第3話 ~side マスター~

「あの方、今日は注文するかしら」


 妻は、入口から一番遠い窓際のテーブル席に座ったお客様を見ながら、そう口にする。


「どうかな」


 そのお客様は、以前は可愛らしい恋人とよくいらしてくださったお客様。今はおひとりでよくいらしている。

 そして、以前は必ず、レモネードを注文されていた。

 おひとりになってからは、来店されてから注文されるまで、かなり長い時間迷っているようで、注文されるのはレモネード以外のもの。

 一度だけ、おひとりでいらした最初だけは、レモネードをお飲みになっていたが。


 ここは、わたしが妻と開いた、小さな喫茶店。有り難いことに、レトロな感じが心地良いと常連のお客様がご贔屓にしてくださるので、細々ながらも今まで続けることができている。


「あの方、あなたにとても似ていると思うの」


 妻がポツリと言った言葉に、わたしは驚いた。わたしも同じことを感じていたからだ。


「残念だわ、とてもお似合いの恋人だったのに」


 そう呟いた妻は、あのお客様の恋人によく似ていた。



『こう暑い日には、レモネードが一番だと思いませんか?』


 初めて妻と二人で出かけたのは、もうだいぶ昔の、暑くなり始めた初夏の休日。暑さから逃げるように入った喫茶店で、妻はそう言って笑った。

 正直言って、それまでわたしはレモネードなど飲んだこともなかったが、妻の笑顔に引き込まれるようにして、思わず頷いていた。

 それから、暑い夏の日に妻と二人で出かけると必ず喫茶店に入り、レモネードを飲むようになった。たまにはアイスコーヒーを飲みたくなることもあったが、レモネードを飲むわたしを見る妻の笑顔が見たくて、つい。


「あの方、今日も注文しないのかしら……」


 お客様はまだ、メニューを眺めて難しい顔をしている。


「でもあの方、本当はレモネード、それほどお好きじゃないものね」


 そう。

 妻は気づいていたのだ。

 本当はわたしがそれほど、レモネードを好きではないことに。

 それが原因で別れ話にまで発展しかけたこともあったが、幸いなことに今は夫婦として穏やかな日々を共に過ごすことができている。

 全て、妻のおかげだ。

 言葉の足りないわたしを、妻がいつもフォローしてくれている。


 もしかしたら、あのお客様も……


 チリリン


 店のドアに付けたベルが音を立てて来客を告げる。


「いらっしゃいま……」


 店主としてあるまじきことだが、思わず言葉が止まってしまった。

 いらしたのは、まだ注文を決めかねているお客様と以前よく一緒にいらしていた、そして今はおひとりでよくいらしてくださっている、可愛らしいお客様だった。

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