80.セイレーン

 ステージは拍手と喝采に包まれた。

 観客の髪はショーが動き出してしばらくすると元に戻っていた。あれはただの脅し文句だったのだ。

 髪の不安もなくなった観客がそれでも立ち去らなかったのは、お兄ちゃんが観客の心を掴んだから。役者さんたちが全力を出せたから。楽しませることができたから。

 その証拠に、今彼らは称賛の雨の中にいる。


「少しは近付けたと思ったのにな……」


 同じ時に自分と他人の髪を動かせると聞いたのに、わたしには思いつかなかった。

 同じ時に役者さんたちの窮状きゅうじょうに気付いたのに、わたしはお兄ちゃんを見上げるだけだった。

 あの時と同じ。

 わたしとわたしの願いは、いつもお兄ちゃんに大事に守られている。

 称賛の雨のすぐそばに立てられた、優しい傘の下にいる。


        ◇◆◇


「なんだ、この領収書は!」


『理事長室』のプレートが掲げられた部屋の中。革張りの豪奢ごうしゃなイスをきしませて、スーツ姿の太った老爺は激高した。


「何と言われても、俺ぁ知らねぇですよ」


 そんな老爺の怒りをヘラヘラと笑って受け流すのは、アロハシャツに白髪の入った男。


「知らぬはずがあるか! なんだ、このバカげた値段の領収書は! 一〇〇万円近いではないか!」

「どれ、ちと拝見しますよ。えーと……何々……?」


 領収書には、ハイエンドのノートパソコンや高級なカメラやピンマイクといった機器が『教材』として購入されたと書かれていた。


「ははは! 坊主は賢いな!」

「笑い事か! あの小僧め、無駄な出費をしよってからに……意趣返しのつもりか?」

「まあまあ、意趣返しと見るなら優しいもんじゃねぇですか」

「ふん! ガキに大金を賭けてやったのだ、ワシに非難されるいわれはない!」


 処置なしと、アロハの男は肩をすくめる。


「この代金は他の連中にも支払わせろ!」

「俺ぁあんたらと違って、坊主にゃ噛んでませんぜ?」

「ふん! 女衒ぜげん崩れが……!」

「こりゃまた古い言葉で」


 女衒ぜげんとは、江戸時代、女性を性風俗などに売る仲介をした者たちのこと。蔑称として、老爺はアロハの男をそう言ったのだった。


「今の俺ぁこれでも、芸能プロダクションの所長ってやつでしてね。お宅の学校にも、いい女の子がいたらご連絡を」

「せっかく上げた評判をわざわざ落とすようなことを、誰がするか!」


 アロハの男が差し出した名刺は受け取られすらしなかった。


「俺ぁまともな仕事してますぜ?」

「小僧の妹を最初に狙ったのはお前だと聞いておるぞ」

「そうですが、何か?」

「小学生の女を狙う女衒ぜげん崩れを警戒しない教育者がいるか、バカモノが!」

「あ、割と女衒ぜげん呼びはマジだったんで? いや、うちはそういう仕事は斡旋してないんですが。それに……」

「……なんだ?」

「あ、いや、何でもないです」


 アロハの男は「教育者のつもりじゃないですか」という言葉をこっそり飲み込んだ。


「それじゃ、俺ぁこの辺で」

「小僧の妹も賢かったのか?」


「待て」とも言わず、老爺はアロハの男に尋ねた。


「んー……どうなんですかねぇ? 賢くはあったと思いますが、小僧ほどじゃねぇです」

「ならば、お前は小僧の妹の何に価値を見出した?」

「歌ですね」

「……歌?」

「賢い坊主が身代わりになっちまったので、もしもの話でしかないですが……。あのとき、杏歌ちゃんを事務所入りさせられたなら、今頃うちが日本中を騒がせてましたよ」


 老爺はいぶかしげに、アロハの男を睨めつけた。


「ふん! そんな甘い世界ではなかろう! それに、今その名を聞かぬということは、その才は腐ったということであろうが!」

「ま、甘い世界じゃないってのはその通りなんですがね。ただ、ほんの数百万で杏歌ちゃんに挑戦させられるなら、悪い取引じゃねぇと思ったってことですよ」


 アロハの男は、領収書を指に挟んで、今度こそ理事長室を離れる。

 廊下にも、真夏の暑さは滲んでいた。

 額に浮いた汗を腕で拭って、アロハの男はニヤリと笑う。


「それに……この程度で腐るような才能でもなかったみたいでしてね」


 手に持ったスマートフォンに映るのは、数十万の登録者を誇る配信者の画面。


「歌でなら――杏歌ちゃんは誰にも負けませんよ」


 チャンネル名は『セイレーン』とあった。


        ◇◆◇


 ――でも、わたしはもう守られるだけの子供じゃない。


「お兄ちゃん、わたしと勝負をしてください」

「いいぞ。何で勝負する?」

「わたしにできるのは、今も昔もひとつだけです。歌で競わせてください」


 わたしは、今この瞬間に立ち向かわなければならない

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