第6話
お茶会が終わった頃には、時計の針は六時を指していた。棚の上には二人の名前が貼られたマリモの瓶が並んでいる。根無し草の玲音は、きっと持っては行かないだろうから、今後も此処に置かれたままにになるだろう。
「あーっ!」
突然、玲音が声を上げ、椅子から立ち上がった。
「ケーキ買うの忘れてた」
書類をかき分けて鞄から財布を取り出し、冷蔵庫にマグネットで留めてあったチラシを掴んで玄関へと走る。
「店、まだ開いてるかな?」
ピンク色のサンダルを突っ掛けて飛び出して行く後ろ姿を、美冬は追った。
「玲音、傘!」
外は霧雨のような、細かい雨が降っていた。
「大丈夫!」
階段を駆け下りていく音を聞いて追いかけるのを諦め、美冬は部屋に戻って、さっきまで座っていた椅子に、また腰を下ろした。口が開いたままの玲音の鞄から、カメラのショルダーストラップが飛び出しているのが見えた。
玲音の本業はカメラマンである。幾つかの雑誌と契約し、頼まれた写真を撮っている。収入はさほど多くない。だから基本的に仕事は選ばないようで、写真の種類は様々だ。登山やダイビングに同行することもあれば、パパラッチ的なものやヌード写真なんかもあるらしい。ただ一種類、どうしても受けない仕事があるのだが、それは内緒である。
中学三年生の時に別れ別れになったあと、長く会う事が無かったが、大学生になって一人暮らしを始めた美冬の元に、玲音は突然現れた。手土産に丸いケーキを持って。
──久しぶり。
少し照れくさそうに、玲音は笑った。
懐かしくて、とても嬉しくて、美冬は玲音を招き入れた。離れていた時間は一気に巻き戻った。小雨が降る七月七日の夜。離れていた期間など無かったかのように、美冬と玲音は二十本の蝋燭を吹き消した。
それから毎年、七夕の頃に玲音は訪ねて来るようになった。滞在は二、三日のことが多かったが、一日だけの時もあった。けれど毎年七夕の日には必ず、玲音は美冬のもとにやって来る。二人だけの誕生日を祝うために。
雨が強くなった。迎えに行こうと美冬が立ち上がった時、玄関のドアが開いた。ケーキの箱を胸に抱えて髪から雫を垂らした玲音は「おまたせ」と小さな声で言った。
「一つだけ残ってたんだ。小さいけど」
箱を開けると、形だけは丸いショートケーキがパラフィン紙に包まれて納まっていた。そして箱のスペースの半分を占めていたのは。
「二十七本……」
五色がセットになったミニ蝋燭の包みが五つと、ピンクがばらで二本。
「お店の人がサービスしてくれた」
嬉しそうに言う玲音に、返す言葉が思いつかなかった。
「二十五、二十六、二十……七、っと。完成」
美冬が風呂から上がると、玲音はケーキに蝋燭を刺していた。どうしても歳の数の火を吹き消したいようだ。ハリネズミのようになったケーキを気の毒に思いながら、美冬はティーカップと皿を用意した。それから、この日の為に買っておいたシャンパンの瓶。
玲音がマッチを擦る。赤い蝋燭に小さな火が灯った。冷えたシャンパンのコルクを抜く、ポンという音。
──ハッピーバースデイ。
賢明なる読者諸君は既にお気づきの事と思うが、蝋燭に火をつける時は、間隔を開けて立てなければいけない。密集すると奴らは結託し、一つの大きな炎へと進化するのだ。
「うわ~!」
一本の蝋燭に灯った火は瞬く間に燃え移り、ケーキは炎の塊になった。
「早く、早く消さなきゃ!」
炎の先は天井近くまで伸び、美冬たちを慄かせた。
「消火にはマヨネーズだ!」
玲音が冷蔵庫に走る。違う、それは天ぷら火災の時だ。しかも間違った情報である。
「水!」
パニックになると人は、おかしな行動を取る。冷蔵庫まで行ったのならシンクで水を汲んでくればいいのだが、わざわざ風呂場へ行き、シャワーを引っ張って来ようとして途中でつっかえて転ぶ。
「ああ、もう!」
美冬は、手近にあった液体をケーキに掛けた。掛けてから気付いたが、手に持っていたのは、シャンパンの瓶だった。──飲むのを楽しみにしてたのに。
漸く鎮火した時には、ケーキは黒焦げの水浸しとなり、テーブルからは気泡を含んだ水がぽたぽたと床に垂れていた。
何だか急に可笑しくなって、二人で声を上げて笑った。
前向きに考えよう。床がクッションフロアに張り替えてあって良かった。昼間にテーブルの書類を片づけておいたから、燃え移るものがなくて、火事にならなくて済んだ。不幸中の幸いだ。天の慈悲だ。神の見えざる手だ。アダムスミス。ちなみに後日、波留都くんにそう言ったら、
──それは経済の用語だよ。
使い方を間違っていると指摘された。
夜になっても、雨は止まなかった。窓ガラスを透かして空を見ても真っ暗で、天の川どころか、星の一つも見えはしない。
「今年も逢えないんだね」
美冬の呟きを聞いたのかどうか、玲音がおもむろに立ち上がった。台所で、がさがさと書類をかき分ける音がした後、玲音はタブレットと一眼レフを持って戻って来た。
「今年撮った写真」
そう言いながら、カメラから取り出したSDカードをタブレットに差し込む。
「取材?」
「いや、プライベート」
電源を入れ、画面を操作すると、玲音は美冬にタブレットを差し出した。
画面いっぱいに、咲き乱れる桜の花があった。山桜だろうか、柔らかな陽の光に照らされたそれは何故か、新雪のように白い色をしていた。
「加工したわけじゃないよ。白い花をつける桜なんだ」
「……綺麗」
ソメイヨシノをはじめ桜といえば淡いピンクのイメージだが、白い花を咲かせる品種も数多くあるのだという。
「京都の山奥で見つけた、人の手の入ってない原種だ」
フリックすると遠景になる。確かに幹の色は茶色だ。花びらだけが白い。不思議な景色だった。日本ではない、どこか遠い国のような。
次の写真。透き通った水をたたえる小川に、白い花弁が落ちている。花筏が一艘、二艘。緩やかに流れて行く。
「カメラを向けた時、ちょうど強い風が吹いたんだ」
舞い散る花びらが川面を覆い、隙間から見える水面が柔らかな光を放っていた。
美しい風景だった。玲音はこんな写真を撮るのだ。そう思うと、何だか不思議な気持ちになった。
「これは六月の写真」
同じ川なのだろうか。春の優し気な雰囲気は消え、強い日差しを跳ね返すような力強い輝きがあった。水嵩は減った分、より流れを強めて、透き通った水が岩の側で渦を巻いていた。
せせらぎと野鳥のさえずりが聞こえるような気がした。都会では味わえない、初夏の情景。
「次が最後だ」
玲音の指が画面を滑った後、映し出された景色に、美冬は息を呑んだ。
地上の世界には見えなかった。夜の闇の中にある筈の川面は、煌めく星屑で埋め尽くされていた。夥しいまでの光の点は、流されているようにも見え、舞い踊っているようにも見えた。無数の星の欠片のように。
「天の川だ」
自然に言葉が滑り出した。星屑を湛えて流れるそれは、確かに天の川に見えた。
「蛍の群生だ。……綺麗だろう」
美しさに言葉を失くし、美冬は、ただ黙ってその写真を見詰めた。雨の音だけが聞こえる、静かな時間が過ぎていく。
ふと肩が重くなった。玲音の頭が乗っているのだ。
「なあ、美冬」
囁くように、玲音が言った。
「俺たち、何で二人なんだろうな」
その声は、とても悲し気で。
「一人だったら、よかったのに」
今にも泣き出しそうに聞こえた。
──そうだね。そうかもしれないね。
うなじに玲音の頬が触れる。……熱い。
「玲音……」
とても熱い。
「玲音?」
妙に熱い。
「あなた、もしかして熱出てない?」
振り向いて見えたのは、上気した顔にとろんとした眼。明らかに発熱している。
「そう言えばさっきから妙に寒気がする」
二日も続けて雨に当たったからだ──美冬の為に。
「ちょっと待って。熱計ってみよう」
体温計のメモリは八度五分を示した。常備薬の葛根湯を飲ませ、和室に布団を敷いて寝かせる。
「明日、病院に行こうね」
冷えピタを額に貼った玲音は小さく頷き、布団から手を出した。
「怖い夢見そうだから、手を握ってて」
まあ、いいけど。
こうして、七夕の夜は更けていった。
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