第8話
「美冬センパイ」
急に後ろから声を掛けられた。早紀ちゃんだ。
「何してるんですか? こんなところで」
仕事の帰りらしく、少しだけ服装が地味だった。実は塾講師をしている早紀ちゃんは、教員採用試験に向けて勉強も続けている。
「管理人さんとこに行った帰り」
そう答えて、早紀ちゃんと一緒に階段を上がる。
「昨日はありがとうね」
わざと大きな声を出して、戻って来た事をアピールする。自分は小心者だと思った。
部屋の前に着いたのと、同じタイミングでドアが開いた。
「お邪魔しました」
そう声を掛けて、波留都くんが出てくる。美冬にむかって「じゃあ」と手を上げ、さっさと廊下を歩いて行く。その後に早紀ちゃんが続き、手を振って隣の扉に消えた。
部屋に入ると、少々困った顔の玲音がいた。
「あのさ、美冬……」
言い淀むのを聞いて不安だった。波留都くんと何を話したのだろう。何を言われても気にしないで。そこに居てくれるだけでいいの。
「なあ、美冬」
「うん、何?」
ふと、玲音の口元が優し気に綻ぶのが見えた。
「もう暫く、居てもいいかな?」
それは、お願いというよりも、側に居るから安心しろと言われているように思えた。
結局、夕方になると玲音の熱はぶり返した。奥の和室で先に寝かせて、美冬は台所のテーブルで車カバーのデザインを考えていた。液晶タブレットに絵を描き、色を付ける。なぜカバがピンクなのだろうか。シマウマの縞も、白と黒だと地味になるから黄色にしようか──いや、それでは虎だ。お前は虎になるのだ。キリンも考えてくれと言われた。模様はいいが、長い首が問題だ。短くするとキリンではなくなる。ジラフではなく麒麟にしようか。黄龍である。青龍・朱雀・玄武・白虎の四神獣も入れればいい感じかも。ただし孫は絶対に分からない。
頭が痛くなって来て、美冬はペンを置いて目頭を押さえた。
──波留都くんが怒った声、初めて聞いた。
いつも冷静な彼らしくなかった。波留都くんが、美冬の為に怒ってくれているのは分かった。玲音の副業を良く思っていないのは美冬も同じだ。倫理的に──というより、心情的に辛い。けれど、波留都くんは誤解している。
そっとしておいて欲しい。どうか、お願いだから。
思考が散漫になって来た。眠気が襲って来る。仕事しなきゃ。……眠い。
インターホンが鳴るのが聞こえた。立ち上がろうとしても身体が動かない。
……眠い。
『はーい』
女性の声がして、パタパタとスリッパの音が聞こえる。誰だろう?
『お帰りなさい』
チェーンを外し、鍵を開ける音がする。
──開けちゃ駄目!
美冬は夢の中で叫んでいた。不思議だった。何故? 何故、開けてはいけないのだろう。
意識が、記憶の底に沈んでいく。幼い頃の記憶。
開けては駄目。だって、ドアの向こうには、そこには……。
美冬は目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだった。
夢の続きのように、インターホンが鳴っていた。窓の外は真っ暗だ。
──こんな時間に誰だろう。
まさか、またあの人が来たのではないかと恐れながら、けれど居留守を使う訳にも行かず、美冬は鍵を開けた。念のためチェーンを掛けたままドアを細く開く。
「美冬センパイ」
ドアの外には、早紀ちゃんがいた。
「電気がついてるから、起きてるかと思って」
遅くにごめんなさい、と早紀ちゃんは頭を下げた。
「どうしたの?」
タブレットを片づけたテーブルに麦茶のグラスを置き、美冬は訪ねた。化粧を落とした早紀ちゃんは、色白で可愛らしい。
「別れちゃいました」
隣の部屋で寝ている玲音を気遣って小さな声で告げられた言葉に、美冬は驚いた。彼女は、つい先日、北海道に住んでいる彼氏に会いに行ったばかりではないのか。
「遠距離は、やっぱ無理みたい。会いに行って分かった。遠すぎる。戻って来てから電話で話したんだけど」
今度はこっちに来て欲しいと言った早紀ちゃんに、彼は無理だと言ったのだそうだ。仕事が忙しくて、そんな時間は取れないからと。
「会いたかったら私が行けばいいのかもしれない。確かに、旅費は持つからって言ってくれた。でも何か違う気がして」
早紀ちゃんにも、もちろん仕事はある。随分前から調整を重ねて、やっと今回、会いに行けたのだ。
「旅行が楽しかった分、落差を感じちゃったんですよね」
つい感情的になって、別れを口にしたのだそうだ。彼は承諾した。それがショックだったのだと言う。
「売り言葉に買い言葉だったのかもしれないけど……」
謝る気になれないのだと、早紀ちゃんは言った。
早紀ちゃんが彼氏と付き合い始めたのは四年前。大学の同級生だった。見ていて羨ましくなる程に仲が良かったのに。彼が北海道に転勤になって一年半。離れて過ごしたことで、気持ちにずれが生じてしまったのだろうか。
「泣いて
早紀ちゃんは、そう言って笑ってみせた。
その選択を、彼女は後悔しているのかもしれない。もし彼が言う通りに早紀ちゃんが会いにいけば、関係は続いたのだろう。けれど彼女は、それを良しとしなかった。待つ女ではなく、人として対等でありたかった。つい口から出た別れの言葉。半分は本心で、そして、半分は嘘。
「やっぱり、ちょっとだけ泣いちゃおうかな?」
早紀ちゃんは、そう言って「えーん」と泣き真似をした。
「いいわね~。いかにも小さい子に受けそう」
ミニバンから変身したピンクのカバを見て、桜木さんは言った。
「孫の点数を稼ぎたいお祖父ちゃんお祖母ちゃんが飛びつくわね」
もしもし。少々毒がありますけど……。
言われた事だけして終わるなと、常々課長がうるさいので、イラストはかなりの量を追加した。実際の試作品はカバだけで、あとは画面を見てもらう。タブレットに並んだ絵の一つを指さし、桜木さんが尋ねた。
「これは、何の動物かしら」
「あ、それは、動物ではなくて」
画面を拡大して説明する。工事現場の車を模したものだ。ユンボはキリンと同じで難しいので、コンクリートミキサー車にした。
「いいわね」
桜木さんの目が輝いた。小さい男の子がいるのだろうか。
「車シリーズ、良いわね。パトカーとか、消防車も作りましょう」
それは、駄目だと思う。
「高級車そっくりにするのは?」
友佳さんが余計なアイデアを出す。そんな事したら盗難に遭います。
「昆虫、……カブトムシとかクワガタとか。蜂も面白いわね」
何だか妙な流れになって来た。もう、この辺にしておいて欲しい。
「ちょっとブラックに、女郎蜘蛛なんかどうでしょうか」
「それ採用!」
心臓の弱い人が夜中に通り掛らないことを、切に願います。
「タコはどうでしょう。オクトパス!」
「いいわね~」
何故かハイテンションで盛り上がる桜木さんと友佳さんから一歩離れて、美冬は小さく溜息をついた。大きなガラス窓から見える展示場には、色も形も様々な車が並んでいる。それらが動物や昆虫や、きっと怒られる緊急車両などのカバーを着けられ、変身した光景が目に浮かんだ。結構、有りかもしれない。
……いや、無いな。
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