第5部 4202年05月05日

 かつて、端午の節句という文化があったらしい。詳しいことは知らないが、男児が健康に成長することを願って執り行われた一種の儀式だったようだ。端午というのも、節句というのも、それが何を指す言葉なのか、僕には分からなかった。


 暗い室内。テーブルに座って、僕は一人で本を読んでいる。時折、風が窓を揺らす音が聞こえた。キッチンの蛇口から水が僅かに滴り、その下にある桶に堪った水と接触する音も。


 彼女は今は家にいない。仕事中だった。あれから、結局、彼女はコーヒー屋で働くことになった。家から程近い所にある小ぢんまりとした喫茶店で、素人と玄人の中間に位置する者が通うような店だ。つまり、僕が通うのに最適な店といえそうだった。しかし、僕はまだ一度もその店には行っていない。なんとなく、自分がよく知る者が働く店に赴くことに抵抗がある気がしたからだ。その反面、店員として働く彼女を一目見たいという気持ちがあることも確かだった。その狭間で思慮を繰り返している内にいつも彼女が帰ってきて、結局家で一緒にコーヒーを飲むことになる。


 そうだ、今日は僕の方がコーヒーを淹れてやろうと思って、僕は読んでいた本をテーブルに伏せて立ち上がった。


 キッチンにある棚の中に、サーバーとドリッパーがある。ポットはすでにコンロの上に用意されていた。ドリッパーに紙製のフィルターをセットし、冷蔵庫から豆を取り出して幾分かを移す。蛇口から水道水をポットに入れ、コンロの上に置いて火を点けた。


 その途端、火はもの凄い業炎となり、僕の髪を焼いた。


 咄嗟の出来事にパニックになり、僕は慌てふためいて声を上げながら部屋の中を駆け回る。訳も分からず玄関のドアを開けて外に飛び出したところで、仕事から帰ってきた彼女と衝突した。


「itta !」


 と言いながら、彼女は後方に尻餅をつく。僕も反対側に転んでしまった。


 地面に手をついて立ち上がり、彼女は前方に倒れている僕を見る。


「nani, sono kao」


 そう言って、彼女は僕の方に近づいてくる。


「火、火が!」僕は言った。「火事になる! すぐに消さないと!」


 慌てて室内に戻ってキッチンの様子を窺うと、何もなかったかのように火は収まっていた。それだけではなく、ポットの中の水がなくなり、代わりにサーバーに茶色い液体が入っている。


「watashi ja nai to, umaku tsukaenai n da yo」


 僕の背後で彼女が言った。


 僕はそちらを振り返る。


「mahou o kakete aru n da kara」

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