パイプから、窓枠に足を移していく。


 窓枠には小さな落下防止の柵と、小さなコンクリートの軒がある。柵に手を掛けながら、もし落ちそうになったらコンクリートの軒に足を置くことにする。軒の方が幅が大きいからだ。


 224号室は、非常階段から見て四番目の場所にある。つまり三つ窓を通り抜ける必要があった。


 僕は一つ目の窓を通り、二つ目の窓との間にあるパイプを使って、二つ目の窓枠へと降りた。


 振り返って、茜の方を見る。


 茜はまだ一つ目の窓枠に片足を置いた所で、まだ躊躇っているのが分かる。無理もない。四階の高さは、身がすくんで当然だ。


 僕は改めてここで待っているかどうか聞こうとしたが、茜の顔を見てやめた。次の窓に向けて、懸命に手と足を少しずつ伸ばし、ゆっくりとだがこちらに向けて進んできている。顔は真剣そのもので、怯えはあっても、後悔している様子は全くなかった。


 だから僕は振り返るのをやめ、先に進むことにした。


 三番目の窓枠に手を掛け、動くのをやめる。


「どうしたの?」


 茜の声。


 僕は振り返り、茜に口元に人差し指を置いたポーズを見せる。


 中で誰かが話をしている。


 一番目と二番目の窓は二つともカーテンが掛かっていたから、何も考えずに柵を掴んでいけたが、この窓はカーテンが開いている。


 僕は少し考えた後、茜に下に行く意味の仕草を見せ、それから下の窓の軒に足を置き、そこから三番目の窓の下を通って、次のパイプに向かった。このパイプで再び上に向かい、それから224号室の窓に降りるのだ。


 僕の動きを茜が目で追っているのが分かった。何故そうしているのかも。僕は先にパイプを伝い、224号室の窓枠に足を掛け、降りた。茜が一段下に降り、パイプを伝って登ってくるのを見守る。


 待っている間に、僕は疲労で痛み出した手を見た。手は煤が付いたみたいに黒く染まっていた。


 茜が僕の隣に降り立ち、顔を見合わせる。


 目の前のカーテンの掛かった窓を見る。


 ここが224号室で間違いない筈だ。


 茜が言った。


「で、これからどうするの?」


 僕は窓に手を掛けた。


「開けてみる」


 窓に力を込める。だが動かない。


 その時、僕は急速に力が抜けていくのを感じた。そうだよ。窓に鍵が掛かっているなんて当たり前の事じゃないか。


 どうしよう。


 隣で茜が溜息を吐いた音が聞こえて、それから何やらゴソゴソとやっている。


「何してるの?」


 言うと、茜がキッと鋭い目で僕を見返してきた。


「あんたが鍵のことを考えてないから、私が気を利かせて開けてあげようとしてるんでしょうが。まあ、見ててなさい」


「……はい」


 僕は心持ち傍に下がる。陽は既に殆ど沈んでおり、手元は自分達の影でますます見え辛くなっている。


 だが鍵のありかは見て取れる。茜は右手に黒い、突起のついた物体を手に持って、左手に桐のような鋭い棒を持っていた。


「……何するの?」


 茜は振り返らずに言った。「黙ってなさい」


 すると、茜がその物体を握った指を押すと、突起の中から青白い炎が上がった。その炎は直線的で、真っ直ぐに鍵のある辺りの窓に接している。


 僕はそこで得心した。きっと茜は、ガラスをバーナーで炙って、手首が入るぐらいの穴を桐でくり抜こうとしているのだろう。鍵を開けられるように。だが、そんなに上手く行くだろうか?


 数分が経ち、辺りはますます暗くなっていく。下を見ると、白いフィラメントの灯がポツポツと点き始めている。手元は茜が出すバーナーの青白い火が見えるだけで、もう茜がどんな表情を浮かべているのかも分からなかった。


 僕は首だけを後ろに向けて、没した陽の光の名残を背に受けた小山を見た。もう青紫色の輝きが残っているだけで、殆どが闇の色に染まっている。


 下の電灯はもう全て付いていて、上から見れば丸見えだった。急いで中に入らないとまずい気がする。


 そこで不意に、僕の頭の中が急に冷める瞬間があった。ちょうど、山の輝きを見て、眼下の電灯を見下ろした時だった。


 ……僕等はなんでこんなことをしているんだ?


 突然、冷静な自分がこのタイミングで顔を出して、僕の耳元で囁き始める。いや、とても冷静な声で、厳格な基調を帯びて。


「なんでそんなことをしているんだ?」


「何か言った?」


 茜の背中が答えた。僕はそれ以上何も口には出さなかった。


 呆然としているうちに、茜の歓喜の声が聞こえた。「やったわよ」と押し殺した声でそう言い、削り取れた小さなガラスの破片を持ち、何故か袋の中に入れた。僕の目を見たのだろう、茜は「なによ」と言い、窓に手を差し入れながら、「落とした方がまずいでしょう」と言って、鍵を開けた。


「開いた」と茜が嬉しそうに言い、窓が開いた。


 僕等は慎重に窓を開いて、近い僕から先に中へと入った。カーテンが邪魔で、それを押し除けている最中も、僕の中の最深部の僕が、「何のためにそんなことをしているんだ?」と呟いていた。


 今の僕はその声を無視し、病室の床に足を着けた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る