第11話

 コーポレイブンの住民たちは、それぞれに煩悩を抱えていたらしく、そこかしこで警策きょうさくの音が聞こえた。もちろん一方的に殴られるわけではなく、お願いするのだが、そこは見事なもので、邪念が浮かんだ途端に、背後で光善寺さんが足を止めるのだ。そうなるとスルーは出来なくなる。合掌して頭を下げ、肩を明け渡さざるを得なくなるのだ。後で聞いたところによると、一度も叩かれなかったのは砥草さんだけで、みんな何回か警策を受けたとのことだった。波留都くんが二回、美冬はその倍。玲音に至っては十回以上ぶっ叩かれていた。

「肩こりが治りました」

 帰り際、力一さんが住職さんにそうお礼を言うのを聞いて、側に居た光善寺さんが苦笑いをしていた。


 夕暮れ時の商店街。またもや買い物客たちの視線を集めながら、一列になって歩く。広がって歩くと迷惑だからそうしているだけなのだが、二列ぐらいの方が良かったかもしれない。

「煩悩は消えましたか?」

 波留都くんが玲音に尋ねた。

「うん。5%ぐらいは」

「そうですか。それは良かった」

 列の前と後ろとで、そんな会話を交わしながら進んでいく。アーケードを抜けると目の前に夕焼けが広がっていた。

 一階の皆が部屋に戻り、玲音は何故か波留都くんに連れられて行った。真紀ちゃんと早紀ちゃんも、並んで部屋に戻って行く。何となく一人遅れて階段を上りかけた時、「美冬ちゃん」と後ろから声を掛けられた。中川さんだ。

「暇だったら、お茶飲んでかない?」

 ケーキが二つだけあるのよ。と小さな声で言う。玲音は暫く戻って来ないだろう。ありがたくお誘いを受けて、美冬は102号室にお邪魔した。

 いつもながら、センスのいい部屋だ。シンプルな中に大人の女性の可愛らしさが滲み出ている。美冬の部屋とは大違いだなと思いながら、夏仕様のスリッパに履き替えて上がらせてもらう。

「適当に座ってね」

 高級そうな猫脚の白いテーブルに、中川さんは花の絵が付いた硝子のティーカップを並べた。ポットから良い香りのハーブティーが注がれる。エアコンが効いた部屋での熱い紅茶は贅沢な気分だ。大ぶりのブランデーケーキが目の前に置かれた。

「患者さんから貰ったんだけど、分けたら二個ずつになってね」

 ちょうど良かったわ。と中川さんが笑った。


「美冬ちゃんは何回叩かれた?」

 金色のフォークでケーキを切りながら、中川さんが尋ねる。

「四回です」

 多かっただろうか。少し恥ずかしい。

「私と同じね」

 中川さんは言った。

「従兄くんは? 結構叩かれてたみたいだけど」

 玲音は……。

「十七回って言ってました」

 それを聞いて、中川さんが吹き出した。

「それは多すぎるわね」

 確かに。

「波留都くんも結構叩かれてたけど」

「え、そうなんですか?」

 ちょっと意外な気がした。

 席が隣だったから間違いない、と中川さんは言う。あれ? さっき話した時、波留都くんは二回だと言っていた。さては過少申告だったのか。

「悩み多きお年頃なのかしら」

 中川さんはそう言って、薄く笑った。微かに頬が紅い。ケーキのお酒に酔ったのだろうか。

「……あのね」

 少し声のトーンを落として、中川さんは言った。

「燈子さんにしか話したこと無かったんだけど、座禅を組んだから気持ちが楽になった気がするの。聞いてくれる?」

 中川さんは「内緒ね」と言いながら、自分の話をしてくれた。

 彼女は独身だと聞いていたけれど、昔、結婚していたことがあったのだそうだ。けれど、結婚生活は一年も続かなかったという。

「結婚式を終えて、二人で暮らし始めてすぐの頃だった。夫の元カノから連絡があったの」

 重い病気で、もう長く生きられないから、一度だけ会いに来て欲しい。そんな内容だったという。

「ドラマなんかでありそうな話よね。拒否するのも人の道に反する気がして、私は作り笑顔で彼を送り出したの」

 一日だけ。一日だけ我慢しよう。そう思ったそうだ。

「今考えたら傲慢だと思うのだけど、施しをするような気持が無かったとは言えない。自分が持っているものを、少しだけ貸してあげるような気持だったのかも」

 けれど、その日から夫は帰って来なくなった。まだ解約していなかった元のアパートが病院に近かったこともあって、会社から帰ると病院に直行し、面会時間が終わると、そのアパートに帰る日が続いたのだという。病院で元カノの恋人を演じ、そのまま家に帰るのは抵抗があったのだろう。気持ちの切り替えができなかったのかもしれない。でも、それだけではなかった筈だと中川さんは言う。

「彼は、状況に酔っていたんだと思う。悲劇の登場人物になったみたいに」

 憎からず思っている相手に頼られ、自分がその人の、ただ一つの救いとなるような状況。自己の存在意義を最大にする恍惚の中で、彼は妻の苦悩をかえりみなかった。

「もうしばらく我慢してくれと言われた。でも、それって言い換えてみれば、彼女の死を待つことよね。私には、耐えられなかった」

 半年後、彼女を見送った夫は、妻の元に帰って来た。けれど。

「もう、彼を受け入れることは出来なかった。嫌いになった訳じゃなかった。罪悪感とも嫉妬とも、少し違うような気がする。ただ、もう駄目だと思ったの」

 そのころ、ちょうど海外協力隊の話が来ていて、中川さんはそれに参加することを決めた。夫は理解できない風だったが、妻の意思が固いことを知って、仕方なく離婚に応じたのだそうだ。

「今になって思うの。最初に連絡があった時に、私も一緒に面会に行けばよかった。『妻です』って堂々と挨拶して、彼女の思いにけりをつけさせれば、お互いに辛い思いをしなくて済んだんじゃないかって」

 中川さんはカップに残った紅茶を飲み干し、ほっと息を吐いた。

「罪悪感も嫉妬も、感じていたのは彼女の方だったのかもしれない。自分が死んだら彼は妻の元に帰る。それを理解しながらも、それでも今だけは自分のものであるという、ひと時の虚構にしがみついていたのだとしたら」

 中川さんは微かに口元を歪めた。

「それを幸せと呼んで良いとは、私には思えない」

 遠くで風鈴の音が聞こえたけれど、静かな部屋はエアコンが効きすぎて少し寒かった。

 中川さんは笑顔で「紅茶のお替り入れましょうね」と言った。



 部屋に戻って暫くすると、玲音が帰って来た。波留都くんと何を話したのだろう。さりげなく聞いてみたけれど、「ちょっとエッチな話」と、はぐらかされた。きっと嘘だ。

「本当だよ」

 波留都くんのように、むきになって言い添える。胸を張って言うことでもないような気がするけど。

「あー、身体が痛い」

 警策を受け過ぎたからだと言いながら、玲音は肩を押さえた。

「煩悩が多すぎたみたいね」

「いやいや。煩悩なくして何の人生ぞ」

 美冬の言葉に玲音は、そう言って合掌した。NO MUSIC NO LIFEみたいだけど、少なくとも合掌しながら言う言葉ではないなと思い、美冬は笑った。


「頂きます」

 ホウレン草のお浸しとみそ汁、商店街で買ったコロッケを前に、玲音と二人で手を合わせる。

「合掌って、元々はインドの挨拶だって知ってた?」

 ナマステ~と言いながら、玲音は美冬を拝んだ。

「右手が清浄な手で、左手が不浄な手。清浄な手は仏の象徴で不浄な手は人間を表す」

「ふうん」

 人間は元々不浄な生き物なのか。言われてみれば、そうかもしれない。小さな罪を重ね、矛盾に満ちた、どうしようもない生き物だ。不思議に納得がいった。

「合掌の形は、十二種類もあるんだぜ」

 少々得意げに、玲音が言う。おおかた波留都くんの処で仕入れて来た雑学だろう。

「合掌造りは、合掌した時の手と腕の形に似てるからそう言うんだって」

「へえ、そうなんだ」

 波留都くんと何の話をしていたのだろう。ずっと合掌について語り合っていた訳ではあるまい。

「結構急勾配で、屋根の角度はおよそ60度から75度もあって」

「ふ~ん」

 上の空で返事をする美冬に、玲音は勢い込む。知識を披露したいのだろうが、波留都くんの受け売りなのはバレバレだ。

「何故か、家は全部、同じ方向を向いているんだって」

 それはそうだろう。あんな特殊な屋根を作らないといけない気候で、風向きと日差しを考えたら当然だ。

「あまり知られてないけど、村人の先祖は平家の落ち武者って説もあるんだって、波留都くんが……」

 ほ~ら。やっぱり波留都くんだった。

 トリビアのネタ元がバレたのに気付いたのか、玲音は少々決まり悪そうに箸を取った。

「明日はカレーにしような」

 上手に話を変える。

「ひき肉のカレーがいい」

 はいはい。

 今日はもう、何も考えずに寝ようと思った。

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