第5話  ああああああああああああ

『生命の死というものは、生きている者だからこそ其処に得られる意味がある。


死という終着点に至る過程で如何にして生きるか。終わりと言う真っ白な真実だからこそ、己は自分の物語を識り。黒い足跡を残しながらようやく死にたどりつく。それは自分の死に限らない。存在者が、存在者との繋がりが断ち切られた時、在る筈の未来は違う道筋へとシフトするからだ。そうやって死を身近に感じながら人は死を想い伝える。生を詩に描き、記憶し、記録し、より良い生命への循環を目指す。それならば“出会い”に対しての“別れ”は必然なのだ』


























―だが、こればかりは本当に








『最悪だ』








本当に唐突だ。こんな事はきっと誰もが知らなかった。






虫の知らせもなく、


全てに従うまま、足元すらも気にせずそれは降り注いだ。










目前にいる“それ”はそれ以上の動きを示さなかった。


大きな脚の下、血をまき散らしながら敷かれた肉塊の上に座し




周囲の空気を温める、それだけだ。








眼は蛇のように研ぎ澄まされ


狼すらも飲み込む程の長い口、その中で整列するように並べられたナイフのようなもの




ああ、それは牙だ。光を当てられ鈍く煌めく獣の牙だ。


この戦慄に心から逃げようと空を仰ごうとしても


長く鋭い捩じれた角が視界に這い上がり、それを赦そうとしない。






名はドラゴン。厄災の概念とも呼ばれる存在。


柱のように身を高く律し黒曜のような鱗を見せつけては


大きな翼を縦に閉じて、背を天に伸ばす。


いつまでもジッと動かない様子はまるで気高き花のようだ






“黒き蓮”








世ではこの花の如き厄災に畏怖を込めてそう名付けられていた。


それこそが絶対的な恐怖を纏う厄災が持つ唯一である為の異名だった。
































「…ジャバ―?」






ニドは呆然としたまま立ち尽くす。


自分の置かれている状況が全く理解に追いついていない。






「ねぇ、ジャバ―。ジャバー?」






『…』




名を呼べば聞かなくてもそいつは喋っていた


聞く前に答えてもくれた


いつものように貰えるはずの答えを頼りにただひたすら呼ぶ。だが、返事は無い。










そこでニドが気づいてとった行動は、血にまみれた眼鏡を取り


慣れない手つきでレンズに指を擦りつける事だった。




まだ何も見えていない。




数秒先の未来に懇願するようにレンズの血を拭い、眼鏡をかけ直すと


改めてその全貌を覗いた。








「…っ」








ニドは喉を引きつらせる。


頭の中でぐちゃぐちゃと自分の過去が節操もなく走り回っている感覚。


そこにゆっくりと、徐々に


目の前の映像を当てはめようとする。






「嘘だ…」






全てが偽りであれと願う心が言葉に出る。






恐ろしくも気高い竜の存在が?






違う






目を見開き、凝視しつづけるのは、黒き蓮の下に敷かれていた“何か”


血をまき散らしながら異様の形で潰れているあれは何なんだ?






その肉塊は誰のだ?






「カー…に、…。…ニ…な?」






唇が震える。出そうとした言葉を恐れて喉の奥を詰まらせ


ニドは自分の身体に裏切られたと思える程に、膝から崩れていく。






呆けた面持ちで探す。首を右に、左にずらしながら彼女は探した






そうしなければいけなかった。


そうでなければオカシイ。






だって、さっきまでそこに彼は居た。彼女も居た。




優しい笑顔を見せ、自分も初めてそれに答える事が出来た気がした。






自分に帰ってこれる場所をくれた。


自分に無い“新しい”をくれた。


自分に色んな喜びをくれた。






「カーニー…ニナ…、カーニー…ニナ…、カーニー…ニナ…」






ようやく出た名前に不思議と目の奥が熱くなっていく気がした。


願った。二人が今も、自分をニドと呼んで現れる事を願い、探し求めた。














しかし、彼女が見つけたのは、骨が飛び出た手の前で横たわるゲオルグ金貨と




彼女のつけていた…お揃いの眼鏡。






全てが血に、塗れていた。














自分の中で何かが崩れ去る音がした、彼女の中で何かが終わる感触がした。






「…はっ、ハッ…は…」






ニドは急に胸が苦しくなった。その痛みは彼女にとって初めてだった。


四つん這いになって俯き、胸を手で抑えて躍動する感情とどう向き合えばいいか解らない。






ある筈だった未来の消失に彼女はただ孤独に藻掻くしかなかった。
















『ああ、こりゃあダメだ。きっと…この子は“壊れる”―』






全てを諦めたように魔剣はそう呟いた。


絶望という淵を理解させ、彼女にとっての生きる意志を見出し、かけがえのない大切なものを知る。


順風満帆に得た希望という頂上。そこにたどり着いた後ろで、急速に突き落とされてしまえば


誰だって心を壊してしまう。




自分で壊してしまう。強固な意志である程に、頭の良い奴程に、簡単に終わってしまうのだ。




それぐらいに死と言う事象は、別れという事実は、人間にとって繊細で、表裏の激しい厄災に違いないのだ。






きっとその事実に彼女の精神は終を求める。




なぜなら、彼女は唯の少女でしかないのだから。






(そう、今回はこれでもう終わり…彼女は心を壊し、再び愚かな畜生に、いやそれ以下へ逆戻りだ。俺と言う魔剣は結局ここで何も出来ないまま再び―)




















ギリィ
























『ん?』








誰かが奥歯を鳴らしている。


同時に、魔剣は不意に自身の中にある違和感を感じた。


その正体はすぐにわかった。






「はっ…はっ…はーっ…はーっ…ぐすっ…」






ニドの呼吸を整える音


それと同時に、魔剣の刀身が少しずつ朱く熱を帯びていく感覚。






『これは…ニド、お前』






ニドは顔を上げた、眼前の異物を前に


彼女は大きな深呼吸をして、レンズ越しで涙を流しながら凝視している。


その凄惨な光景を見続けている。






レンズの奥にある彼女の瞳は、いままで光を照り返す事が無い程に鈍く重い色をしていた。


だが、今は違う。その中からかき分けるように煌き出す紫電の如き「輪光」が眼前の世界に何かを訴えかけているようだ。






いや、訴えているのではない。知ろうとしているのだ。この凄惨な光景に…意味を見出そうとしている。








『お前、まさか…乗り越えたのか!?自分で、こんなたった一人の少女が…!?なんのテコ入れもなしにっ』






愛すべき者の死を受け入れる。幸せを拒絶された運命を受け入れる。


そんな度し難き精神試練を受け入れ、生を希む事で彼女は魔剣の認知外の事象へと至っている。






(俺は、なにをみせられている?ただ一人の少女がこんな絶望を簡単に飲み込めるわけ―)








“ひとりなんかじゃないよ”












「ねえ、ジャバ―?ハァ…ハァ…教えてよ。…ぐすっ、どうすればいいの?私には、解らない。こんな時、どうすれば間違ないで済むの?」








ニドはゆらりと立ち上がる。そしてそのままカチン、と背負った魔剣を鞘から抜き始め


解き放たれた魔剣の刀身は、より一層熱を帯びて空気を焼き陽炎を生み出す。






「カーニーとニナは…し、死んだのでしょ?もう、何処にも居ないんでしょ?…ぐすっ…こんな、こんなにも素敵な人が死ぬのはなんで?


どうして?カーニーの言っていた“正義”の為?大切な人を失う理由にはそれよりももっと大切な理由があるんだよね?ねえ…ジャバー」






魔剣は知った。感じていた。ひしひしと伝わってきている。


彼女の中で純粋なるひとつの感情が、欲望が確かに内側から生まれてこようとしている事に。






それは、憎悪と呼ぶにはあまりにも…視点が“高い”








「こんな気持ち、初めてなんだ。どうしてだろう。私にはもっと識らなきゃいけない事がたくさんあるのかもしれない。しれないんだ。


もっと大きなものを、もっと高い場所で、もっと、もっと、もっと、知らない事を理解しなければいけない―…」








『ニドっ』






魔剣の魂が震える。共鳴する。ああ、思い出してしまった。






叡智を望む者






「だから、ねぇ…」






ある物語では7番目の奇跡と呼んでいた。


それはただひとりの、か弱い少女が眼前に立ちはだかる過酷な運命に胸を焦がしながら歩み続ける英雄譚。


伝説と謳われ、全てを知り尽くさんとする意志。




感情の浄化を望まず、ただひたすらに事象という知識を貪り尽くす車輪の如き足。




人々はそのような偶像を、敬意を込めて、天の観測者。ドール=チャリオットと呼んでいた。




…それは単なる御伽噺でしかない。


だが、それを目撃してしまっては、もはや虚構であるはずが無いのだ。






古く昔に、魔剣が自分で語っていた事がある。






「教えてよ…」








在りもしないものがたまに現実に生み出される事もある。そして、そんなたまに存在する“怪物”が…大抵、世界の仕組みを覆すのだと。






魔剣は数百年にも及ぶ記憶から泉のように感情が沸き立っていく


















「教えろ!!!!ジャバー!!!!!」
















未だかつて無い、彼女の怒号が空気を震わせて全てに響き渡る。


木々がざわつき、鳥が無数に羽ばたく。




彼女の初めて叫んだ声は、どこか澄んでいて真っ直ぐだった。






(これだ)






彼女の纏う空気が変わる。否、魔力と言っていいだろう。


周囲の空気を払いのけるように、瞬間的な衝撃がニドの身体から放たれる。


その力の源泉は意思に連なり“起動”する魔剣。赤い刀身は更に熱を帯びて赫く煌めかせる。






(これだこれだこれだこれだこれだこれだこれだっ)






魔剣は高揚する。


いい意味で裏切られた気分はこれだから堪らない。








『…最高だよ、お前は―』












刹那、漆黒の竜が瞬く先に閃光を見た。その正体はひとりの少女


既に彼女は飛び掛かって頭角のすぐ真上。至近距離で魔剣を振り上げていた。










『―式、式、式、指揮者の恫喝、記憶の憎悪は花と散り、竜舌の根から永遠の罰を与える、人は恐らるように飛び百足を貪る、千を百を食い契る』








黒き蓮は、始めて…首を動かして彼女を視た。


そして、それをニドはその双眸で見下ろす。






『ニド』






魔剣は応える。彼女にそうするべきだと、彼女の意志を尊重し応える。






『その運命を殺せ』








鈍い音を響かせながら、火花を散らし拮抗する刃が黒き蓮の鱗が弾けさせ、散る花びらのようにハタハタと落ちてゆく。


しかし、黒き蓮はそれに対して何にも動じない。






黒曜石の如き煌めく鱗は、あまりにも硬すぎる。


黒き蓮は大きく頭を揺らされたものの、鳴りを吐き出すほどの一撃には程遠い。






だが、魔剣は確かに斬っていた。


奴の鱗は両断され、剥がされ、その柔らかく重白い肉質が一つの傷跡として晒されている事実は、


魔剣の語る、『何でも斬れる』は伊達ではない事を示した。










『“ペトロ・スケイル”なんて。臆病者のやる事だニド。流石、殻にこもった弱き人を体現した厄災なだけはあるなぁオイ!!』








ペトロ・スケイル、雄弁なる護り手。


特定の種類に区分けされた竜の中で、ある一部の種類が持つ特性


鱗を身代わりとした魔力依存型の守護結界。この能力は鱗に直接的に魔力を送り、保持する事で己を危険から守るデコイスキル。


一定以上の弱点と瞬発的な高火力が連なって作用した一撃でない限りは、必ず鱗によって守られてしまうのだ。






だが、魔剣はそれを断ち斬る事が出来る。可能だ。








黒き蓮はそんな自身の晒された傷跡を見下ろし、ググとゆっくり動き始めて


その不動を体現した佇まいを大きく変化させる。


高く上に伸ばした前脚を前に出して、大きく屈めると地に大きな爪を何本も食い込ませる。


座する後ろ脚は大きく地を叩き、穿つ。




そして、縮めた首と丸めた尾を大きく伸ばし


閉じていた大きな翼を一気に広げるとその凶躯が花のような姿をしている時よりも一層おおきなものと認識させられる。




黒き蓮はニドへの意趣返しのように大きく咆哮し。


それはまさしく生を赦されない忌まわしき竜、その姿に違いなかった。






しかし、ニドはもう既にその凶躯に恐れを感じていなかった。そもそもそのような感情を抱いていなかったのだろう。


その視線にはもはや慈しみすら感じてしまう程に、純粋な眼差しをしている。






ニドは敢然と立ち。魔剣を後ろに下げて構える。






『いいかニド。俺は常に“喋り続ける”。そこには“意味なんて無い”。だが、その間のお前は常に無敵だ。勇者よりも強く、王よりも堅牢で、


悪魔のように死ぬ事もない。ただ剣で全てを斬れると思って振り続ければいい。その刃を当てればいい。お前の意思をそのまま行動で示せ』








「…。」








『教えてやる。お前が“知りたい”と望むものを、その五感すべてに焼き付けてやるよ!ニド!!」






「ぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」








ジャバーの言葉に感情を焚きつけられたニドは大きく叫び、駆け出す。


魔剣の言う通りに意思を示す。




だからこそ、魔剣はその意思に答えを与える。






意思は力なのだと。








『愚蓮の芳香は風に運ばれ、海牛の花歌を殺す、厄除けの瀬は戦慄する陽気に春のゲシュタルトを染め上げ、泥に塗れたオーソリティに共鳴する無感情のイド、感情破壊論、不滅否定の法則、薄着の河、鉄パイプを加える蠅は親愛の逆さ椅子に座り、虚ろな愛で家路を戦争屋に求める、首切り豆腐に出刃ネズミが羽を注ぎ、西の門を砕く紫陽花は真に位置を呪う脳学者―』






その言葉には魔剣の言う通り、意味はない。




誰もが理解に及ばないわけのわからない言の葉。下らない戯言だ。


しかし、意味の無い言葉にこそ誰もが理解を求めて意識を注ぐ。


事象に運命の名を与えるように、世界はそこに耳を傾け、“疑門”を開き無理矢理にでも意味を造らせ、力を収束させる。




それ魔力に還元し、所有者に力を与える。


魔剣と呼ばれた存在が持つ魔の由縁。






それが『魔剣ジャバウォック』の力




“解読不可の叛逆詩”。








ニドは身体の中で自分を後押しする力を確かに感じた。


全てを可能にしてしまう程の高揚感を感じ、巨躯目掛けて大きく魔剣を振る。






黒き蓮はその動きに合わせるように身を屈めてその巨躯に似合わぬ速さで旋回する。


勢いに任せて連なる尾が大きな鞭の如くニドに襲いかかる。


しかし、その尾に繰り出した刃が触れただけで大きく弾かれ、纏う黒曜の竜鱗をいとも容易く剥がしてしまう。






『―紫蓮の門に差し込まれた不明瞭な鋏、喉元を掻き毟る常套句、牙を並べる渦は精神異常者の特異点を連想する、死を繰り返す井戸、ある者は狐の狼藉を業と呼び、狂い咲く墓にとめどない永遠を果て散らす』






ニドはもう一度、叩きつけるように魔剣を振り下ろす。


赫い刀身に紫紺の流動体が集い、触れた鱗をもう一度弾けさせ、引き剥がす






しかし、その攻撃に身の危険を察知したのか竜の長首はそのまま少女の頭上へと顎をずらし


喉元から赤い燐光を黒曜鱗の隙間から覗かせ、火球を口から解き放つ。


この至近距離からでは流石に避ける事も守る事も出来ないニド。


彼女は無抵抗のまま、降り注ぐ業火を頭から容赦もなく被らされる






『致死量の雨に戦士は終末の美学を見出し自害する、呼応なき虚空に繰り返すメビウスの輪』






しかし、当てられたという事実だけを残したまま


無傷のニドは動揺をする事もなく瞳を真上の竜へと向けて睨みつける。






『―聖なる怒り、変化を裏切る血潮、消滅を恐れる光、器を壊す水』






「どうして?どうして二人を殺したの?」






至近距離で黒き蓮に語りかけるニド。


当然ながら竜は答えない。答える理由も言葉も無い






「…そう、ならいいよ。ジャバーに教えてもらうから」






ギルリリと、地を削りながら魔剣を下から振り上げる。


ニドはそのまま刃を長い首に叩きつけようとする。






直前、黒き蓮はニドの攻撃に合わせて前脚で地を蹴り


その堅牢な肩を用いて彼女の刃が届く前に


その小さな身体を吹き飛ばした。






「ぐっ」






『慌てるなニド。お前にそれは効かない、今の奴の攻撃なんてものは何一つとして“意味が無いもの”なんだよ』






魔剣の言うとおり、ニドには痛みを感じる事はなかった。


吹き飛ばされたという事実だけを残して、それ以上の何ものでも無かったのだ。






世界が無意味に意味を創ろうとすればする程に


巻き込まれた周囲はそこに持つ意味を削がれてしまう。






黒き蓮の攻撃でさえも、そこに成される意味を削ぎ落とされてしまったのだ。








『こういうのが好きな奴なら知っているデバフ効果ってやつだ。だが、お前の行動のその全てには意味がある。何故ならそれはお前の意思だからだ』








遠く距離を取られたニドはうまく着地をして魔剣を引きずりながら相手に向かって突進する。


黒き蓮はそれを仕留めんとし、口顎から一回、二回と火球の礫を彼女目掛けて吐き出した。








『―死者の縁談は炎の焼け跡となり、絵画の閃光を喰らう容赦なき芽は六花の轍となる』








魔剣の言葉を耳にしながらニドは逃げる事も無く


その攻撃を一度は躱し、二度目は魔剣で弾き、三度目を同じく地に叩きつけた。


続けて、彼女は姿勢を低くして大きく屈むと


獣のように飛び出して、竜の懐へと入り込む。






そして振り上げた魔剣の刃が黒き蓮の長い首…そこに生まれた一裂の傷へと目掛けて舞い上がる。








「グルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ」








しかし、黒き蓮はそれを認めず


大きな顎を開きその顎で刃を受け止める。






そして、ガクガクと振り回し


ニドから魔剣を引き剥がそうとする。






「ぐっ」






だが、それを簡単に手放す事はない。


彼女の意思は魔剣の柄に根を張り、腕を引きちぎられない限り手放すつもりが無い。




それを知ってか、黒竜は大きく翼を広げ


魔剣を咥えたまま飛び上がる。






『まずい!ニド!!俺を手放せ!このままだとお前も連れてかれるぞ!』






「…やだ」






『ああ!?』






「いやだ!私はあなたから離れない!全てを教えて貰うまで!離さない!絶対に!!」






『…死ぬぞ』








ニドと魔剣は地から足を離され


広い空へと連れてかれる。








竜が翼を羽ばたく度に、重力に反逆するほどの力強さをその身で感じ、グングンと舞い上がる程に風が頬を叩き、雲が顔にかかる






グングン






グングンと






しがみつきなら天を真っ直ぐ見て


やがてそこに至った。










気づけば二人は途方にも無く、大きな空の真ん中に居た。






「あ」






ニドは不意に、その壮大な景色に声を漏らす。


ジッと周囲の世界を見渡している。






…何も無い






静かで、どこまでも高く、高く、全てが青い、


ゆっくりと動いてうた雲さえも真下にある。






あんなにも心を壊されそうになった光景もずっと遠くの下にある。


だからこそ彼女は知った。知ってしまった。








―ああ、なんでこんなにも“小さい”。全てが、この位置から見てしまえば、なんて解りづらく、なんて意味の無いものなのか






だが、彼女の思いは未だにあそこに縛られている。


彼女は先程まで自分がいた場所を見下ろし…手を伸ばした。






「カーニー、ニナ…」






彼女は瞑目する。








黒き蓮はそこで咥えていた魔剣を連なるニドと共に、無慈悲に開放する。




一瞬が無音の感覚になり、ニドがスルリとそこから堕ちゆく瞬間―
























「ありがとう―」






























ガッ!








竜の長首。白い肉質に刃が突き刺さる。




黒き蓮の喉を穿つそれは魔剣の刃では無い


それは、あの時武器屋でカーニーから貰ったナイフだった。






「ありがとう、カーニー」






彼女は落ちる直前で、咄嗟に腰に携えていたナイフを、魔剣を握り締める手とは別の手で取り出し


ぺトラ・スケイルの至らない領域、初撃て剥がし曝された傷跡に差し込んでしがみついていたのだ。






「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」






当然その予期できぬ痛みに大きな叫びを上げ


黒き蓮は悶えながら、ニドと共に堕ちていく。






「……」






―確かに一矢報いた。彼との思い出が、この厄災に確かな一撃を入れたのだ。






だが、このまま共に落ちれば


黒き蓮どころか、ニドさえも無事では済まない。




助からない


それを彼女は知っていた




しかし、彼女は不思議と落ちる速度に何の恐れも感じて居なかった。


自分の感情と向き合い、そこで一つの完結へ至った情動は徐々に上にすれ違う風と共に溶けていくだけだった。










ただ、見上げた太陽を瞳に映して…ふと手を伸ばす。








ああ、あの場所に少し近づけたのだと。








彼女は悟った、ゆっくりと目を閉じて








その9.8の速度をその身で感じながら








―この瞬間が、死に至る感触なのだと。
























『ふざけるな!!!』










隣で耳に突き刺すような怒号が聞こえ、ニドはハッとする。








『こんな形で終わるのか?こんな終わりがお前の望みか?』






「ジャバー」






『早えんだよ!!諦めるのも、全てを悟ったと感じるのも、早すぎるんだよ!バカ野郎が!!約束しただろ!!


一緒にいて!一緒に全てを教えるって!だからこそお前は俺を手放さずにこんな高い場所まで来たんじゃねえか!!』






「…」






『運命に抗え!!抗って!抗って!殺せ!思い出せ!お前がどうしてあの場所で俺に選ばれ、俺を選んだのか!!』






「ジャバー」






『死ぬんじゃねえ!!諦めるんじゃねえよ!!考えろ!!本当に終わるその時まで!俺はお前の傍にずっと居続ける!!この思いは!ニド!お前に教えられたものなんだよ!!』






「ジャバー!」






ニドは彼の名を呼ぶ、その目に溢れる雫を大きく空に舞い上がらせながら大きく叫ぶ






「死にたくない!生きたい!!もっと知りたい!!もっと、あなたの傍に居たい!!!もっと教えて欲しい!もっと私の名前を呼んで欲しい!もっと!未来を見てみたい!!」












―何処かで、誰かが彼女の背中を押し上げたような気がした。










彼女はその助けを受け取り、竜の首に突き立てたナイフを強く握り締めたまま


身体を大きく旋回し、共に堕ちゆく竜の背中へと乗りかかる。






しかしそれを許さぬ程に未だ悶える黒き蓮の竜。






彼女は選んだ。


たとえ、どこまでもどこまでも地獄があろうと




自身が望むまで、


死という運命に抗っていくと―










「だから、私も教えてみたい、あなたが知らない事を教えられるなら!」










ニドはグラつく竜の背中で仁王立ちで大きく踏ん張り


魔剣を大きく持ち上げる。






しかし、まだ重い。


何かが彼女の意思を刃を強く縛り付けている。






だが、もう自分だけの想いじゃない。






『清廉なる聖女の咆哮、那由他の意思、錦なる巡礼、髑髏の足掻きは竜を侵し、思慮する供物は支配者の喉を噛み砕く』






もう、ニドだけの意思では無い。


隣にいる彼がそう言ったのだ。






握り締める魔剣に力を込める。


空気の摩擦にしては異様なまでにギチギチとした音が鳴り響く。まるで鋼と刃を交えているように思えた。


だが、それがなんだと言うのか。




運命が、全てを縛り付ける鋼の歯車であるならば


彼女と魔剣の意思はそれを焼き斬る情熱に違いない。








「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」






ある筈のない空虚に火花を繰り返散らしながら


ニドはめいっぱいの力を振り絞って、魔剣を振り下ろした




















『―至れ、至れ、至れ!!!運命を断つ剣!!その名は』


















“アドメリオラ”






















「ギイイイイイイアアアアアアアアアアアッ――――――。」










赫く煌き、轟き嘶く魔剣が竜の背中を貫く。


ジリジリと黒曜の背護を灼き穿ち、貫く。奥へ、奥へと






瞬く間に周囲で大きな光が踊るように明滅し










やがて、一つの結論に至る。


いや、これは単なる通過点でしかない














「あ」










…彼女は立ち尽くして見上げる


先程まで囲まれていた空は既になく、もう見慣れた大地が周囲にあった。


上を見上げると空から白い羽が幾つも舞い降り


彼女の差し出した手の上にそっとひとつ乗っかる。


その羽は、すぐに小さな瞬きとなって消え








目の前で、うすらぼんやりと誰かが二人、手を振っているのが見えた。






「カーニーッ、ニナッ…!」






彼女の呼ぶ声が届いていたかは定かではない


二人がそのまま背を向けてゆっくりと去っていくのを、切なそうに見送りながら








ニドは小さく手を振った。








「ありがとう…さようなら」


















彼女の足元には、焼き焦げた竜の死骸があった


嗅いだ事の無い匂いを舞い上がらせ、微かな灯がその至る場所の隅でくすぶっている。




未だその上に魔剣が突き立てられ、最早鳴く事も無く、動く気配は当然ない。






魔剣使いのニドは思い出したように空を仰ぎ、暫く無言のまま太陽に目を凝らす。






誰もいないカラオンの別れ道。












そんな小さな場所で黒き蓮の竜は、二つの意志の轍となったのだった。

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