紫と霊
紫鳥コウ
紫と霊
冬になると憂鬱になる。祖父の霊が見えるからだ。その霊は祖父の形をしていないこともある。あらゆる凶兆となり、僕の前に現れてくる。
それら僕を苦しめる不吉な
この日も図書館で勉強をしていた。外は吹雪いていた。窓から見える公園のブランコは、だれかが漕いでいるかのように揺れていた。目をうっすらとさせれば、子供の姿が見えるような気がした。ほんとうに見えた。
思わず「わっ」と声を出してしまった。同級生たちの視線が僕に集まった。ティッシュを取り出して、なにかをつまんだふりをして、本棚の隙間を
すると、トイレの前の椅子に、ひとりの老人が座っていた。見たことのない男性だった。図書館に通いはじめてから、一度も会ったことがない。しばらく彼を見つめていると、こちらに気付いたのか、ゆっくりと振り向いた。
それは紛れもなく、祖父の顔だった。にやにやと笑っていた。
途中、一冊の本が目の前に落ちた。強風でも吹かなければ押し出されるわけがない。だがこのまま放っておくわけにはいかず、おずおず手に取ってみた。それは、服薬自殺を遂げた大正期の作家の全集で、おそるおそる頁をめくってみると、書簡集らしかった。
しかも彼の晩年の書簡だった。祖父も死ぬ一年くらい前から、やけに手紙を書くようになった。返信が届くのを待ってばかりいた。遺品となった手紙をまとめたとき、ひとつ奇妙なものがあった。それは、僕と同姓同名の人物からのものだった。開封して読んでみると、菊の花の品評会のことについて書いてあった。
それにはこんな一文が記されていた。《紫色の菊はもうすぐ散るでしょう》――そういえば、あの老人が着ていたのは濃い紫のコートだった。いま思い返すと、ステッキも赤紫を光らせていたような気もしなくはない。
全集を書棚に引っ込めると、ひとつだけ逆さになっていることに気付いた。遺作がいくつか収められたものらしかった。コツコツとステッキが鳴る音が聞こえた。振り返ると、書棚の間をだれかが横切ろうとしていた。あの老人だった。そしてチラリとこちらを見たかと思うと、冷ややかな薄笑いを浮かべていた。
僕は机に戻り、うつ伏せにしておいた赤本を裏返した。そこには日本史の問題が詰まっていた。なにかに波線が引いてあった。それは僕が引いたものに違いなかった。しかしなぜここに引いたのかを覚えていなかった。なんでここが重要だと思ったのだろう。
波線には赤のボールペンを使っているはずなのに、光の加減によっては、紫色に見えないこともなかった。のみならずその波線が伝えてくるのは、徳川家継の短い生命のことであった。僕はまるで、お前も短い生涯なのだと、宣告されたかのような気分になった。
そのときまた、ステッキの音がした。振り返ると、ひとり黙々とペンシルを走らせる同級生がいただけだった。あのペンシルで机を叩いていたのだろうか。それとも僕の後ろに、あの老人がいたのだろうか。
だとしたらいまどこに?――あたりを見回したり机の下を
僕は紫色が嫌いなわけではない。その色が祖父と結びつけられたときに、忌避感が生まれるだけだ。そしていま、色と霊が一体となって、僕の敏感な神経を震わせてくる。
祖父の霊はそこにいるというメッセージが、紫色となって報せてくる。菊と囲碁と鳥を愛した祖父は不気味な霊となって、僕を
これからも、祖父の霊の脅威に怯えながら生きていくことになるのだろうか。毎年冬だけならば、許容できないこともない。不安なのは、この苦痛が段々と広がっていかないかということだ。
秋へ、春へ……そして夏へ。一年中、祖父の霊による数々の怪異に悩まされるということはないだろうか。いまはまだ、一定の期間にとどまってくれている。しかし、これからもそうだとは限らない。
いまも、あちこちからステッキの音が聞こえてくる。きっとこれは、図書館を歩く人々のかすかな足音なのに違いない。それでも、僕にはそう聞こえてしまう。
もうなにもかもが、平常な音となってくれない。なにかの凶兆として僕の耳へと響いてくる。早く春になればいい。春になったら祖父の霊がいなくなるという確証は、どこにもないけれど。…………
〈了〉
紫と霊 紫鳥コウ @Smilitary
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