いつか咲くまで待っていて
ぷるたぶ
いつか咲くまで待っていて
花のような人だった。
月並みな表現だけれど、本当にそうとしか言いようがなかった。彼は華やかで、それなのに気取りすぎてるところがなくて、いつも楽しそうに笑っていた。黙っていたら少し怖いほどのはっきりした顔立ちをしているのに、笑った姿は子どもみたいで、それが本当に花が咲くようだと思っていた。
うすらぼんやりしがちな僕と違って、彼は快活でしっかり者だった。どちらが年上かわからないわね、なんてよく母に言われたことを思い出す。彼がいれば場が華やいで、どんな嫌なことも忘れられそうだった。
僕が父を亡くした時、母が病に倒れた時、己の不幸を呪いそうな場面でひょっこり彼に出会う機会があって、そのたびに僕は救われてきた。
彼がいると、まるで真っ暗な道に花が満ちるようだった。
いつだって、彼は花のような人だった。
目が覚めるといつも絶望的な気持ちになる。
窓辺に置かれた植木鉢に目をやる。彼がいなくなってから、そこはずっと空っぽのままだった。明るい空、鳥のさえずり、行き交う子どもたちの声、そういうきらきらした日々の営みの何もかもが羨ましくて、憎らしくて、やりきれなくてたまらなくて雨戸は閉めたきりにしていたけれど、植木鉢の近くの出窓だけはなぜか塞ぐ気になれなかった。
自分でもバカバカしいとは思っている。何も植えてないのだから、何も芽が出るはずがない。そんなことはわかっているけれど、あの植木鉢は彼からもらったものだから、そんな奇跡が起こるなら彼が戻ってくるような気がしていた。
彼がいると、まるで真っ暗な道に花が満ちるようだった。僕の人生はあまりいいものではなかったけれど、彼がいたからなんとかここまで来れた。彼が花を散らして照らしてくれた道を、なんとかずっと歩いてこれた。彼がいてくれれば、自分は生きていけるような気がしていた。
(ああもう僕も、窓辺に咲いていたあの花がいつ枯れたのかなんて、思い出せない)
目を閉じる。
真っ暗な道。
花はもうない。
花のような人だった。
彼は華やかで、それなのに気取っているところがなくて、いつも楽しそうに笑っていた。彼自身、花を育てるのが好きだったから、僕は今でも彼を花に例えてしまうのかもしれない。彼から何度か花をもらって、実際に育てるように提案もされたけれど、なぜか僕は毎回枯らしてしまっていた。
それを報告すると、彼はお前にも苦手なことってあるんだなあ、と言ってからりと笑った。彼にはわからないだけで、僕には苦手なことばかりだ。何かに熱中してしまうと自分を疎かにしてしまうので、生活能力もない。
でも、彼がいてくれるから大丈夫だと思っていた。依存じゃないかって言う人もいたし、それを彼に直接尋ねたこともあった。彼はまた子どもの頃から変わらない無邪気な顔で、俺の好きでやってるんだからいいんだ、と言って笑った。だから僕は幸せでいられた。彼が心配して様子を見にくるたび、彼の作ったごはんを二人で話をしながら食べるたび、僕は錯覚していた。
この幸せは永遠に続くものだ。彼は僕のそばにずっといてくれるのだ。
そんなのは自分の思い上がりでしかなかったことを、僕は彼がいなくなってからようやく気づいた。
(どうして彼が死ななくてはならなかったんだろう)
花の見えない闇の中。全てが寝静まる闇の中で、僕だけが生きているみたいだった。彼のいない世界はこんなに静かで、暗くて、息ができない。それなのに、世界は今日もきらきらした営みの上に回り続けている。いなくなってしまった彼と、僕を置き去りにして。
昼も夜も真っ暗な道を歩いているような気がして、辛くて苦しくてたまらなくて、夜の街に一人飛び出した。夜遅くの街はどこまでも真っ暗で、真っ黒で、世界に一人きりのような気分になる。
前まではこんな夜には彼のことを考えれば大丈夫だったのに、今ではそんなことはなくなってしまった。彼がいないと息もできなくて、辛くて苦しくて、皆が生きているのが羨ましくて憎らしくてたまらなかった。
「……お前がいないと、寂しいよ」
道の真ん中、切れかけた街灯の下。思わずそう呟いたらなんだか虚しくなって、一人でまた家に帰る。
目を閉じる。
真っ暗な道。
花はもうない。
このまま目が覚めなければいいと、何度思っただろう。
彼が聞けば確実に怒るようなことだけど、僕はわりと本気でそう考えていた。このまま目を覚まさずに、真っ暗な道を歩き続けていたら、彼に会える気がしていた。
彼に会いたかった。彼を失った世界は息も出来ないほど苦しいのに、時間がいつものように流れ続けるのはとても辛くて、憎らしくて、虚しかった。
目を覚ますたびに絶望的な気分になった。明るい空、鳥のさえずり、行き交う子どもたちの声、そういうきらきらした日々の営みの何もかもが羨ましくて、憎らしくて、やりきれなくてたまらなかった。僕の窓辺の鉢植えには、もう何も植えられてないのに。
「……お前と行くなら、地獄でもよかったのに」
僕を置いていかないなら、二人でなら、どこに行ってもよかったのに。
目を閉じる。
真っ暗な道。
花がもうない。
「大丈夫?歩き疲れた?」
不意に聞こえてきた懐かしい声に、思わず目を開けた。目の前を歩いていた人が、こちらを振り返る。
「お前に元気がないんじゃないかって、思ったから来たけど、どうかな」
一面の向日葵。絵の具を溶いたような鮮やかな青空、白い雲、その下で彼が笑っていた。
夢だとわかっていても、それでも彼が笑うだけで、僕は安心した。そうだ、この笑顔が好きだった。この笑顔に救われてきた。僕の方が年上だったけれど、いつも彼が手をひいてくれた。彼がいればどんな場も華やいで、嫌なことも忘れられた。
そうだった、高校生の頃に二人きりで行ったことがあった。何があったかはもう忘れてしまったけれど、彼に会いたくて会いたくて仕方がなくて、学校に行くのをやめて急に彼に連絡して、向日葵畑に行ったんだった。
「当たり?」
得意げに言う彼に、さすがだね、と返すと彼は満足そうに笑った。
「俺はお前のこと、なんでもわかるから」
「心強いよ。僕はどうにも、お前以外にはわかりづらいみたいでね」
「そうか?わかりやすいと思うけど。お前、なんでも隠しがちではあるけど隠しきれてないし」
彼に見透かされているのが恥ずかしくて、僕は曖昧に微笑んだまま向日葵を見上げる。そう、彼はいつだって僕のことをわかってくれた。僕が話したいことも、隠したいことも、すべて。
「まあ、俺は慰めるのは下手だから、こうやってお前とどこか行ったりだべったりしかできないけど」
そんなことないよ。そんなことはなかった。僕はお前に救われていたよ。
制服の白いシャツ。見渡す限りの黄色。その中で笑う彼の明るい笑顔。この世で一番明るい風景で、幸せな光景だと思った。ここが天国であればいいと思うほどに。
「……そんなことないよ、僕はお前がいればそれでいいんだ」
「そう?」
「だから、ずっとそばにいてほしいな」
「なんだよそれ。プロポーズみたいだな」
そんなこと言わなくても、従兄弟なんだからずっと一緒だろと言って笑う彼の横に並んで、向日葵畑を歩き出す。見渡す限りの黄色。絵の具を溶いたような鮮やかな青空。
「まあ、俺もお前がずっとそばにいてくれるなら嬉しいな」
「本当?じゃあずっとそばにいてくれる?」
「どんだけ言質とろうとするんだよ。ああ、そうだよ」
「それなら、何も怖いことなんかないね。百人力だ」
あの時彼は大げさだと言って笑ったけれど、その約束がどんなに僕を強くしたか。彼が一緒にいてくれるだけで、彼が笑ってくれるだけで、僕の真っ暗な道には花が満ちるようだった。
「ずっと一緒にいてね」
「ああ、ずっと一緒」
「僕はお前がいないと、だめだから」
「知ってるよ。お前ろくに飯食わないだろ」
「そうだよ、お前がいないと何もできない」
言いながらじわり、と涙が溢れてくる。そう、何もできない。窓辺の鉢植えはそのままだし、窓を開けることもできない。明るい空、鳥のさえずり、行き交う子どもたちの声、そういうきらきらした日々の営みの何もかもが羨ましくて、憎らしくて、やりきれなくてたまらない。
彼がいなくなってからは、真っ暗な道しか見えない。
思わずそう話すと、彼が困ったように笑った。ああそうだ、僕が悪いことをしたり自分を蔑ろにすると、彼はこういうふうに笑うんだった。そんな風に笑われたら、僕は自分に価値があるような気がしてくる。真っ暗な道に花が咲くように。地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように。雲間にさすあの光のように。
これはただの承認欲求から来るものなのかもしれないけれど、それでもよかった。僕は彼に救われている。
彼がいれば、彼がいてくれれば、それでよかった。
「でもさ、どんなに離れたって俺たちずっと一緒だよ」
制服の白いシャツ。見渡す限りの黄色。その中で笑う彼の明るい笑顔。この世で一番明るい風景で、幸せな光景。
「だから、そんな顔するなよ」
ずっと一緒だからさ。
ね、約束、と小指を絡められて、思わず涙がこぼれた。
ここが天国だったらよかったのに。それだったら、二人でずっとここにいられたのに。
でも、僕が好きだった彼は、きっとそれを望まないんだろう。たとえ一人で先を歩いていってしまっても、必ず先で待っていてくれるんだろう。
「……ああ、ずっと一緒だ」
僕の歩む道に、花を咲かせて。
目が覚める。
心の中に青空が広がっているようだった。長かった雨が降り止んで、また季節が巡ってくるような。
ずっと一緒、と繰り返してみる。彼の笑顔は目蓋の裏に焼きついたままだ。一面の向日葵。絵の具を溶いたような鮮やかな青空、白い雲。
そうだ、彼はもういなくなってしまったけれど、あの約束はまだ残っている。たとえもう彼に会えないとしても、彼と行った場所、彼と見た花、彼の声、彼の顔、僕が彼のことを覚えている限り、あの子はずっと僕と一緒だ。
「結局、また助けられてしまったね」
また僕の真っ暗な道に、彼が花を咲かせてくれた。
それなら、僕もまた、この道を歩いてみようと思う。
「……そうだね、やってみよう」
一人の部屋で呟いて、立ち上がって窓を開けた。
大丈夫、まだ覚えている。だって彼は、ずっとそばにいてくれると言っていたから。
ひとまず向日葵でも植えてみよう。
その花がきれいに咲いたら、いつかまた彼に会った時、あの夏の日のように笑ってくれるだろうから。
いつか咲くまで待っていて ぷるたぶ @purutab
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