【5話・前編】授業の中で芽吹く約束

朝、登校する途中で朝霞あさかくんに会った。空はまだ淡い青色で、鳥のさえずりが微かに耳に届く。柔らかな朝の光が木々の間から差し込み、道端の草花が露に輝いている。


私たちは「おはよう」とだけ言って、一緒に歩き始める。言葉は少ないけれど、その静けさが心地よい。朝霞あさかくんは足が長いのに、歩くスピードを私に合わせてくれる。その気遣いが嬉しくて、私はふと彼の横顔を見上げた。


朝霞あさかくんの横顔は、朝の光に照らされて穏やかに見えた。彼の髪が風にそよぎ、そのたびにほんの少しだけ彼の視線がこちらに向かう。私の心臓が一瞬だけ速くなる。


(こんな風に並んで歩けるだけで幸せだな……)


そう思いながら、私は自分の心が少しずつ彼に惹かれているのを感じていた。胸の奥が温かくなり、ふわふわとした気持ちが広がっていく。彼の歩幅に合わせて一歩一歩進むたびに、心が満たされていくのがわかった。


学校に近づくにつれて、周囲の雑音が増えてきた。友達同士の楽しそうな会話や笑い声が聞こえ始める。私は少しだけ歩くスピードを速めた。朝霞あさかくんもそれに合わせて歩いてくれる。その優しさが、私の胸に響いた。


朝霞あさかくんは私と同じ気持ちでいてくれるのかな。)


そんなことを考えながら、私は一日の始まりに少しだけ期待を抱いた。


学校に着くと、ホームルームが終わり、1時間目の国語の授業が始まった。クラスメイトたちはそれぞれの席で教科書を開き、集中している。私は教科書のページをめくりながら、心の中で今日の授業に備えた。


授業が進むにつれ、先生が教室内を見回しながら質問を投げかけた。


「この一節の意味を解釈できる人はいますか?」


その瞬間、先生の視線が私に止まった。心臓がドキドキと早鐘を打ち始める。けれど、この前の自信が少しだけ心を落ち着かせてくれる。


愛月あいづきさん、この文章の解釈を説明してくれる?」


突然の指名に驚いたが、私は冷静に立ち上がった。自分の心臓の音が耳に響くけれど、観察力と考える力には自信があった。私は教科書を見ながら、ゆっくりと答えをまとめ始めた。


「は、はい。この文章では、作者が自然の美しさと人間の感情の結びつきを表現しています。特に、『夕陽が山の稜線を染め……」


答えには自信があったが、話すのはあまり得意ではないため、小さな声で答えた。教室全体が静まり返り、私の声が響く。心臓の鼓動が耳に響きそうなほど緊張していたが、教室全体が私の言葉に耳を傾けているのを感じた。


先生は頷きながら、


「素晴らしい解釈ですね。愛月あいづきさん、ありがとう」


と先生が言い終えると、私は席に戻りながら一息ついた。周りのクラスメイトたちが軽く拍手をしてくれるのを聞き、少しずつ学校生活に馴染んでいる実感が湧いてきた。


隣の席の柑奈かんなさんが小声で


「すごいね」


と言ってくれた。その言葉に、少し照れながらも嬉しそうに微笑んだ。柑奈かんなさんの目は輝いていて、心からの賛辞が伝わってきた。その瞬間、私の胸に温かいものが広がった。柑奈かんなさんの言葉が私の心に優しく届き、少しだけ自分に自信が持てるようになった。


しかし、心の奥底では、柑奈かんなさんに対する警戒心がくすぶっていた。正直、彼女とはあまり関わりたくないと思っている自分がいた。過去のトラウマが頭をもたげ、心が少し重くなる。


その後、授業が進むにつれて少しずつリラックスしていくのを感じた。視界も広がり、周りのクラスメイトたちの表情や反応にも気づくようになってきた。教室の外から聞こえる鳥のさえずりや、風が窓を揺らす音が静かに響き渡り、教室内の静寂が心地よかった。


次の時間は数学の授業だった。私はまたもや先生に当てられた。


「また最初の席だから当てられるなんて……」


と内心で文句を言いながら、黒板の前に立った。


数学は私の得意分野ではなかった。黒板に書かれた二次関数の問題を見つめて、答えが全く浮かばない。教室の静けさが重くのしかかり、心臓がドキドキと音を立てる。汗が額ににじみ出てきて、手のひらがじっとりと湿る。焦りと不安が募り、周囲の視線が怖くなる。


(先生の心を読めば答えが分かるかもしれない……)


と一瞬考えたが、その時、朝霞あさかくんの存在が頭に浮かんだ。


彼の目が私を捉え、静かな信頼が感じられた。彼を信じて目を見てみると、朝霞あさかくんの心から湧き上がる「私に手を差し伸べたい」という強い思いが私の頭に伝わってきた。


その瞬間、彼の心の中に浮かんだ答えがまるで水面に映る月のように静かに、しかしはっきりと私の頭に浮かび上がってきた。数学の解法が、一つの光の筋となって私の心に差し込んでくる。


彼の心を完全に頼り切ってしまっている自分に気づいたが、それでも構わなかった。朝霞あさかくんの優しさが、私にとって唯一の頼りだったのだ。


私は恐る恐る黒板に答えを書き込んだ。


先生は驚いたように


「よくできました」


と言い、教室内の緊張が一気に解けた。クラスメイトたちの視線が一斉に私に向けられ、感嘆の声が上がった。


愛月あいづきさん、本当にすごいね」


隣の席の柑奈かんなさんが再び小声で話しかけてきた。私は少し照れながらも、心の中で喜びを感じていた。数学の問題が解けたのは朝霞あさかくんのおかげだとわかっているが、みんなの称賛に少しだけ自信がついた気がした。


授業が終わり、私は黒板を消すために教室の前に立った。黒板にはまだ授業の痕跡が残っており、チョークの粉が薄く舞っていた。朝霞あさかくんも同じく黒板を消し始めた。彼の動きが滑らかで、静かな教室に黒板消しの音だけが響く。教室の窓から差し込む夕日の光が、彼の姿を柔らかく照らし出していた。


「ありがとう」


私は小声で言った。彼は少し驚いた表情で


「なにもしてないよ?」


と困惑していた。


「いいの」


私は微笑みながら答えた。心の中で嬉しさがあふれそうになり、感謝の気持ちが止まらなかった。私しか知らない秘密の心の声に助けられたことを思い出し、その思いを込めて「ありがとう」と言ってしまった。


少しご機嫌になりながら、黒板を消し続けた。黒板の文字が消えていくたびに、心の重みも少しずつ軽くなっていくようだった。朝霞あさかくんに対する感謝と、その存在のありがたさが胸に広がり、気持ちが軽くなっていった。

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