第10話
七月も半ばを過ぎた。これからどんどん暑くなっていくのだろう。仕事帰りに通った商店街には「土用の丑の日」の幟が出ていた。今年は鰻は、もういいや。
階段下から空を見上げると、黒い建物の後ろに夕日が沈んでいく。今日は、いい天気だった。
「美冬ちゃん」
突然、声を掛けられた。102号室の中川さんだ。
「ちょうど良かった。光善寺さんから牛肉の佃煮を貰ったの。良かったら一袋持っていって」
檀家さんから貰ったものらしい。光善寺さんは肉を食べないので、中川さんに廻って来たのだろう。住職さんも、相手を見て配ればいいのに。
光善寺さんの部屋の玄関横に、ビニール傘が干してあった。よく見ると、水色の線でスターウォーズの絵が薄く描かれている。
「だいぶ前にね。コンビニで、三百円だと思ってレジへ持っていったら、千四百円ですって言われたんだって。一本しか残ってなかったから仕方なく買ったって言ってた」
中川さんはそう言って笑っていた。
牛肉と九条ねぎの佃煮を持って、美冬は階段を上がった。今日の夕飯にしよう。カンカンと響く音が耳に心地いい。
中川さんは、いつも何かと気にかけてくれる優しい人だ。この人の怒った顔も見た事ないな、と美冬は思う。
あ、一度だけあったかもしれない。
──この手の映画、嫌いなの。
珍しく中川さんが毒を吐いたことがある。
あれは、いつだっただろう。商店街に映画のポスターが貼ってあった。映画館自体は一つ向こうの駅前にあるのだが、提携していたのだろう。そこには『この夏、最高に泣ける映画』というキャッチコピーが書かれていた。いわゆる死にモノというやつだ。
──人の死なんて、現実だけでたくさん。
看護師として幾人もの患者の死を見て来た経験がそう言わせたのだろうか。誰かの死によって揺さぶられる感情を、感動と取り違えてはいけない。そんな風に話してくれたように憶えている。
「知識と経験は似て非なるものですからね」
光善寺さんも、その場にいたのだろうか。落ち着き払った声が、耳によみがえった。
「全員集合しましたね」
一列に並んだ面々を眺めて、光善寺さんが言った。
七月三週目の、土曜日の午後である。梅雨はすっかり開けたようで、今日も晴天。蝉の声が賑やかだ。
本日は、光善寺さんが勤めるお寺で座禅の会が開かれる。コーポレイブンの住民たちは、大家さんの声掛けで全員が参加することになった。波留都くんに引っ張り出された玲音だけは渋々だったようだが。
「始まるのは二時からですので、そろそろ出かけましょう」
光善寺さんが言う。この暑いのに、ちゃんと黒い法衣と袈裟を身に着けている。それとも、痩せているから暑くないのだろうか。
商店街のアーケードの入口には、目玉のような模様が描かれた大きな赤い提灯が二つ、左右に並んでいる。お店の数は両側にそれぞれ二十四件ずつ。少し蛇行した一本道だ。お坊さんを先頭に年齢も格好もてんでばらばらの十名が、何故か一列に並んで道の真ん中を進んでいく。少しだけ人目が気になった。大家さんは顔見知りの果物屋さんや魚屋さんに手を上げて挨拶していた。商店街を抜けると、細い道路を挟んで左が住宅地、右が公園である。公園の中央には噴水と、少し離れてダンボの滑り台がある。その向こうで、小さい子供が、パンダとくまさんのスプリング遊具に乗っているのが見えた。ふと入口辺りを見ると、赤いインクだけが退色した「このあたりで してはいけません」というプレートが目についた。何をしてはいけないのだろう。気になる。
公園のすぐ隣が小学校である。ちょうど校庭が見える。築山に鉄棒、そして
休日で子供がいない校庭に、チャイムの音だけが響いていた。
住宅街に入ると、またまた、赤いインクだけが退色した「勧誘セールス(空白)」とか「猛犬(空白)」のプレートが目についた。これは『お断り』と『注意』であるのは明らかだが、肝心な部分が退色して消えてしまっては意味がない。作り直すのには二~三千円というところだろうか。微妙な値段ではある。だったら、マジックで書けばいいのに。
お寺に到着した。由緒ある古いお寺で、正面に本殿、右側に寺務所がある。『座禅体験受付』というプレートがあった。これは黒一色なので退色していない。
受付で燈子さんがまとめて手続きを済ます。スマホは電源を切るように言われた。
本堂に上がらせてもらって、御本尊にお参りをする。板張りの床が少しひんやりして気持ちよかった。座禅の会は大して人気がなかったのか、申し込んだのはコーポレイブンの面子だけのようである。用意された丸い座布団に座り、住職さんから説明を受けた。無理をしないこと。体調が悪くなったらすぐに言うこと。
「難しく考えなくていいですよ」
恰幅のいい丸顔の住職さんが、そう言って笑った。
手を組み、口を閉じて目を半眼に開く。身体を軽く左右に揺らして止める。後は無心。ただ無心。
「悩みがあるんじゃない?」
中川さんにそう言われた時、てっきり自分のことだと思った。唇が震え、言葉を返すことが出来なかった。
「お見通しですね」
早紀ちゃんが、そう言って舌を出したのを見て、身体の力が抜けた。
先週の話だ。
「美冬センパイの前では強がっちゃったけど、あの後、何日かして、彼から謝罪の電話があったんです」
中川さんが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ後、深呼吸するように息を吐きながら、早紀ちゃんは言った。
「俺が悪かったって。ちゃんと会いに行くようにするから、別れ話は無かった事にしてくれって」
正直、どうしようか迷ってます。と早紀ちゃんは言う。
「このまま遠距離で付き合っていいものかどうか。お互いに無理して、結局駄目になるんじゃないかって」
口調は明るかったが、眼差しは真剣そのものだった。
「悩むのは若者の特権」
中川さんがふっと笑う。つい最近、どこかで聞いた言葉だ。
「何が正解かなんて、結果が出てからじゃないと分からない。……いえ、一通りの結果なんて意味を持たない。もう一つの選択をしていたら、って考えてしまうから」
正解など無いのよ。そう中川さんは言った。
「よく考えて。そして徹底的に話し合って。自分を偽らずに正直になって」
後悔することを怖れないで、と。
早紀ちゃんは何度もうなずき、やがて小さな声で「ありがとう」と言った。
その時、美冬たちは座禅の会に誘われたのだ。そんなことで悩みが解決するとは思えなかったが、面白そうなので参加することにした。
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