てて階段を駆け下りる。でも、本川くんはもういない。完全に置いて行かれた。歌を一首詠むというとんでもない宿題を押し付けられたまま……。
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