煩悩と合掌
第9話
103号室の光善寺さんは、お坊さんである。
名前はお寺っぽいが、近くの寺の雇われ坊主だ。三十歳の誕生日に突然思い立ち、今までの悪行三昧を反省して頭を丸めたのだという。何をしてきたのかは教えてくれない。海外に修行の旅に出たけれど、挫折して帰って来たと言っていた。結局、近所の住職さんに弟子入りし、試験を受けて僧籍を得たとのことだ。
「恥の多い人生を送ってきました」
痩せた頬を少し緩めて、光善寺さんは言った。
自分の話をするとき、彼はいつもそう言う。肉食妻帯が当たり前の日本の仏教界に身を置きながら、何故か極端にストイックな生活を送っているこの人は、そのうち
……というのは冗談である。
「太宰治や三島由紀夫は『太宰』『三島』って言うのに、夏目漱石は何故『漱石』って言うんでしょうね?」
話を変えたいのか、遠回しのツッコミなのか、波留都くんが言った。
「ペンネームが面白いからでしょう」
早紀ちゃんが言う。仕事の帰り道、シャッターが降りた商店街で一緒になった四人である。店先に貼ってあるポスターを見てガンジス川についての知識を口にした光善寺さんに、インドでの話を聞きたくて振ったけれど、結局は言葉を濁された。言いたくないなら聞かない方がいいだろう。それぞれが持つ、色とりどりの傘から水滴が落ちていた。美冬は赤、波留都くんは青、早紀ちゃんはピンク。光善寺さんだけは、何故か透明のビニール傘だった。薄っすらと水色の線が入っているように見える。
「昔の人って繊細だよな。男が恋の悩みで死んだりして」
波留都くんが言った。誰の本を読んだのだろう。
「そうね。今だったら『ラインで告ってみたけど無理だったわー ぴえん』で終わりなのに」
早紀ちゃんが笑う。もう気持ちは晴れたのだろうか。
「人生に悩むのは若者の特権ですね」
光善寺さんが言った。話しているうちに到着する。日没後の雨雲の中に佇むコーポレイブンは、黑い外観が闇に溶け込んで怪しい感じだ。
「一番輝かしい時期に苦悩の中に身を置くなんて、もったいないと思わないこともないのですが」
光善寺さんは、そう言うと、「では」と軽く頭を下げて部屋に入って行った。
「相変わらず
波留都くんが言う。
「人生の道筋について説いてもらおうと思って話しかけるんだけど、いつもはぐらかされるんだ」
本当に、そんな事を思っているのだろうか。疑惑の視線を投げかける美冬に、波留都くんは「本当だから」と、むきになって言い添えた。
早紀ちゃんがスマホを気にしながら階段を上がっていく。踊り場でふと足を止めた波留都くんが、美冬を振り返った。
「今日、志村さんは?」
「今朝、出てくるときは居たけど」
玲音が来てから一週間になる。いつもは長くても三日いれば良い方だが、近くにある出版社との打ち合わせが何度かあるせいで、もう暫く置いて欲しいと言われたのだ。今朝も美冬は、寝ている玲音に躓きそうになりながら部屋を出て来た。風邪が治った途端、玲音はまた台所で寝るようになった。和室で寝るよう勧めたが、頑なに台所から動こうとしない。
「今回は、長いね」
波留都くんは、そう言った後、「ちょっとは反省したかな」と続けた。
「浮気は男の甲斐性って言うけどさあ」
いつの時代の言葉だ。もしかしたら、先日の密談の時に大家さんが言っていたのだろうか。
「美冬さん、素直すぎるよ」
表現は優しいが、褒められていないことは確かだろう。玲音と美冬の関係は、傍目にはどう映っているのだろうか。
「大人の素直は、『ばか』ってルビが振られるんだよ」
……今、結構なことを言われたような気がする。
「美冬さんも、ちゃんと怒らなきゃ」
波留都くんはそう言った後で、何故か小さく溜息をついた。
ありがとう。仕返しに、きみには『妖怪セイローン』の称号を授けよう。
「一緒に光善寺さんとこで座禅組もうって言っといてください」
僕が気にすることじゃないんだろうけど、と言いながら、波留都くんは、さっさと階段を上がって行った。
部屋に入ると、テーブルの上に置いてあった雛鳥の口に、玲音が餌を入れて遊んでいた。
「プレゼント用なんだから、遊ばないで」
落選した試作品である。桜木さんにプレゼントするつもりで、クラフト紐で巣も作った。後はラッピングすればいいだけだ。
よく見ると、ご丁寧にビーズを連ねて
「お帰り」
「……ただいま」
仕事から帰って出迎えてくれる人がいるというのは不思議な感じだ。と同時に、いつかはそれも終わり、また一人になるのだと考えると切なくなる。玲音の『飼い主』たちは、皆こんな感情を味わうのだろうか。それでも平気なのだろうか。期間限定。次はいつか分からないのに。もう無いかもしれないのに。
一方的な思いなら断ち切ってしまおうとした早紀ちゃん。あの夜、彼女はきっと泣いたに違いない。そして朝になったら、濃いメイクで涙の跡を隠して仕事に向かったのだろう。
どちらも、美冬には真似できない。彼女たちのような強さは、美冬には無い。
「腹減った~」
玲音が言う。何だか、雛鳥のようだと思った。
「夕飯作るね」
「手作りハンバーグが食べたい」
「おい!」
この時間から、手間のかかるものをリクエストするな。
「……レトルトで結構でございます」
急に、
御飯は炊いてあったので、保存食として買ってあったレトルトハンバーグを湯煎している間に、胡瓜とトマトを切る。トマトは白い線と線の間に包丁を入れると種の部分が出ない。
猫のダヤンのエプロンを着けた玲音が、隣に立って、わかめと薄揚げの味噌汁を作った。小皿で味見をして言う。
「やっぱ、『ほんだし』が最高」
安上がりな奴だ。美冬も他人のことは言えないが。
「なあ、美冬……」
このままでいいと思った。今日が永遠に続けばいいのに。そう思った。
「美冬は、幸せになれよ」
玲音の呟きには、返事をしなかった。
インターホンが鳴っている。
開けちゃ駄目。
そこには、幽霊が立っているから。
恨めしそうな眼をして、美冬の名前を呼ぶから……。
目が覚めた。布団の中だ。インターホンなど鳴ってはいない。
「美冬?」
和室と台所を隔てる襖が細く開き、心配そうな玲音の顔が覗いた。
「大丈夫か?」
そう尋ねる。
「何が?」
「うなされてた」
「……そう」
襖の隙間から身を乗り出し、玲音は美冬の手を取った。
「握っててやるよ。怖い夢見ないように」
痩せこけた青白い顔に纏わりついた長い髪が、生き物のように蠢いて見えた。幽霊は恨めし気な視線を彷徨わせ、低い、けれど悲鳴のように聞こえる声で、美冬の名前を呼んだ。
──美冬、帰るわよ。
青白い母の顔が恐ろしくて、振り乱した髪が恐ろしくて、美冬は動けなかった。玲音のお母さんにしがみついて、その胸に顔を埋めた。
──嫌!
そう言ったような記憶がある。残酷な言葉。
母と玲音のお母さんは、何か言い合いをしていたような気がする。その後父が戻って来て、母を連れ出して行った。
その夜、美冬は玲音の家に泊まった。
眠れない美冬の手を、玲音が握ってくれた。
──こうしてれば、怖い夢見ないから。
そう言って。
母が亡くなったのは、それから半年後のことだった。祖母からは病死だと聞いている。詳しい事は知らない。その後も玲音たちとの交流は細々と続いたが、中学三年生の夏、玲音たちは遠くへ引っ越していった。
十五歳の誕生日を、祝わないままに。
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