Leon

古村あきら

ビューネくんとボアちゃん

第1話

 夏の空は暮れなずんでいるのに、生真面目に閉店時間を守った商店街は、殆どの店がシャッターを下ろしていた。薄暗くなったアーケードに足を踏み入れると、色とりどりの短冊で飾られた笹が、防虫灯の青い光に浮かび上がって見えた。五色の短冊は、赤、白、黄、緑、紫。明後日は七夕だ。

 明日は休日出勤になってしまった。冷蔵庫には何もない。商店街は閉まっている。伯母から食料を送ってくれると電話があったから、今日ぐらい届いているかもしれない。それを当てにしよう。そんな事をつらつら考えながら、美冬は何気なく短冊に書かれた文字に目をやった。

『字が上手になりますように』

『テストで百点が取れますように』

 明らかに小学生と分かる字で書かれた短冊が沢山あるのは、クラスでまとめて作ったものだろうか。それに混じって、

『第一志望の高校に合格できますように』

 これは中学生だろう。頑張れ!

『Mくんと両想いになりますように』

 名前の部分はイニシャルになっている。上手く行くといいね。

『競馬で一山当てたい』

 白い短冊に赤鉛筆で書かれた妙に綺麗な文字は、ふざけているようにも真面目なようにも、どちらにも取れる筆致だった。

 願いと欲望。二つはどう違うのだろう。そんな事を思いながら商店街を歩く。七月七日の天気予報は雨だ。牽牛と織女の年に一度の逢瀬は、天の川の氾濫によって今年も叶わない。そもそも短冊の願いとは何だろう。誰に願っているのだろう。逢いたいという自分たちの願いさえ叶わないのに、他人の願いを聞き届ける余裕など無いだろうに。

 アーケードの終わりには、夕焼け空が広がっていた。ほんの一日違えば、逢う事ができるのに。七夕伝説は、やるせない。


 街灯が灯り始めた道を暫く歩くと、真っ黒な外観の建物が見えてくる。『コーポレイブン』は、左右に階段が付いた、一階に四室、二階に四室の小さな集合住宅だ。六畳の和室に、名ばかりのダイニングキッチンとユニットバスが付いた、学生用のアパートである。ただ、居心地が良いせいか、住民の多くは卒業してもそのまま居付いており、美冬もかれこれ十年近く此処に住んでいる。ちなみに『大鴉レイブン』という名前が一般的ではないせいか、よく郵便物が『コーポ』で届く。郵便屋さんも慣れたもので、そのあたりは全く気にしない。

 自宅は二階の一番端の部屋だ。北側の階段を上ってすぐのドア。扉の中ほどに付いているポストにはチラシが一枚挟まっていた。近所に新しく出来たケーキ屋のものらしい。可愛らしいショートケーキの写真が並ぶチラシを手に、美冬は鍵を開けた。

 ドアを開くと三和土に、先端が尖ったお洒落な靴があった。部屋に入ると書類や雑貨に埋もれたダイニングテーブルに、これも変わったデザインの白いハットが置かれている。大きな鞄がキッチンの隅にあるのを横目で確認しながら、美冬は奥の和室へと入った。

 開け放たれた窓の外に、まさに沈もうとしている夕日が見えた。西向きの窓の外には少々大きめの川があり、その向こうは開けているので、山に沈んでいく夕日がとても綺麗に見える。

「お帰り」

 差し込む夕日のせいでシルエットになっていた人影が振り向く。彫りの深い顔立ちに紅い陽が映えた。久しぶりだね、玲音れおん

「勝手に入んないでよね」

 連絡をくれたら部屋を片付けておいたのに。そう思うと少し悔しかった。けれど普段からちゃんとしない自分が悪いのだ。仕方がない。

「大家さんが開けてくれたんだ」

 少し肩を竦めて、悪戯を見つかった子供のように笑う。目尻が下がると、彫像のようだった顔が人懐っこい笑顔に変わるのは昔からだ。

「やっぱり、ここから見る夕日が最高だよな」

 目を逸らしていた時間が勿体なかったように再び窓の外に顔を向け、彼は夕日が沈み切るまで黙っていた。夏は西日が強くて辟易へきえきする部屋だが、玲音がそう言うなら、もうしばらく此処に住み続けるのもいいかもしれない。そんな風に思いながら、美冬もまた、刻々と色を変える空を眺めた。


「何時ごろ来たの?」

 そう尋ねながら、美冬は大きく伸びをした。

「六時半ぐらいかな。帰ってるかと思ったんだけど」

「ごめんね。残業だったの」

 明日も出勤であることを伝えると、玲音は気にするなと言うように首を振った。

「ケーキ、明後日買いに行こうな」

 美冬が手にしたチラシを取り上げて、ショートケーキの隣に写っている丸いチョコレートケーキを、これにしようと指さす。

蝋燭ろうそく二十七本、おまけで付けてくれるかな?」

 嬉しそうに言う玲音からチラシを受け取り、美冬は苦笑した。毎年、歳の数の蝋燭を立てているが、そろそろ限界だ。今年は2と7の形をしたものを買って来ることにしよう。


 陽が沈み切ると部屋は急激に暗くなる。壁のスイッチを押すと、天井の照明が、散らかりまくった部屋を容赦なく照らし出した。

「相変わらず散らかってるよな」

「ゴミ出しと洗い物はちゃんとしてるから、いいの」

 美冬が勤めているのは、ファンシーグッズや玩具を扱っている会社だ。リモートが普及してからは、仕事を家に持ち帰ることも多くなった。部屋に溢れているのは設計図や試作品など、仕事関係のものが多いのだ。

「今はどんなの作ってるの?」

 床に投げ出されたロボットを手に取り、玲音が尋ねる。

「企業秘密」

 という程大事な部分を任されている訳でもないのだが、ちょっとだけ、そう言ってみたかった。

「ふうん……あ!」

 腕がもげたロボットを両手に持って、玲音が、どうしようと言うように上目遣いで美冬を見る。

「いいよ、壊しても。不採用のやつだから」

 美冬の言葉にほっとした表情で、玲音はロボットを床に寝かせた。取れた腕をくっつけるように隣に置く。顔を上げて何か言いかけた時、インターホンが鳴った。

 何故かびくっとして玲音が立ち上がった。玄関に飛び出して靴を掴み、和室に入りかけて、またキッチンにUターンして鞄を抱えて戻って来る。そして、おもむろに押し入れを開け、物が一杯に詰まっているのを見て途方に暮れたように立ち竦んだ。

「何やってるのよ」

 そう言えば実家から荷物が届くはずだった。

「宅配便よ。大丈夫」

 何が大丈夫なのか自分でも分からないままそう言って、美冬は玄関の扉を開けた。

「こんばんは。回覧版です」

 宅配便だと思いきや、立っていたのは二つ隣に住んでいる坂木波留都くんだった。元々は学生用アパートであった『コーポレイブン』に住む唯一の大学生……というか、大学院生である。

「お隣が留守なので」

『至急』と書かれた回覧板に添付された回覧シートは、既にほぼ判で埋まっていた。102号室の中川さんから始まって、光善寺さんと砥草とくささんの判子がある。二階は本田さん、坂木くん。江戸村さんは旅行中なので斜線が入っていて、美冬の名字である須藤の下だけが空欄である。下の余白に『最後は鳥井まで』と綺麗な楷書で書かれている。

「やあ、波留都くん、久しぶりだね」

 先程インターホンの音にビビりまくっていた玲音が、妙に余裕をかました様子で顔を出した。手には靴を持ったままだ。

「志村さん、ご無沙汰してます」

 波留都くんは微かに口元を緩め、小さく頭を下げた。

「考えてくれたか? コンビ組む話」

 よく憶えてますね、と言って波留都くんは白い歯を見せた。去年、玲音と波留都くんで漫才コンビを組もうという話で盛り上がったのだ。コンビ名は『レオンハルト』。ちょっと良い響きではある。

「まあ、考えておきます」

 軽く言い放って波留都くんは踵を返した。いつもながらクールが板についている。銀縁眼鏡のつるを押し上げるしぐさが似合いそうな感じだ。眼鏡は掛けていないけれど。

「つれないなあ」

 言いながら玲音がひらひらと手を振る。一つ置いて向こうのドアが閉まった。

「至急の回覧?」

 玲音の言葉に促されてバインダーに目をやった美冬は「え?」と声を上げた。

「どうした?」

「蛇が逃げたんだって、砥草さんとこの」

 自分が発声した、蛇という言葉に背中が粟立つ。幼少期のトラウマがあるのだ。

 このアパートは基本はペット禁止だが、室内だけで飼育する場合は良いとのことで、過去に金魚や小鳥などを飼っている人がいた。104号室の砥草さんは爬虫類好きで、蛇を何匹か飼っているという噂だが、管理はしっかりしていてトラブルが起きたという話は聞いた事が無い。今回はイレギュラーなのだと思いたい。

「どんな蛇? 巨大アナコンダとか?」

 玲音が適当なことを言う。

「四十センチのボアだって」

 回覧板には『ボアちゃん』と書かれた可愛らしい蛇のイラストが挟まれていた。ロマンスグレーのダンディな砥草さんが、白い蛇を首に巻き付けて笑っている写真もある。

「ボアって、象を呑み込んで帽子に変身するやつ?」

 蛇恐怖症である美冬の気持ちを和ませようとしたのだろうか。子供の頃に繰り返し読んだ物語。裏表紙を閉じた後、真似して二人で夕日を眺めた。夕暮れの赤く染まった空が、いつのまにか深い藍色に変わってしまうのを、とても不思議に感じたのを憶えている。

「黄色い毒蛇じゃなくてよかったね」

 即席の王子様に話を合わせて、回覧シートに判子を押した美冬は、足元の暗がりを少々気にしながら、101に住む大家さんのところまで回覧板を返しに行った。

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