第2話

「ああ、美冬ちゃん。ありがとう」

 大家さんである鳥井さんご夫妻は、以前から管理人を兼ねている奥さんと、最近会社を定年退職したご主人の二人暮らしだ。元々は近くにある一軒家に住んでいたのだが、一人娘さんのところに二人目の子供が生まれたのを機に、家を娘さん夫婦に明け渡して、二人して狭いアパートに引っ越してきたのだ。

──あそこは二人には広すぎてね。掃除も大変だし。

 奥さんはそう言っていたけれど、本当の理由は、お孫さんを良い環境で育てたかったからだろう。

「そうそう。ビューネくん来てたわね」

 回覧板から紙を外しながら奥さんが言った。

「ちょうどクール便が届いたから良いタイミングだったわ」

「あ……はい。ありがとうございました」

 奥さんは玲音のことを『ビューネくん』と呼ぶ。昔の化粧品のCMに出てきた癒し系のイケメンくんの名前らしい。そのCMを美冬は見た事が無いのだが、聞くからに玲音のイメージどおりだ。ただしキャラクターとしてのイメージではなく……。

 さっき靴を抱えて逃げ惑っていた玲音を思い出して、美冬は溜息を吐いた。


 階段を上がり切ったところで、部屋の前に人影があるのに気付いた。女だ。派手な感じではないが、気の強そうな横顔だった。この先に起きることを予想して肩を落としながら、美冬は女に声を掛けた。

「何か御用でしょうか?」

 振り向いた女は、挑戦的な眼差しで美冬を見やった。

「須藤美冬さんですか?」

 三十代後半だろうか。ショートカットに、少々濃いめの化粧。黒いレギパンの太ももが妙に艶めかしく見えた。

「そうですけど」

 嫌々返事をすると、女は顎を上げ、堂々とした口調で名乗った。

「はじめまして。志村玲音と一緒に暮らしている、岩崎ほの香と申します」

 玲音の名前が呼び捨てであることに少々苛立ち、美冬は無視してドアノブに手を掛けた。

「玲音は来てませんよ」

 そう言い捨てて部屋に入ろうとすると、女は閉まりかけたドアを押さえ、あろうことか身体を中に滑り込ませた。

「玲音! いるんでしょ。出て来なさいよ」

 部屋の中に向かって叫ぶ。もちろん返事はない。美冬は靴がない事を確認し、一旦安心した後で、食卓に置かれた帽子に気付いて血の気が引いた。

「上がらせてもらいます」

 女は一方的に言うと靴を脱いで部屋に足を踏み入れた。帽子には気付かなかったようでそのまま奥の和室へと進む。押し入れの襖を開ける音が聞こえて、美冬は目を閉じて耳を押さえた。


「居ないようね」

 覚悟していた修羅場は訪れず、女は拍子抜けしたような表情で和室から出てきた。

「き……来てないって言ったでしょ」

 声が上ずってはいないだろうか。心臓の音は聞こえていないだろうか。

「美冬さん」

 こういうタイプは嫌いだ。ヒステリックで、図々しくて……怖い。

「玲音が来たら連絡してください」

 女はまた一方的にそう言って、電話番号を書いたメモを置いて出て行った。


 090から始まる十一桁の数字を暫く眺めていた美冬は、我に返って玄関ドアに駆け寄り鍵を閉めた。チェーンを掛け、その場にしゃがみ込む。数歩走っただけなのに息が上がっている。何故自分がこんなにビクビクしなくちゃいけないのだ。訳もなく腹が立って、女が残していった紙をくしゃくしゃにして台所のごみ箱に放り込んだ。

 奥の部屋に入り、押し入れを開けてみる。中は物で一杯で、人が入る隙間などない。玲音は何処へ行ったのだろうか。考えてみたら靴がないのだから、外へ出て行ったと考えるのが妥当だ。

「戻って来ても入れてやらないから」

 畳に座り込んで、美冬は大きな溜息を吐いた。

──ビューネくん

 大家の奥さんの言葉を思い出す。言い得て妙だ。

 玲音は定住する家を持たない。仕事で全国を旅する為、あちこちにいる女性の家をその都度住処にしているのだ。軟派な男である。

 玲音の相手は経済的に自立している女性たちだが、生活の援助はしてもらっても『ヒモ』という言葉は適当ではない。玲音は旅先のバーで目を付けた女性に声を掛け、一夜の宿を得る。翌日、彼女が仕事から戻ってみると、ピカピカに掃除された部屋と手作りの夕食が待っている。そこで彼は契約を持ちかけるのだ。「俺を飼わないか」と。

 『お嫁さん』が欲しいと思う働く女性は少なくない。玲音のような存在は、彼女たちにとって都合のいいものなのだろう。意外にも家事が得意な玲音は、彼女たちの家を綺麗に整え、疲れて帰って来る女性に癒しを与えるのだ。

 ただし独占は出来ない。女性たちは玲音に他の家があることを知っている。結婚はしない。子供も持たない。彼は女性たちに最初にそれを告げる。女性たちは期間限定の『ペット』として玲音を飼うのだ。

「今回は失敗したという訳か」

 いくら最初に約束していても、関係を持てば女は錯覚する。もしかしたら自分は特別なのではないか。他の女とは違うのではないか。玲音の相手は年上の女性が多いので、一旦結婚願望を持たれるとややこしい。誠実に話をして別れられればいいが、そうは問屋が卸さない。

 相手も気の毒ではあるのだけれど。


「ごめん」

 どこからともなく声がした。

「……玲音?」

 何処にいるのだろう。キョロキョロと辺りを見回しても、この部屋に人が隠れる隙間など無い。忍者のように天井に張り付いているのだろうか。窓の外にぶら下がっているのだろうか。そう思って見てみても、影も形もない。

「玲音、何処にいるの?」

 呼びかけに返答こたえはない。さっきの声は幻聴だったのだろうか。悲しくなって再び床に座り込み、美冬は膝を抱えた。その時……。

「本当にごめん」

 声と同時に押し入れの天袋が開き、玲音が落ちて来た。靴を片手に持ったまま、埃まみれの髪を乱して。そして着地と同時に土下座の体勢になる。

「美冬に迷惑を掛けるつもりは無かったんだ。すまない」

 押し入れの前に踏み台になる物など無い。凄い跳躍力だなと思いながら、美冬は開いたままの天袋を見上げた。

「ごめんなさい。すいません。許してください」

 火事場の馬鹿力という奴だろうか。なかなか見事なものだ。

「美冬~。何か言ってくれよ」

 ほとんど泣き出しそうな声に、美冬は漸く玲音の顔を見た。日本人離れした美しい容貌。しなやかな身体。期間限定と分かっていても、この唇で愛を囁かれたら、女は彼を手に入れたいと思うのだろう。愚かだけれど、それを笑う事は美冬には出来ない。

「お腹空いたね」

 やっと返って来た美冬の言葉に、玲音の眉が下がる。

「うん」

 それだけ言って、玲音は安心したように笑った。


「外に食べに行く? それとも何か作る?」

 玲音が言う。けれど外に出るのは少々不安な気がするし、作るにしても家には米以外の食材が何もない。あれ? そう言えば、実家から荷物が届く予定だった。実家──祖父母と同居している伯母が、誕生日に食材を送ってくれたのだ。クール便で送るからと、昨日連絡があったのだが。

「ねえ玲音。荷物が届いてなかった?」

 確か玲音が受け取った筈だ。大家の奥さんがそう言っていた。

「荷物?」

 玲音は暫く首を傾げていたが、あっと叫んで膝を打った。

「冷凍の牛肉が届いてた。このくらいの、でっかい奴」

 両手の指を広げて二十センチ程の塊を掴むような仕草をしながら、玲音はまた首を傾げた。

「箱から出して、テーブルに置いて。……その後どうしたっけ?」

 食卓のテーブルを見たが、肉など何処にもない。

「……そうだ、電話が架かって来て。それで、……えっと」

 あるのは書類と試作品のファンシー雑貨と、あとは玲音の帽子だけだ。白い蛇皮のお洒落なハット。

「電話を切った後カーテンを開けて、夕日が綺麗だったから」

 蛇皮の、白いハット。少し変わった形の……。

「え?」

 その時、帽子のつばと、目が合った。丸くて、綺麗な紅い色をしていて、何処を見ているのか分からない、感情の無い不思議な眼差し……。


 美冬の悲鳴は、コーポレイブンを揺るがす程に響き渡った。




 砥草とくささんの部屋から逃げ出した蛇は、どこからか美冬の部屋に入り(たぶん玲音が来た時に、こっそり入り込んだのだろう)、テーブルの上にあった肉の塊を呑み込んだ。肉は冷凍であったため蛇は冬眠──というか仮死状態になり、ビニールで包まれていた肉は胃液で消化されることもなく、そのまま蛇を眠らせ続けたと思われる。ちなみに蛇には瞼がないので、眠っていても目は開いたままである。

 砥草さんは涙を流して喜び、蛇を引き取って行った。肉を返すと言われたが、ビニールに包まれていたとはいえ一旦蛇の中に入った肉は気持ち悪くて、ボアちゃんのエサとして差し上げた。

 砥草さんはお礼にと、美冬と玲音に高級うなぎ料理店の出前を取ってくれた。

 鰻重はとても美味しかったけれど、追加で頼んでくれた白焼きが蛇に見えて、美冬はどうしても箸を付けることが出来なかった。

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