ネーミングセンスに難あり

第3話

 気持ちよく晴れた土曜日の朝。階段を降りていくと、大家さんの御主人の姿があった。箒を抱え、こちらをうかがっている。

「おはようございます」

 美冬が挨拶すると、御主人はおもむろに道を掃く仕草をした。

「おーでかーけでーすか?」

 変な抑揚をつけてそう言う。一昨年まで大企業の重役だったと聞いたが、箒を持っておどけている様子からは、とてもそうは見えない。

 ちなみに、本来は後に「レレレのレ~」と続くこのギャグは、大昔の漫画のキャラクターの台詞らしい。ネットで見たそのキャラクターは確かに、頭と耳の部分が御主人に似ているような気がしないでもない。口には出せないけれど。

「美冬ちゃん、昨夜は大変だったね。とーちゃんから聞いたよ」

 ご主人が言う。大家さんの奥さんの名前は燈子とうこさんという。だから『とーちゃん』である。元はこのアパートの店子さんだったのだが、先代の大家さんに気に入られて、息子であるご主人と結婚したのだと聞いた。ちなみにご主人の名前は鳥井力一りきいちさん。名前を横書きにするとカタカナの『カー』になるため、奥さんは御主人を『かーちゃん』と呼ぶ。初めての人は混乱するのだが、本人はその呼び方を気に入っているらしい。どれくらい気に入っているかというと、ご主人は先代からアパートを引き継いでリフォームを施した際に外壁を黒く塗り替え、『鳥井荘』というシンプルな名前だったのを『コーポレイブン』に変えたのだ。両脇に階段が付いた黒い建物は、遠目で見ればからすに見えないこともない。わざわざ説明するまでもないが、鴉の鳴き声は『カー』である。

「行ってきます」

 御主人かーちゃんに頭を下げて、美冬はアパートの門を出た。



 毎年、七夕のあたりには平日でも休みを取る美冬が、急な休日出勤になったのには理由があった。

「本当に申し訳ありません」

 金曜の帰り際に、それは起きた。同僚の小杉友佳さんが、予定していた土曜出勤をキャンセルしたのだ。友佳さんは優秀な中堅社員だが、小さい子供さんがいる。保育所と実家を駆使して残業も休日出勤もこなす猛者であるが、タイミング悪く実家のお母さんがぎっくり腰で動けなくなり、子供さんを預かれなくなったらしい。

「先方にはお詫びの電話を入れておきますので」

 そう言いかけた友佳さんを、課長の一声が止めた。

「心配いらないよ。須藤くんに行ってもらうから」

 は? 今、自分の名前が聞こえたような……。

「試作品は彼女が作ったものだし、困った時はお互い様だ。須藤くん、頼むね」

 当然のようにそう言い、課長はさっさと部屋を出て行く。断る間もなかった。こちらの事情も聞かず、一方的に仕事を押し付けられたことに、美冬は困惑した。

「美冬ちゃん、本当にごめん」

 拝むように、友佳さんが言う。彼女が悪いわけではないが、もやもやした感情が拭えない。

「構いません。引継ぎお願いします」

 仕方なくそう言うと、友佳さんは、ほっとしたように、書類を取りに席に戻った。働く女性は大変だ。何のかんの言っても家事や子育ての比重は女性の方が大きい。同じ女性として協力するのはやぶさかではない。けれど……。

「出たね~。妖怪『してやれジジイ』」

 隣の席から首を伸ばして、同期のミカが耳元で囁く。

「何よ、それ?」

「相手の事情を鑑みず、自分は何のリスクも負わず、良い人ぶって他人に仕事を押し付ける妖怪のことよ」

 見事なネーミングだ。何となくもやもやの原因が分かった気がした。



 先方との打ち合わせは午後からだったが、準備に手間取り、到着は約束した時間ぎりぎりになってしまった。会議室に案内され、気持ちを引き締める。今まで客先に行くことがなかったわけではないが、美冬の仕事は主に試作品の製作なので、客先との交渉は営業職に任せていた。自分が作ったものとはいえ、上手く説明できるかが不安だったが、引き継いだ業務は、こなさなければいけない。えい! 当たって砕けろだ。

「試作品を担当いたしました、須藤です」

 依頼元は車の販売店である。スタンプカードの景品を頼まれていたのだが、ミニカーやキャンプ用品、タイヤホイールなど以外で、何か面白いものを、出来れば女性や高齢者に受けるものを、という漠然とした注文だった。先方の担当者は四十代半ばぐらいの女性で、桜木さんといった。高齢者には遠いが、身内に高齢者がいる年代である。美冬は緊張しながら、持参した試作品を数点、テーブルに広げた。

「実用品と癒しグッズをメインに考えてみました」

 車関係の景品で女性受けするものといえばダッシュボードに置く小物が良いようにも思えるが、それは避けた。僅かであっても視界が塞がれるのは良くない。それに車の揺れによって下に落ちた場合、運転手がそれを拾おうとして前方不注意になると危険だという考えからだ。

「運転中にマッサージが出来るベルトです」

 腰用と、ふくらはぎ用のセットである。軽量で付け外しが簡単で、アクセサリーソケットから給電出来る。友佳さんと話をしていて思い付いたものだ。風呂上がりにゆっくりマッサージなど、子持ちの女性は出来ない。だから、運転中という、ある意味じっとしている時間を有効活用するのだ。

「成程ねえ。これは?」

 コイルキーチェーンの付いたプラスチックの輪っかを手に取り、暫く眺めていた桜木さんが、「ああ」と言って口角を上げた。

「ペットボトルオープナーね。ボトルホルダーに付けておける。いいわね」

 少量のスタンプで手に入る景品として考えたものだ。車の中でペットボトルの飲み物を飲むことは多い。だが握力の弱くなった高齢女性は、ふたを開けるのが一苦労だ。ボトルホルダーに付けておくことで、それが解消できる。先日祖母にペットボトルオープナーを送ったところ思いのほか喜ばれたので、小型版を作ってみたのだ。追加機能として、外した蓋はオープナーに挟んだままにできるので、そのままぶら下げておけば片手が自由になる。

 他にも数点。ボディに貼るマグネットステッカーや、被せると動物の形になるカバー(孫に受けるのを狙って)など。上手く説明できたかどうかは分からない。

「うーん。どれも実用的で良いんだけど、ちょっと地味なのよね」

 桜木さんは、そう言った。

「あと、スタンプを溜めてまで欲しいと思うかどうか」

 確かにそうだ。貰ったら嬉しい。あったら便利だ。しかし『欲しい』と思わせる吸引力がないと言われればその通りだ。

「あら、これは?」

 彼女がつまみ上げたのは、小さな鳥の雛。

「それは……」

 掌に載る大きさの、鳥のぬいぐるみである。車─キャンプ─バードウォッチング、と連想していて思い付いたのだ。本物によく似た動物のぬいぐるみは多いが、鳥のぬいぐるみは意外に少ない。特に羽毛の手触りのものは皆無といっていいだろう。美冬は本物そっくりの鳥のぬいぐるみを作ってみたかった。素材にはファーではなく、ダウンとフェザーを使った。犬や猫とは違った、軽く柔らかな手触り。あまりそっくりに作ると剝製のようになってしまうので、少々デフォルメを施し、小さな雛鳥を作った。口角フランジは柔らかなシリコンで。大きく口を開けて餌を待つ子、眠っている子。羽を広げ、飛び立つ稽古をしている子。

「可愛い。いいわね、これ」

 桜木さんは言った。鳥好きなのだろうか。気に入ってもらえたのは嬉しいが、元々賑やかしの為に持って来たものだ。採用されるとは思えなかった。

「少しアレンジできないかしら? デザインを野鳥にして、お腹を押すと囀りが聞こえるようにするとか」

 日本野鳥の会に売り込んだら採用になりそうなアイデアを出した彼女は、ふと我に返った様子で苦笑いした。

「桜木さん、電話です。急用みたい」

 若い男性の声がして、スーツの脚が視界に入った。

「ちょっと失礼しますね。あなた、あとお願い」

 桜木さんが立ち上がり、代わりに正面に座った男性に見覚えがあるような気がして、美冬は記憶を辿った。誰だっけ?

「あれ? もしかして、えっと……須藤さん」

 名前を呼ばれて焦る。誰だろう。相手はお客さんだ。思い出せないのは失礼だ。思い出せ。思い出せ。

「あ!」

 思い出した。204号室の本田真紀ちゃんの彼氏だ。もうすぐ結婚するという噂の。

「真紀がお世話になってます。婚約者の伊達です」

 出された名刺には『伊達昴すばる』という名前があった。カッコいい名前だ。

「こちらこそ。……もうすぐご結婚されるんですよね。日取りは決まりました?」

 美冬がそう言った途端、彼の表情が曇った。何かいけない事を言ったのだろうか。固まってしまった美冬を見て、伊達さんは自嘲気味に笑った。

「喧嘩しちゃいました」

「は?」

 何と返せばいいのだろう。言葉が見つからないまま、美冬は雛鳥のぬいぐるみを弄んだ。

「彼女、僕の名字になりたくないって言うんです」

 いきなり何の話をするのだ。よほど悩んでいて、誰かに聞いてもらいたくて仕方がなかったのだろうか。

「名字……ですか」

 何が嫌なのだろう? 仕事上問題があるなら職場では旧姓を使用すればいいし……いや、真紀ちゃんは専業主婦になると言っていた。では何だろう? 一人娘で、家を継がないといけないとか、そういう事だろうか。

「僕に、彼女の名字になって欲しいって言うんですけど、それだけは絶対に無理で……」

「?」

「くだらないことだと思うでしょうが、僕たちにとっては大きな問題で……」

「???」

 あっけに取られているうちに桜木さんが戻って来て、伊達さんを摘み出して行った。


 結果は、一旦ペンディングとなり、後日返事をもらう事になった。

「あの鳥の試作品、譲ってもらえないかしら」

 帰り際、桜木さんはそう耳打ちした後、また仕事の顔に戻ってエレベーターへと向きを変えた。


 得意先に試作品を持ち込み、概要を説明する。先方の要望を聞き、改善点を持ち帰る。それだけだが、かなり疲弊した。慣れないせいもあるだろうが、やはり美冬には営業は向いていない。地味にコツコツと試作品を作っている方がいい。

 電車の中でスマホを確認すると、お隣の早紀ちゃんから、お土産を送ったとラインが入っていた。可愛らしいスタンプに、疲れた気分がほぐされる。早紀ちゃんは今頃、彼氏と北海道を満喫しているだろう。真紀ちゃんも早く仲直りすればいいのに。

「伊達さんと真紀ちゃん、お似合いだと思うんだけどな」

 小さくそう呟いた後で、耳に響いた音にはっとする。

──彼女、僕の名字になりたくないって言うんです。

 真紀ちゃんが伊達さんと結婚したら、伊達真紀──伊達巻になる。

 頭に舞い降りた考えが振り払えない。そして、伊達さんが真紀ちゃんの名字になったら──本田昴。トヨタに勤めている、ホンダ・スバル。

 笑ってはいけない。深刻な問題である。

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