次の日、僕らは夕方になるのを待って、家を抜け出し、待ち合わせ場所の公園前で落ち合った。茜は小さな布の鞄を持っていて、僕はそれを指さして言った。


「それじゃ、登る時に邪魔になるよ」


「飲み物は必要でしょ? 大丈夫よ。紐に両手を通して背負えばいいんだから。もしかしたら話せるかもしれないんだし」


 昨日に比べたら、茜の声は調子が良く、張り切っているように聞こえた。昨日はやっぱり何かあったのだろうか。聞いた方がいいのか、良くないのか……。


 僕は公園の遊具の一つに腰掛けていて、視界の端で夕陽がもうすぐ沈もうとしている所だった。


 僕は言った。


「これ以上暗くなる前に、早めに行った方がいいね」


 そうね、と言いながら何故か茜は僕の隣に座り、先に飲み物を取り出し、キャップを捻って飲み物を飲み始めた。この国で売られている、よく見るスポーツ飲料だった。


 いる? と聞かれたので、僕は首を横に振った。


 その後、僕らは出発した。



 この街にある病院は大きな所は一つだけで、後は個人でやっている個人医院が幾つかあるだけだ。でもそれも互いにとても離れていて、この街の人達が主に利用するのはこの国営病院が殆どと聞いていた。


 着いた頃には陽はますます傾いていて、木々や草むらには既に薄闇の気配が立ち込めていて、確実に夜が近づいてきていた。僕は茜に合図をして、双眼鏡で門の辺りを見てもらった。


 茜は双眼鏡を下ろして、囁き声で言った。


「門の前に軍人が二人。でも、武装はしてないみたい。見た感じ、他には誰もいないわ。入り口の側に軍のバギーが置かれてる。他には特に何もないわね。


 どうするの? 見た感じ、病院には普通に入れるみたいだけど」


 茜の言う通り、人々は軍人から身体検査を受けることもなく、何事もないかのように自然に入り口を通り抜けている。


 僕は言った。


「正面から行っても、部屋には入れないよ。子供が二人でうろいていたら、それだけで病院の人にも何か聞かれそうだしね。だから、昨日行ったように、裏に回って、パイプをよじ登っていくことにする。子供二人の体重なら流石に壊れないだろうから。まあ、大丈夫。何とかなるよ」


 茜の大きな溜息が聞こえた。


「あんたのその予感が当たってくれるといいんだけど。私は不安しかないわ」


 僕は茜の方を見る。


「不安なら僕にもあるさ。勿論。それに恐怖もね。でも好奇心には勝てない。茜だってそうだろう?」


 僕がそう言うと、茜は何も言わず、暫くすると黙って先に藪の中を歩き始めた。裏手へ向かっているのだ。「あ、おい」と僕が言っても、茜は止まろうとはしなかった。ずんずん独りで歩いていく。方向は合っているのだけど……どうしたんだろう?


 僕らは二人、密かな行軍を開始し、ものの三十分で、病院の裏手側へと着いた。


 背後には名も知らぬ小山が控え、その陰から西陽が静かに降り注いでいる。幾つもある窓が光を反射し、病院の裏手の壁は白く輝きを放っていた。表門よりも遥かに明るく、思っていたよりも目立ちそうだ。もう少し待った方がいいだろうか?


 と、僕がどうするか思案していると、徐に茜が茂みから飛び出し、迷いのない動きで壁まで歩いて行き、立ち止まって上を見上げた。


 僕も慌てて茂みを抜け出して茜の側まで走っていく。


「どうしたのさ、茜?」


 茜は上を眺めたまま、「別に」と言う。そして指を上に向かって差しながら言った。


「あそこ。叔父さんに聞いた話じゃ、あの子は224号室にいるらしいの。本当は駄目らしいんだけど、無理言って教えてもらったの。問題は、どう行くかよね……」


 僕はその勢いに押されて、「ああ、そう……」とだけ言って、そのまま一緒に壁の上を見上げた。


 茜がさらに言う。


「このパイプじゃ、途中までしか行けないわ。そこからは窓枠の下を伝って行くしかないわね」


 僕はそれよりも、裏口の上にある非常階段の方を指差した。


「224号室があそこで間違いないのなら、その高さまではあの階段で行って、そこから行こう。そっちの方が近道だ」


 224号室は階段に比較的近い。僕がそう言うと、茜は今日初めて笑顔を見せて、僕を見た。


「やっぱり、結構考えてたのね。見取り図をどうして持ってるのか聞きたい所だけど、また今度にしとくわ。じゃあ、行きましょうか。差し当たって、非常階段ね」


「パイプを使って行こう。入り口は鍵がかかってるから」


 僕と茜は外のパイプをよじ登っていき、無事に非常階段へと降り立った。誰かがいそうな気配もない。大丈夫そうだ。


「このまま四階まで上がろう。……ところで、224号室なのに、どうして四階なのかな。普通二階じゃない?」


 僕の言葉に茜は歩きながら「確かに」と言ったが、やがて首を振って「まあ別にいいじゃない」と呟いた。僕もまあどうでもいいかと思い、そのまま四階の高さまで階段を登り、パイプと目的の224号室が見える場所で立ち止まった。


 下を見る。結構な高さだ。もし落ちたら、打ち所次第では命に関わる。


 茜の方を見る。茜の顔にも、少し怯えのような色が浮かんでいる。僕は茜の手を握った。


「大丈夫。何とかなるって。そうなる気がしてるって、昨日も言っただろう?」


 茜は茜の手を握る僕の手を見ながら、率直な声で言った。


「……手、すごい汗ばんでるけど」


 僕はパ、と茜の手から手を離し、「今のは無し」と言って、先に階段に足を掛け、乗り越える体勢を取った。茜の小さな含み笑いが聞こえてきたが、僕は聞こえなかった振りをして、太いパイプに手を掛けた。



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