〖2.5話〗雨の中の希望 Another視点

「それでは、みなさんに自己紹介をしてもらいます。愛月あいづきさんから順番にお願いします」


 先生の声が教室内に響き渡る。新しい環境、新しい始まり。高校生活の最初の日だが、俺にとっては最初の試練がやって来た。


 俺は、物心がついたころから吃音症に悩んでいる。最初の言葉がすんなりと発せられず、言葉が詰まる。それが原因で、今まで友達を作ることができなかった。


 だからこそ、この新しい環境に懸けていた。誰も俺の過去を知らない場所で、新しい自分を始めるチャンスだと思っていた。


 前の席の女の子が静かに立ち上がる。


 窓から入る日差しが彼女の茶髪に輝きを与えている。柔らかく揺れるその髪は、彼女の美しい顔立ちを一層際立たせていた。大きな瞳は不安げに揺れ、繊細な眉が微かに寄せられている。


愛月あいづき 心結ここなです……。よろしくお願いします」


 彼女は、細い小さな手でスカートの裾を掴みながら、小柄な体型に似合う小さな声を出した。その声は震えており、まるでその場から逃げ出したいかのようだった。


 うつむいたままの自己紹介は、一瞬のあいだ教室内に静寂をもたらし、すぐに乾いた拍手が響き渡る。


 彼女の後ろ姿は小さく、かすかに震えているように見えた。その姿に、俺は何か共感するものを感じた。


 次に、自分の番が回ってきた。深呼吸をし、勢いに任せて立ち上がる。周囲の視線が一斉に集まると、心臓が激しく鼓動し始める。


 ……声が出ない。焦れば焦るほど、言葉が喉に詰まり、発するタイミングを失ってしまう。額には冷や汗がにじみ、手のひらは汗で湿っていた。教室内は再び静寂に包まれる。秒針の音が一際大きく聞こえ、一秒が永遠に感じられた。


 この無音の教室が不思議に思ったのだろう。前の席の愛月あいづきさんは、ほんの一瞬だけ振り返った。


 その瞬間、彼女の目が俺の心に強く焼き付いた。愛月あいづきさんの目は、不安に満ちて重たそうで、抑えきれない不安を噛み締めた強ばる口元が痛々しかった。その全てが鮮明に俺の目に映り込む。


 きっと、彼女は俺以上の何か強い不安を抱えている。それなのに、そんな彼女はこの試練を乗り越えたのだ。その事実を知り、喉のつっかえが外れ、心が少し軽くなるのを感じた。


 愛月あいづきさんは、小さな体で、自分の力でこの試練を乗り切ったのだ。その事実に気づいた瞬間、彼女の知られざる頑張りが俺の心に深く響いた。


 喉のつっかえがふと外れ、心の中に静かな勇気が広がった。彼女もまた、この場で戦っているのだ。彼女ができたのなら、俺にもできるかもしれない。そう思うと、心が少しずつ軽くなっていくのを感じた。


「あ、朝霞あさか……颯太そうた、です…。よろしく、おねがい……します」


 ゆっくりと、一言ずつしっかり声を出した。最初の挨拶としては完璧ではなかったかもしれない。それでも、俺の心は愛月あいづきからもらった勇気で満たされていた。


 ありがとう、愛月あいづきさん。その一瞬の視線が、俺に生きる力を与えてくれた。




 ☂ ☂ ☂ ☂ ☂




 昼休みが訪れると、教室はざわつき始めた。昼食を取るために席を立つ生徒や、友達と談笑する生徒たちが、教室のあちこちで活気づいている。


 私、柑奈柚月かんなゆづきは、友だちを作るのは昔から得意だった。初日から4人の女子たちとグループで集まり、お弁当を食べていた。お弁当箱を広げながら、賑やかに笑い声を交わしている。


 しかし、ふと隣の席に目を向ける。


 愛月あいづきさんが気になって仕方がなかった。彼女は終始俯いていて、何かに怯えたように背中を丸めている。その姿が目に焼き付き、見覚えがあった。そうだ、昔の私だ。クラスメイト全員から無視をされ、無いものと扱われていた地獄を味わったあの頃の私。


 その時の苦しさ、孤独感、無力感が蘇ってくる。私もあの時、誰かに助けを求めたかったけれど、誰も手を差し伸べてくれなかった。でも、あの時一人の優しい彼が私を救ってくれた。彼のおかげで、私はここに立っている。


 だからこそ、愛月あいづきさんをこのまま放っておくことなんてできない。私が、愛月あいづきさんを救ってあげないと。


愛月あいづきさんだったよね。一緒に食べない?」


 私は明るく笑顔で声をかけた。愛月あいづきさんは一瞬ビクつき、少しこちらを見たが、すぐに顔を戻した。その瞬間、彼女の目に映る恐怖が鮮明に見えた。


「え、ええっと……」


 か細い声で戸惑っているようだ。心配しないでいいよという気持ちを込めて、伝える。


「ほら、一緒に食べよ!緊張してるの?」


「ご、ごめんなさい……」


 愛月あいづきさんは、首を小刻みに横に振りながら答えた。この反応に、なかなか重症なのかもしれないと感じた。少し怖がらせてしまったのかもしれない。


「うーん。分かった!今度は一緒にお昼食べようね」


 今は少し落ち着かせてあげよう。でも、早く救い出してあげないと、こんな苦しみ、長くは持たないはず。


 昼休みは終わりに近づき、私の周囲に集まっていたクラスメイトも授業の準備をするために自席に戻った。それを見計らい、再度愛月あいづきさんに声をかける。これだけは伝えてあげたい。


「ねえ、愛月あいづきさん。何か困ってることがあったら、私に話してね。少しでも力になれたらって思うから。」


 愛月あいづきさんは、私の声にまた少し怯えていたが、今度は縦に首を振ってくれた。


「ありがとう……」


 その言葉には、ほんの少しの安心感が含まれていたが、それ以上に強い恐れが感じられた。思いが伝わった。私が愛月あいづきさんを助けてあげないと。私は愛月あいづきさんに安心を与えてあげたいとあたたかな笑顔を送った。しかし、彼女の瞳にはまだ深い不安が宿っていた。


(どうしてこんなに怖がっているんだろう。何があったんだろう……)


 私は心の中でそう呟きながらも、彼女に無理強いはできない。少しずつ、彼女の心に寄り添いながら、彼女が安心できるように努めるしかないのだ。




 ☂ ☂ ☂ ☂ ☂



 午後の授業も終わり、今日一日のことを思い出しながら学校の玄関へ向かう。


 昼休み、学食で一人で食べていたり、教室の中にいたりする時も何度か声をかけてくれた人がいた。自分の身長が高いから、部活動の勧誘だったが、やはり上手く喋ることはできず、すぐに離れていく。それでも、愛月あいづきさんからもらった勇気はまだ俺の心を輝かせていた。


 夕日が差し込む廊下を歩きながら、その光が微かに温かく感じられた。だが、心の中にはまだ不安が残っている。昼休みのあの瞬間、愛月あいづきさんの勇気を目の当たりにして、自分も少し変わろうと思ったのだ。人と関わることの良さを実感し、少しずつ前に進む決意を固めていた。


 すると、靴箱へ向かう集団の流れとは反対に、向かってくる人影が見えた。長い髪を揺らしながら歩いてくる小柄な少女。愛月あいづきさんだ。でも、その歩き方には覇気がなく、ふらふらとしている。顔色も青白く、まるで何か重いものを背負っているかのようだった。


 なにかあったのだろうか。心配がよぎる。彼女の小さな背中はとても脆く、今にも崩れ落ちそうに見えた。でも、すぐに声をかけることはできず、小さな背中を見送った。俺の心の中には葛藤が渦巻いていた。


 しかし、その考えはすぐに改めた。俺も不安に押しつぶされそうだった。でも、愛月あいづきさんの頑張りを見て気持ちが楽になった。もし、愛月あいづきさんが今不安を抱えているならば、ほんの少しでも助けてあげたい。俺も彼女のように勇気を持ちたい。


 その気持ちが溢れ、気づいたら教室に向かっていた。愛月あいづきさんの背中を追いかけるようにして廊下を駆け上がる。


 教室の扉を開けると、愛月あいづきさんが泣き崩れているのが見えた。思いもよらないシチュエーションに遭遇し、焦りが募る。彼女の肩は震え、涙が頬を伝い、床にポタポタと落ちている。顔を両手で覆い、すすり泣くその姿が胸に突き刺さる。


愛月あいづきさん、大丈夫?」と声をかけたかったが、言葉が出なかった。俺の心は不安でいっぱいだったが、それでも彼女を助けたい一心で声を絞り出す。


「あ、あの……」


 彼女はふと顔を上げた。その瞳は涙で濡れており、絶望の淵に立たされているようだった。俺の胸が締め付けられるように痛む。彼女を助けたい、そんな思いが強くなる。


 だが、言葉が出てこない。吃音症のせいで、焦れば焦るほど声が出なくなる。


 愛月あいづきさんは顔を伏せたまま、小さな声で「何でもないよ……」と言った。しかし、その声は決して平静ではなく、彼女の心の苦しみが滲み出ていた。


『何があったの?』『助けたい』『心配』


 そんな気持ちが胸にあふれてくる。声に出して、伝えたい。


『早く声を……声を……』『でも、焦れば焦るほど吃音のせいで言葉が詰まって……喋れない……』


 言葉が出ないまま、彼女のすすり泣く音だけが響く。愛月あいづきさんは静かに顔を上げ、目を合わせてきた。その瞬間、彼女の顔に雨上がりのような明るさが戻ってくる。彼女の瞳が俺の瞳と交わり、まるで心が通じ合うかのような感覚が広がった。


 彼女が初めて見せた笑顔。それは俺にとって、何よりも大切なものだった。助けになれたことを実感し、胸の奥から温かい感情が湧き上がった。


「ありがとう……ちょっと、疲れちゃって」と微笑みながら答えた。彼は少し安心したような顔で、


「そ、そうなんだね……よかった」


 俺はただ、彼女のそばに座り、静かにその笑顔を見守った。すると、愛月あいづきさんは肩に寄りかかってきた。彼女の温もりが俺の肩に伝わり、心が静かに落ち着いていく。教室に差し込む夕日が、二人の間に温かい光を投げかけていた。彼女の笑顔が、俺の心を温かく包み込んでくれた。


 恥ずかしさもあったが、彼女は安心しきっているようで、俺も嬉しかった。


 喋らなくても伝わるこの空間が、とても居心地が良かった。彼女の心が少しでも癒えたのなら、俺にとってそれが何よりの喜びだった。


 教室に差し込む夕日の中、俺たちは静かに寄り添い、互いの存在を感じていた。この瞬間が永遠に続けばいいと、心の奥底で願った。




 ☂ ☂ ☂ ☂ ☂




 次の日、登校していると、突然後ろから声をかけられた。


「お、おはよう朝霞あさかくん」


 振り向くと、愛月あいづきさんだった。彼女の声は昨日とは違い、少しだけ明るさが感じられた。


「お、お、おはよう」


 突然の挨拶に驚いたが、何とか挨拶を返せた。心臓がドキドキと高鳴り、頬が少し熱くなるのを感じた。


 愛月あいづきさんは急に俺の前に回って立ち止まり、背伸びをして顔を近づけてくる。曇りなき眼と目が合う。その姿はとても可愛かった。彼女の瞳の奥には、昨日見た希望の光がまだ残っていた。


 突然、愛月あいづきさんは顔を真っ赤にして手で顔を覆い出した。俺も異性と目を合わせ続けるのは恥ずかしかったが、愛月あいづきさんはもっと恥ずかしがり屋なのかもしれない。彼女の頬は真っ赤で、その様子が一層愛らしかった。


 顔を隠していた手を再度上げて、手のひらを向けてくる。


「お、お、お、おはよう!」


 彼女の一生懸命な姿に胸が温かくなり、素直な気持ちが自然と口から出た。


「ふふ、話し方が俺みたい」


 俺の言葉に彼女は微笑んだ。その笑顔がとても愛らしく、心が安らいだ。


 愛月あいづきさんと並んで歩くのが、とても居心地が良かった。二人で歩く道は、昨日とは違い、心が軽くなるような感覚が広がっていた。彼女と一緒にいると、不思議と自分自身が変わっていくように感じた。


 朝の光が二人を包み込み、新しい一日の始まりを祝福しているかのようだった。彼女の隣を歩くことで、俺の心には新たな希望が芽生えた。このまま、彼女と一緒に歩んでいきたいと思った。

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