第4話
昨日の夕焼けに義理立てしたのか午前中いっぱいは晴れていたが、午後には厚い雲が空を覆い、会社に戻る頃には、ぽつぽつと雨粒が落ちて来た。傘を持ってくるのを忘れたので、本降りになる前に早く帰りたい。そう思いながら、美冬はエントランスに駆け込んだ。
オフィスには休日出勤をしている人が何人かいた。報告書を作成し、書類を片づけて、念のためメールチェックをしていると、背中側にあるパーテーションの向こうから話し声が聞こえた。
──そんなのだめよ。筋を通さなきゃ。ちゃんとさせなさい。
ベテランの女性社員が、誰かに説教しているようだ。
──でも、僕の立場からはこれ以上は……。
ぼそぼそと言い訳のような反論のような声も聞こえる。
──仕事なんだから、嫌も応もないの。そんなんじゃ、この先困るわよ。
男性の声は営業の佐野くんのものだろう。社内の人間関係の話だろうか。ただ、相談した相手が悪かったようだ。彼女の言葉は正論だ。けれど他者を動かすのは簡単ではない『させろ』と簡単に言うけれど、力関係は微妙なものだ。
ミカに言わせれば、妖怪『させろババア』だな。と美冬は思った。『してやれジジイ』とペアだ。世の中には、この手の妖怪が溢れている。
私のネーミングセンスも中々のものだ。と冗談で気持ちに蓋をして、美冬はパソコンの電源を落として立ち上がった。
外に出ると、雨は本降りになっていた。傘を買おうにもコンビニは駅とは反対方向で、しかも少々距離がある。いっそのこと駅まで走るか。そう思ったとき、目の前に赤い傘が差しだされた。
「お帰り」
花柄の赤い傘。美冬の傘だ。
「玲音」
「遅いから、迎えに来た」
傘から跳ねた雨粒が、玲音の髪を濡らす。
「行き違いになったらどうするつもりだったの」
そう言った美冬に、玲音は肩を竦めて笑った。
「何時に起きたの?」
「昼過ぎかなあ」
今朝、台所で大の字になって寝ていた玲音に
「腹減った~」
元々、食は細い方だが、もしかして今日は食事をしていないのだろうか。
「商店街で何か買って帰ろうか」
まだ買い物には行けていないので、冷蔵庫は空だ。
「海苔の佃煮が届いてるよ。飯は炊いといたから」
「そうなの? ありがとう」
肉の顛末をメールに詳しく書いたから、伯母が気を利かせて送ってくれたのだろうと思った。佃煮と白飯があるなら弁当ではなく惣菜を買おうと話しながら、二人は雨の中を駅へ向かった。
自宅の最寄り駅を出ると、雨は益々激しくなっていた。そして……。
「何で閉まってるの?」
シャッターが閉まった商店街は薄暗かった。恐る恐る時間を確認すると、19:10という数字があった。
「もう、こんな時間」
天気が悪いせいで気付かなかった。商店街は、だいたい六時ごろに閉まる。客がいる時はもう少し長く開いていることもあるのだが、大雨のせいか人影はない。開いているのは居酒屋ぐらいだ。
「もう白米と佃煮でいいか」
せっかくご飯を炊いてくれているのに居酒屋で食べて帰るのも気が引けた。それに、海苔の佃煮は美冬の好物だ。子供の頃は、どんなご馳走よりもこれが好きだった。甘辛い海苔の佃煮と炊き立ての御飯。
──伯母ちゃん、ありがとう。
美冬は子供の頃に母を亡くしており、父の姉である伯母は親代わりである。自分勝手な父や、医院の仕事で忙しかった祖父母に代わって、美冬を大切に育ててくれた。
ちなみに実父は現在、隣町で新しい家庭を持っている。時々思い出したように美冬に連絡してくるが、実際に顔を見たのは何年も前だ。
土砂降りの雨の中では小さな傘など用を成さなかった。それでも肩を寄せ合って歩きながら、美冬は何となく幸せな気持ちでいた。
アパートの部屋に辿り着いて交代でシャワーを使い、やっと落ち着いた頃には、時刻は八時を回っていた。
「桃屋~。桃屋~、と」
歌いながら荷物を探す。水浸しになった箱に貼られた送り状は滲んでほぼ読めなかったけれど、微かに「エドムラサキ」の文字が見える。
「ねえ、何で箱が水浸しなの?」
尋ねると、タオルで髪を包んだ玲音が苦笑した。
「宅配の兄ちゃん、階段で転んだんだって。泥まみれで立ってる姿見たら、可哀想で文句言えなかった」
「そう」
コーポイレブンでも気にしない、いつものお兄さんだろう。雨の中、ありがとう。心でお礼を言いながら、美冬は箱を開けた。中には緩衝材で包まれた瓶が二つ。結構大きい。
「ジャーン」
効果音と共にエアークッションを取り除いた美冬は、瓶を手に持ったまま固まった。
「何これ?」
瓶の中には透明な水。そして、緑色をした小さな丸い……。
「マリモ?」
阿寒湖に生息するという天然記念物。養殖されたものは北海道土産として売られているマリモ。漢字で書くと毬藻。
「マリモ……北海道」
包み紙と一緒に丸められた送り状を、今一度確認する。エドムラサキ──えどむらさき──江戸村・早紀。
「早紀ちゃんの、北海道土産」
ラインで連絡があった。『お土産を送りました』と。そう、確かに。
よくよく考えてみれば、伯母にメールをしたのは今朝だ。何か送ってくれたとしても、当日中に届く筈がないのだ。
「塩むすび、つくろうか」
床に座り込んだ美冬に、玲音が声を掛ける。
「マリモ、入れてみる?」
「……入れないでね。お願いだから」
これは天罰だと思った。今日、他人様の名前を笑った罰だ。
きっとそうだ。そうに違いない。
窓の外は大雨。明日の天の川は、間違いなく氾濫するだろう。
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