第20話 音(おと)

「はい、おじょうさん。迅速じんそくにつきましたよ」


 そう言ったドライバーさんだったが、顔を曇らせた。


「あれ、はりきりすぎたか。なんだか気分が悪いな」


 ドライバーさんが言うのも無理はない。


 喫茶『時空回廊』の駐車場。車のなかにいても『異常いじょう』というしかない空気感がする。それが『見える者』であるわたしたちだけでなく、一般の人であるドライバーさんも感じている。まさに『異常事態いじょうじたい』だ。


「かさねがさね申しわけありませんが、ここで待機を」


 鈴子さんはそう言うと、すばやく何枚かのおさつをドライバーさんへとわたした。


 わたしと鈴子さんでタクシーをおりる。山のなかにぽつんとあるき地を利用した駐車場だ。


 そして駐車場のまえ。一本の道をへだてて喫茶『時空回廊』がある。


 あらためて建物をながめてみた。外から見たクラシック喫茶は、ただの古びたコンクリートの建物だ。


 その建物がいま、空気がゆがんだような『よどみ』におおわれている。


「初めて見えました。これが呪いですか!」


 鈴子さんのととのった切れ長の目が大きく見ひらかれている。


 こんな異常なもの、わたしも見るのは初めてだった。


「どういたしますか、カヤノさん。ワタクシもあなたも、ともに精霊の力はつかえない身」


 鈴子さんの言うとおりで、ハナちゃんやヒナちゃんのようには戦えない。


 足がすくんだ。でもなかで倒れている人がいるかもしれない。


「鈴子さん」

「はい、カヤノさん」

「わたし、お母さんが看護師で」

「いったいなんの話を突然……」

「お母さんだったら、きっと助けにいく。そう思ったら、わたし逃げたくもないんです」


 一歩足を踏みだしてみた。一歩足を踏みだすと、もっと怖さが襲ってきた。


「鈴子さん、なかに人がいたらつれてきます。帰ってこなかったら、だれかを呼んでください!」


 大声をだしてもう一歩足をだそうとした。でもわたしの足は動かない。自分のものではないみたいに、ぴくりとも動かない。


 足がつったわけじゃない。それはわかっている。動かないのは恐怖だ。ゆがんだ空気に包まれた喫茶店。うすよごれた灰色のコンクリート。山のなかに一軒だけある建物。その建物に入るのが怖い。


「カヤノさん」


 呼ばれてふり返った。わたしを呼んだのは、もちろん鈴子さんだ。


 顔をあげた鈴子さんだったが、なぜかその黒く長い髪が、ふわっとゆれたように見えた。


「ワタクシはいま、すこしあなたを尊敬しました」


 これは気迫きはくだ。鈴子さんからすごい気迫を感じる。


 がつっと鈴子さんが、わたしの左手をつかんだ。


「忘れましたか、イザナミさんが大の字になった初日を。ひとりでは人をかつぐこともできません。あなたがいくと言うのなら、ワタクシも!」


 ぎゅっと鈴子さんと手をにぎりあった。そのいきおいで足を動かすと、わたしの右足は大地を蹴って一歩を踏みだせた。


 踏みだせばいきおいがつき、手をつないでわたしたちは進んだ。そしていきおいのまま、クラシック喫茶の扉をあけた。


 なかに入りすぐに両手で耳をふさいだ。すごい音量だ。スピーカーがこわれそうなほどの大音量でクラシックが鳴っている。


 暗い店内を進むと、ならぶテーブルが見えた。そのテーブルのあいだに正装した女性の人があおむけで倒れている。


「鈴子さん、店員さんが倒れています!」


 うしろの鈴子さんにむかってさけび、両耳を手でふさいで進む。奥の正面、置かれた巨大スピーカーは、あまりの大音量だからかスピーカーが振動しているのがわかった。


「店員さん、店員さん!」


 うつぶせに倒れた店員さんを、鈴子さんと協力してひっくり返した。黒く短いショートヘア。上品そうな女の人。このクラシック喫茶で働くのがにあいそうな人だった。


「ふたりで引きずっていきましょう!」


 さけぶ鈴子さんの声がようやく聞こえた。


 うなずいて女性の手をつかんで持ちあげたとき、さらにクラシックの音量があがった!


 思わずわたしは女性の手をはなし両耳をふさいだ。


「鈴子さん、この音楽を止めないと!」


 わたしのさけびが聞こえたのか、鈴子さんも店内を見まわしている。


 正面には巨大なスピーカーがあるだけで、レコードプレーヤーはなかった。配線がのびているので、どこか別室に本体があるようだった。


 さらに音は大きくなる。もはや店全体が音で振動しているようだった。


「鈴子さん!」


 思わずわたしは指をさした。床は振動し、わたしたちも振動している。それなのに鈴子さんの髪だ。両がわに付けられた小さな鈴だけが振動せず、ふわりと浮いているように見える!


「まさか!」


 鈴子さんが自分の髪ごと小さな鈴を持ちあげた。


言霊ことだま、いや、音霊おとだま!」


 鈴子さんが『音霊おとだま』と口にした瞬間だった。りりんと小さく鈴が鳴った。


 いや、小さくない。それは静寂せいじゃくに近いような音だった。『りりん』と鳴った静寂がどこまでも広がっていく。


 静寂は波のようだった。その波がだんだんうねって大きくなる。


 うねりは店内をおおいつくした。するとまたクラシックの音が聞こえだした。鈴の静寂とクラッシックの大音量。ふたつの音が溶けあい、もっと音が大きくなる!


 わたしは両耳を押さえた。お店の壁や床が振動している!


 店内のいたるところに作曲家たちの肖像画がかざられていた。その肖像画も額縁がくぶちごとゆれている。


 鈴子さんの髪留かみどめである小さな鈴もゆれていた。りりん、りりん、りりん、と鈴は鳴り続けている。


「そのすずを止めないと!」


 さけんだけど、鈴子さんは自身の髪を持ちあげたままだ。おどろきの顔でかたまっている。


「鈴子さん!」


 わたしたちの目があったそのときだった。


 お店の壁にかかっていた何十枚もある作曲家たちの肖像画。そのガラスの額縁がくぶちがいっせいにれて飛びちった!

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