止まり木
第7話
玲音の熱は翌朝には下がっており、医者には行かないと言い張るので、美冬は少々後ろ髪を引かれながらも仕事に出かけることにした。
「おかゆ作ってあるから。管理人さんにも声を掛けておくね」
「わかった」
元気そうに言うのでひとまず安心して、美冬は部屋の鍵を掛けて一階の101号室へと向かった。呼び鈴を押すと「はーい」と声がして、管理人の鳥井燈子さんが顔を出す。
「朝からすみません。実は……」
美冬の話を聞いて、燈子さんは「あらら、大変だったわねえ」と言った。
「時々様子を見に行くようにするから安心して行って来てね」
そこまでしてもらう必要もないのだが、燈子さんの気遣いが嬉しくて、美冬は、ありがとうございますと頭を下げてコーポレイブンを後にした。
「美冬ちゃん」
ビルの一階にあるうどん屋での昼食を終えてオフィスの入口を入ったところで、友佳さんに声を掛けられた。
「ちょうど今、連絡があったの。三点採用だって」
「本当ですか?」
マッサージベルトとボトルオープナー、そして動物の形の車カバーが採用になったという。残念ながら鳥の雛は落選したようだ。
「七品のうち三つが合格か。さすが須藤くんだね」
課長も心なしか機嫌がいい。
「次からは営業も担当してもらおうか」
さすがにそれは遠慮して、美冬は席に着いた。
「おめでとう」
隣席のミカが、そう声を掛けてくれた。
先方の希望に沿って、もう少し改良を加えたり店のロゴを入れたりするということで、後日、また打ち合わせに行くことになった。今度は平日なので友佳さんと一緒だ。
「車カバーのデザインを増やして欲しいそうよ」
メールを見ながら友佳さんが言う。
「ピンクのカバとか、シマウマとか。桜木さんって結構面白い人よね。……車を呑み込んだウワバミ? 何かしら、これ」
何か、とても嫌なことを思い出した。
土曜出勤のご褒美に定時で上がらせてもらい、美冬は自宅へ急いだ。小さい子供ではないのだから少々熱があっても心配いらないとは思うが、何となく気になって、少し駆け足になりながら美冬は商店街を進んだ。途中の店でプリンとスポーツドリンクを買い、また駆け足で家に向かう。
コーポレイブンの階段を上っている途中で、ふと足が止まった。ドアを開けても、部屋には誰もいないのではないか。玲音は出て行ってしまったのではないか。急にそんな気がして、途端に足が重くなった。打って変わってトボトボとした足取りで、美冬は残りの階段を上がった。
鍵は開いていた。嫌な予感が当たったような気がして、それでも小さく「ただいま」と声を掛けて、美冬はドアを開けた。
玄関には、美冬と玲音の物ではないスニーカーとサンダルがあった。部屋には三人の男性。
「やあ、美冬ちゃん、お帰り」
大家の御主人である
「男三人、寄り集まって何の相談?」
部屋が空でなかったことに安心して、美冬は笑いながら言った。
「エロ話」
玲音が応じる。
「違うよ」
波留都くんが慌てて否定した。少し顔が赤くなっている。実はちょっとだけ、そういう話もしていたのかもしれない。
「玲音、起きて大丈夫なの?」
尋ねると、玲音は頷き、騎士が礼をするような仕草で頭を下げた。
「すっかり平熱。ご心配おかけしました」
プリンは、いらなかったかな?
「あ、プリンだ」
テーブルに置いたレジ袋を覗き込んだ玲音が、嬉しそうに声を上げた。
「プリンって冷凍すると美味いんだぜ。知ってた?」
波留都くんに向かって言う。
「そうですか」と、さらりと流して波留都くんは立ち上がり、プリンを冷凍室に入れてくれた。
「そろそろ失礼するよ」
力一さんが、そう言って立ち上がった。
「お大事にね」
玲音の様子を見に来てくれていたのだろう。美冬は力一さんにお礼を言って送り出した。
「大家さんとこも大変だよな」
誰にともなく、玲音が言う。
「娘さんの御主人、中国へ転勤なんだって」
波留都くんが説明してくれた。出世に繋がる転勤らしいが、単身赴任で半年、後は家族を呼び寄せて五年間赴任するとのことだ。
「力一さんも燈子さんも、淋しいだろうな」
大家さんの娘さんは、近所の一軒家に住んでいる。歩いて行ける距離だ。お孫さんは女の子と男の子の二人。お姉ちゃんが四歳で、男の子はまだ一歳になっていない。二人とも可愛い盛りだろう。
──孫守りも大変。
燈子さんは、とても嬉しそうに、そう話していた。
「反対はしなかったそうだ。しても仕方ないし、気持ちよく送り出してやりたかったからって」
何となく三人とも黙った。二十代の自分達には親の思いは分からない。祖父母となれば、より一層。ただ、そこには自分たちの感情より娘の幸せを願う気持ちを感じた。
「あれ? これは」
テーブルの端に置かれた老眼鏡は、力一さんのものだろう。
「忘れ物だ。届けて来る」
美冬は眼鏡を手に立ち上がった。
階段を降りると、ちょうど燈子さんと出くわした。102号室の中川さんもいる。立ち話をしていたようだった。
「ありがとう」と言って眼鏡を受け取ると、燈子さんは「かーちゃん、眼鏡」と言いながら家に入って行った。
「
美冬に顔を向け、中川さんは、そう尋ねた。
皆には玲音の事を従兄と伝えてある。細かい説明をしたくなかったからだが、皆、素直にそれを信じてくれている。というより、気に留めないでいてくれるというのが正しいのかもしれない。
「ありがとうございます。お陰様で」
中川さんは、かつては看護師としてJICAにも参加経験のある人だが、今は二駅向こうの診療所で週に何日かだけ勤務している。美冬が常備している満量処方の葛根湯は、彼女に薦められたものだ。
──肩こりにも効くのよ。
試作品の製作に細かい作業が多い美冬を気にかけてくれたのだろう。
「葛根湯、効くでしょ」
そう言った後、中川さんは少しだけ声を顰めて、「聞いた?」と尋ねた。
「はい。転勤だそうですね」
簡単にそれだけ答えて、美冬は言葉を切った。
「出世街道とはいっても、中国は遠いよね。気持ちとして」
中川さんが言う。
「家族は一緒にいるのが幸せ。分かっちゃいるんだけど」
寂しいでしょうね、と中川さんは続けた。
階段を上がり、部屋に入ろうとした時、中から波留都くんの声が聞こえて来た。
──美冬さんが可哀そうだと思わないんですか。
突然、自分の名前を耳にして、美冬は足を止めた。
──あの怒鳴り込んで来た女性とは、ちゃんと切れたんですか。もう来ないんでしょうね。
玲音の声は、聞こえない。
──そんな事続けていたら、いつか刺されますよ。
波留都くん、お願いだから変なフラグ立てないで。
暫くの沈黙があった。いや、聞こえなかっただけで、小さな声で話していたのかもしれない。
──ふざけないでください!
波留都くんが声を荒らげるのを聞いて、美冬は後ずさりし、上って来たばかりの階段を降りた。そして、踊り場で途方に暮れた。
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