あなたに捧ぐ三十一文字《みそひともじ》

駒月紗璃

第1話(Ⅰ)

 短歌は五七五七七の三十一文字から成り立ち、これを「みそひともじ」という。この三十一文字につまっているのは、誰かの想い、願い、理想……。そして時にこの三十一文字は詠み手と読み手を繋ぐものとなり得る。詠み手の知り得ないところでさえ。


 なんで本川くんのがここに?

 机の引き出しからノートを取り出して私は固まった。私の数学のノートの下に、本川くんのノートが重なっている。慌てて教室を見回したけど、本川くんはいない。本川くんのノートを持ったまま、どうしようか三秒だけ考えた。

 本川永司。今年初めて同じクラスになった人。去年は、存在すら知らなかった人。出席番号が私の後ろだから、席が後ろの人。まだ、授業中の意見交換とかでしか話さない人。校則通りの制服、髪型でいかにもきちんとしてます、って感じの人。近づきがたいわけじゃないけど、特別フレンドリーってわけでもない。

 そんな本川くんの数学のノートが、私の机の引き出しから出てきた。さっき返却されたときに、後ろに回すのを忘れて自分のと一緒に入れたんだろうけど、ここにある理由なんてどうでもいい。とりあえず、今大事なのは本川くんにノートを返すこと。

 期限は金曜日だけど、宿題が出てるから。今日は月曜日だし、明日渡せば十分間に合うけど、でもやっぱり返さなきゃ。人のものをとった挙げ句二日も手元に置くなんて、罪悪感で耐えられない。たぶん、このまま家に帰ったらずっと考えちゃう。だから、今日、ちゃんと返そう。そう決めて、教室に残っていた加藤くんのもとへ向かった。

「ねえ、本川くんってもう帰っちゃったかな」

「永司? 今日月曜だから部活じゃね」

「部活?」

「そう。別棟の三階とか言ってたと思うけど」

「ありがとう!」

 加藤くんとは、去年も同じクラス。明るくてお調子者の加藤くんは新学期が始まってすぐに本川くんと仲良くなっていた。何か知っているんじゃないか、とは思ったけどすでに部活まで把握してるなんてさすが。見直したぞ、加藤くん。

 心の中でしっかり加藤くんに感謝してから別棟に向かった 。本川くんとはあんまり話したことがないから緊張するけど、たぶん大丈夫。ノートを渡して帰るだけだし、本川くんは優しそうだから。私は大きく息を吸って、ドキドキする胸を抑えた。

 うちの高校は特別教室が集中している特別棟、教室があるHR棟、それと管理棟が漢字の「王」の字みたいに並んでいて、別棟は管理棟の一階の廊下からしか行けない。いわば、独立地帯。特別教室もないし、ふだんの授業でも使うことはないから実はまだ行ったことがない。まさかこんな形で足を踏み入れるとは。クラスメートのノートを返すためなんて、悲しい理由だ。

 下校するみんなの波を抜けながら別棟に行くと、突然暗くなった。蛍光灯はちゃんと点いてるんだけど、薄暗い。

 別棟には私以外に誰もいないみたいで、昇降口の方から聞こえてくるみんなの声が余計にここの静けさを際立たせてる気がする。しばらくじっとしてから、小さく身震いをした。なんだか心細い。

「早く渡して帰ろ」

 なんとなく不安になって、廊下の奥にあった階段を駆け足で上った。階段も、掃除はされてるんだろうけど、古いしそんなにきれいじゃない。隅に溜まってるホコリとか、うっすら汚れてる壁とか、どうしてさっきからこんなに別棟の暗さが気になるんだろう。ドキドキしてるのは、ここが不気味だから? それとも、私が本川くんのノートをとっちゃって後ろめたいから? なんでもいいけど、早く帰りたい。放課後に学校にいるっていうだけで、なんだか緊張するから。

 私は半年で部活を辞めた。活動日数が少ないって聞いて調理部に入ったんだけど、そんなに雰囲気が好きじゃなかったから。私以外の女の子たちは同じクラスの子同士でまとまっていて、同じクラスの子がいなかった私は入部早々孤立した。それでも個人作業が多いからはじめはそんなに気にしてなかったけど、みんなの仲が良くなっていくうちにだんだん週一回の部活に顔を出すことすら嫌になった。どうせ今日も私は一人なんだろうな、とか、いつも余ってる私を見て先生はどう思ってるんだろう、とか考えていたらいつの間にか退部を考えていた。それからずっと、放課後は直帰。

 ため息をついて頭を振った。こんなこと、思い出しても暗くなるだけだ。 もう終わったことだし気にしてない。それよりも、こんな辺鄙なところで本川くんは何をしてるんだろう。さすがに文化部、だよね。特別教室があるわけでもないし、別棟でできる部活って何だろう。

「きゃっ!」

 そんなことを考えながら登っていたからか、私は二階に着くところでつまずいた。体がつんのめって、一瞬ヒヤッとする。階段の縁がめくれていて、そこに上履きが引っかかったみたいだ。

 私はなんとか地面に片手をついて踏みとどまったけど、本川くんのノートは私の手から落ちて、しかもその反動で最後のページが開いた。

「もう!」

 まだドキドキする胸を抑えながら慌てて拾うと、中身が少し見えた。数字じゃない。ひらがなと、漢字。内容はわからないけど、なんで数学のノートに? 絶対に落書きだ。最後のページだし。隅っこにちょこって書いてあるし。

 好奇心がむくむくと膨らんだけれど、封印して進む。人のノートなんだから、のぞくのはよくない。ただでさえ、私は今本川くんのノートを盗っちゃってるんだから。

 今度はつまずかないように気を付けて三階まで登った。ここまで来ると、もう昇降口からの音も聞こえない。本当に静かで、自分の足音がパタンパタンと反響してるのが気になる。大丈夫。ノート返すだけだから。またそう言い聞かせて深呼吸をした。

 三階にある部屋は全部で三つ。一番奥の部屋だけ電気が点いてる。とりあえず人がいることにほっとして、その部屋に向かった。

「失礼します……」

 軽くノックしたけど、扉が開いているから中の様子は見える。本川くんは部屋の真ん中にある机に座ってイヤホンをしている。スマホをいじってるけど、私の声は聞こえたかな。

「ん?」

 もう一度ノックしようか考えていると、本川くんが顔を上げた。目が合って途端に気まずくなる。

「あ、あの、二年四組の増森香ますもりかおりです」

「いや、知ってるけど」

「あ、その」

 反射で自己紹介をした私に、イヤホンを外した本川くんはふしぎそうな顔をした。そりゃ、クラスメートなんだから知ってるよね。深く息を吸ってから、私はおずおずとノートを差し出した。

「の、ノートを」

「ノート?」

「数学の。返されたとき、後ろに回さないでしまっちゃったみたいで」

「ああ。言われて見れば俺のなかったかも」

「宿題あるから困るかなって」

 立ち上がって私からノートを受け取った本川くんはおかしそうに笑った。

「わざわざここまで来なくても、机の上とかに置いといてくれればよかったのに」

「学校にいるならすぐ渡した方が良いかなって」

 ごにょごにょと言うと、本川くんはまた笑った。それからなんでもなかったように席に戻って、またスマホに目を落とす。

「あの、一瞬見えちゃったんだけど。最後のページ、何が書いてあるの? 数学、じゃないでしょ」

 私は少し考えてから聞いた。勝手に中を見たの、嫌がられるかな。でも、あの落書きが気になる。少し緊張しながら本川くんの答えを待っていると、本川くんはスマホから顔を上げた。

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