無題

水無月せん@つぎラノ2024ノミネート

無題

 会うのは十年ぶりだった。

 突然自宅に訪ねてきた男の名は天遠てんえん。科挙で知り合った友人だ。すらりとした長身に涼しげな目鼻立ち。長い黒髪は束ねず下ろしている。上衣下裳じょういかしょうは平民が着る物で古く色褪せていたが、彼が生まれ持つ華は色褪せていない。

 今もなお眩しい。

 無言で立ち尽くす私に、天遠は言った。


「変わってないな、利亮りりょう


 おまえこそ、屈託のない笑みは記憶のままだ。

 天遠は視線を私の背後へと向ける。二間しかない独居で、奥に寝台がある。


「……眠っていたのか?」

「季節の変わり目で風邪をひいたみたいで、仕事を早く切り上げて寝てた。よく眠れたからか頭痛は治ったよ」


 扉を叩く音が聞こえて目覚めたのだ。帰宅するなり寝てしまったから、登庁時に着る無地の官服で、長髪は上部で結ってまとめたままだ。


「家族はいないのか?」


 首を横に振る。


「いない。結婚はしたけれど、愛想尽かされて別れた。子どももいなかったし、あっさりとね」


 五年前、官吏なら結婚はするべきと上司に言われた。私は都から遠い小さな村の出身で、有力な親族はいなかったが、科挙の成績は良く仕事ぶりも認められていた。恋人もいない。いつまでも未婚だと事情を詮索されるし、結婚することにした。紹介された女性は恋愛に夢は求めない落ち着いた人だったので、案外上手くいくかもと思ったのだ。

 穏やかな生活。

 あるいは、冷めた生活。

 それで構わないと思っていたが、妻は突然切り出した。


「あなたといると、自分が透明になった気がするの。私、生きてる?」


 言われるがまま離縁した。

 二年の結婚生活は、長かったのか短かったのか。

 天遠は詳しく聞こうとはしなかった。


「では夜出かけても咎める人はいないだろう。少し散歩しないか。都は十年ぶりだから懐かしい」


 親元には帰らず、真っ先にここに来たのか。


「わかった、付き合うよ」


 扉を閉め、並んで歩き出した。

 天遠は小さな提灯を持っていた。月明かりは弱く、提灯が照らし出す道を進む。道沿いには桜の木が並んでいるが、花はもう散ってしまった。

 大きな通りに出ると、軒先に提灯を吊るしている店もあり、少しだけ明るい。昼間なら食べ物や工芸品の露店も並び賑やかだが、もう家族で出歩く時間ではない。酒や女を求める人々が店に吸い寄せられていく。当てもなく歩く人影はない。


「通りはあまり変わっていないだろう? この暗さではよくわからないか」

「そうだな。変わらないのは良いことだ。大きな戦がないということだし。だが私のことなど利亮はとうに忘れていると思っていた」

「忘れるわけなどない。天遠がいなければ合格もなかったかもしれないのだから」


 科挙の初日、試験を終えて会場を出た私は受験生の一人に「何か落としたぞ」と呼び止められた。男は手に持っていた小さな紙を掲げ、不正だと叫んだ。周囲の人々は足を止め、呆然としている私に冷たい視線を向けた。

 居合わせた天遠が、その紙を男が自ら密かに出すのを見たと話した。「私も見た」という声も上がった。関わりたくなくて黙っていたのだろうが、天遠の発言があり、自分も言えると思ったに違いない。

 駆けつけた官吏と兵に連れ去られたのは、私を陥れようとした男の方だった。

 不正防止で試験前に衣服などを調べられるのだが、知識を記した紙を巧妙に持ち込んで使用し、ついでに他人に罪をなすりつけようとしたのだろう。受験生が一人でも減れば合格の可能性も上がる。

 天遠に礼を言うと食事に誘われた。貴族の子息ばかりと付き合ってきた天遠にとって、私のような者は珍しく、興味深かったのか。聞かれるがまま村の様子などを話した。都の外に興味があるようだった。

 合格後も何度も会う仲となった。


 官吏となり二年経ったある日、天遠は失踪した。


「どうして急に戻ってきたんだ」


 十年の間、一度も帰ってこなかったのに。


「青い鳥の夢を見た」


 天遠は歩きながらこちらに視線を向け、意味ありげに微笑んだ。


 無題。

 李商隠りしょういんの詩だ。

 題を付けなかったのではない。いくつもの悲恋の詩に無題と作者が名付けた。


い見る時難く、別るるもた難し」


 私がつぶやくと、天遠は満足げにうなずいた。

 会うことはつらく、別れもまたつらい。そう始まる詩は、仙人の使いである青い鳥に、想い人の様子を見てきてと願って終わる。


 失踪する前夜、天遠は言った。都を出ようと思う、一緒に来ないか、と。突然だったし、そんなことができるのか私は半信半疑だった。

 天遠は状元じょうげんだ。状元とは科挙の首席合格者のこと。それだけでも出世は間違いないが、親族も皆、位が高く、生まれながらの上流階級だった。

 見目もよく快活で多くの人に好かれ、やがて三高と呼ばれる地位になるのは間違いなしと誰もが思っていた。

 都を出るということは、すべてを捨てるということだ。


「それは難しい」と答えた。

 天遠に比べればささやかとはいえ、私にも背負うものはあった。神童かもしれないと、幼いころから村ぐるみで後押しされた。科挙で村から合格者を出せば誉となる。

 村が招いた先生に、親が必死に働いて得た賃金が払われた。村の子が手伝う農作業も免除され、すべての時間を勉学に費やした。合格が決まったときなど村は祭りのような騒ぎになったのだ。

 官吏になってまだ二年で、すべて捨てられるわけがない。そんなことをすれば故郷にいる親が罵られる。

 なにより、家族でも恋人でもないのに、ただ共にいたいという漠然とした気持ちだけで即断はできない。


 天遠は何もかも順調に見えたが、おそらく頭が良すぎたのだろう。利権や組織の腐敗にうんざりとし、型にはまるのを好まず、かと言って国を変えようという大仰な正義感はなかった。あるいは誰にも知られない家庭の事情でもあったのか。彼のすべてを知っているわけではない。ただ、何かを窮屈に感じていることは察していた。察しているというそれだけで、彼にとっては私が唯一の理解者だったのかもしれない。少なくとも「彼は前途洋々で、突然失踪するほど悩みがあるようには見えなかった」などと言う自称友人たちとは違った。

 ぎりぎりまで理想的に振る舞ってきたからこそ、他者から見れば「突然」その日は来るのだ。


 私は、見目の良さや賢さや高貴さ以上に、彼が本来持つ自由な心持ちにずっと惹かれていた。

 一緒に行きたい。だけど村では神童と呼ばれた私も、官吏としては平凡な一人。自由には生きられない。


 彼が失踪して、しばらくは大騒ぎだった。親族が大規模な捜索を行ったが見つからなかった。時は経ち、都では彼の名も忘れられた。


「今までどうしていたんだ」


 一、二年の間は噂があった。隣国で見かけたとか旅芸人をしていたとか。どれも情報源が怪しく、妖怪発見談みたいなものだった。


「適当にやりたいようにやっていた。幸い頭脳は衰えないから、呼ばれて教えて、その評判でまた呼ばれて」


 なるほど。

 科挙対策のために村に呼ばれた私の先生のように。他国でなら偽名で通せたかもしれない。裕福ではなくても食うには困らなかっただろう。


「いろいろな国を回ったが、最近は永蓮えいれんにいたんだ」


 永蓮? 国内の?

 つい最近、その地名を聞いた。

 都から近い有名なお茶の産地。

 火事が村中に広まり、大勢亡くなった。


 背筋がぞくりとした。


 ゆっくりと歩く天遠の横顔を見る。


「……火事は、大丈夫だったのか?」

「たくさん亡くなったが、私を含めて無事だった人もいた」


 本当に、無事だったのだろうか。

 十年も会わなかったのだ。もう都に戻る気はなかっただろう。なのに、なぜ、今ここに。


 隣の男は、生きているのか?


 晴天の下ならば足元を見たかもしれない。だけど提灯や月光では弱く、影はよくわからない。もしも隣にいるのが幽体ならば、触れることはできないのではないか。彼は右隣にいて、提灯を右手で持っている。うっかりぶつかった風を装って、左手に触れてみようか。

 私は右手を動かそうとした。冬でもないのに緊張で指先が冷え、上手く動かない。自分の手ではないみたいだ。だけど確かめずにはいられない。

 そっと右手を動かした。

 ぶつかったら、「ああ、ごめん」と言うつもりだった。その言葉は喉元から出ることはなかった。

 触れたはずの手の感触はなかった。

 すり抜けていく。

 なぜか絶望しなかった。もう一生会えないと思っていたから、隣にいることが、最後に会いに来てくれたことがうれしいのか。

 それとも彼は炎に包まれて亡くなったことに気づいていないのだろうか。死を自覚できない霊が会いに来る物語を聞いたことがある。


 いつまで存在するのかわからない。

 ならば、思いを伝えられる気がした。やがて消えてしまうのだから。


「……私は、後悔していた。あのとき断ってしまったことを」

「断って当然だ。長年苦労をして科挙に合格したのだから。わずかな可能性に賭けて誘ったから想定内だったよ。気にしていたのなら、すまなかった」


 私は首を横に振る。


「ずっと、ずっと思っていたのだ。一緒に行けば良かったと。だけどもう遅い」

「遅いのか?」


 視線が合う。

 二人とも、街並みなど見ていなかった。


「今ならば一緒に行くだろう。だけどもう、天遠は私など必要としていない。十年も自由に生きてこられたのだから」


 そして再び去っていく。

 私を残して。

 天遠は目を見開き、足を止めた。

 見つめ合う。

 しばしそのままだったが、彼はやがて息を吐き、自嘲するように笑った。


「忘れられないのは私だけだと思っていた。都の街並みなど本当はどうでも良かった。昔みたいに並んで歩きたかっただけだ。そしてまた一人で去っていくつもりだった」


 ずっと思っていた。

 共にいられる道はなかったのかと。そう考え続けていたのは自分だけかと。

 お互いに。

 天遠は静かに言った。


「遅くなどない」


 遅くないのだろうか。

 実体などなくてもいい。隣にいるのなら。いつか消えるその日まで。


「どこへ行く? この道を真っ直ぐ進めばいいのか」


 必要な持ち物などない。この身ひとつでいい。故郷の親は既に亡くなっているし、官吏として十年以上働いた。誰に何に遠慮する必要がある。自由は目の前にある。


 天遠は楽しそうに笑った。


「決断が遅いくせに、決めると案外せっかちなところは変わってないな。こんな夜更けに急いで行くことはないだろう。まずは帰ろう」


 それもそうだ。罪を犯して追われているわけではない。

 来た道を引き返す。ゆっくりと歩いていたので遠くには来ていなかった。

 自宅まで辿り着き扉を開けようとした私に、天遠は言った。


「すぐに追うから安心しろ」


 意味がわからなかった。明日、都を出る前にほかに訪ねるところがあるということだろうか。ならば私だけ先に行かずとも待っていればいい。

 深くは考えず扉を開ける。

 薄暗い中、寝台に横たわる人影が見えた。


 誰だ。


 背後の天遠は声を上げない。まるでそこに人がいることがわかっていたように。

 いや、わかっていたのだ。訪ねてきたときに気づいていた。

 振り向いて顔を見る。

 天遠の笑みは少しだけ苦しげだった。

 寝台に視線を戻す。

 横たわっているのは、私だ。

 呼吸をしていない。


 ああ、そうか。

 実体がないのは私の方か。

 私が彼の元に青い鳥を飛ばしたのだ。


 すべてを悟った瞬間、突然幕が下りるように暗闇に包まれ、無になった。



     ※



 一人の官吏が亡くなった。ひどい頭痛で帰宅したあと、急な病で事切れたらしい。重なるように亡くなっていた男は、自ら刃物で命を絶ったようで事件性はないと判断された。二人の関係は不明だ。

 男は火災に見舞われた村の生存者で、都の医院に運ばれ治療を受けたが軽症で立ち去っていた。夜更けに提灯を持ち、喋りながら通りを一人で歩いているところを見た者がいる。正確な身元は不明なまま葬られた。


 この噂話は広まったが、詩や物語のように題名が付けられることもなく、すぐに忘れられ、消えた。



< 了 >

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