浴衣(3)

 そして金曜日一日だけの登校日を経て、本日土曜日、日曜日に本祭が開催される夏祭りが迫っていた。

 犀川の祭りと平萩の方で行われるものはどちらも神社なので、たまたま今年は日にちが重なっていた。


 四時半、六時の待ち合わせに間に合うように佳澄は浴衣を広げた。帯を締めてもらうために母親を自室に呼ぶ。少し難しいらしいが器用な母親なら完成させてくれるだろうと見込んで、帯で朝顔を咲かせてもらうことにしたのだ。

 出来上がった高校一年生の浴衣姿は自分で思うのもどうかと思うが、初々しさが前面に出ていていいのではないだろうか。これなら彼氏も可愛いと言ってくれるだろう、と佳澄の頬が緩む。


「ねえ、拓実。どう、どう?」

「おっ、朝顔だ。すげえ、どうなってんのこれ」

「ママめっちゃ凄くない? サイト見せたらちゃちゃってやっちゃうの」

「帯ってこんな柔らかいもんだな」

「浴衣だからもっとへにゃへにゃのもあるし、硬いのもあるよ」


 拓実は少し名残惜しそうに佳澄の帯に触れる。どうやら兄は優を祭りに誘わなかったらしい。机の上で持て余しているバレッタが寂しく見えてきた。

 けれど、佳澄はこれから用事があるのだ。初彼氏とのデートという一大事が。


「じゃ、私は遅れないように行ってくるから。今日テレビで東京の花火大会の中継やるらしいし、見たら感想教えて」


 兄が寂しくないようにフォローを入れておくと、佳澄は下駄に足を通した。一応巾着に靴擦れ対策の絆創膏があるかも確認しておく。よし、大丈夫そうだ。


「行ってきま──」


 玄関を押し開けようとしたときに、佳澄の声を遮るインターホンが鳴った。

 キッチンにいる母親から佳澄は応答を頼まれる。しかたなく佳澄はインターホンに応えず玄関から直接対応することにした。


「荷物ですか?」


 そう言いながら扉を開けると、玄関の前に紫陽花の浴衣を着た綺麗な人が立っていた。俯いて携帯の画面で時刻を気にしているようだ。佳澄は目をぱちくりさせながらそろそろと近づく。

 佳澄の下駄の音で気づいたのか、その人は顔を上げると変な顔をして固まった。


「えっと、拓実……」


 声を聞いて誰かを悟る。


「え、優さん!?」

「そうだけど……あ、ごめん。こんな格好だからわかんないよな。えっと、拓実はいる?」

「いるいる、います!」


 佳澄は慌てて家に戻ると声を張り上げた。優が拓実を誘いにやって来たのだ。


「拓実ー! 優さんが浴衣着て来たよー!!」

「ええ!?」


 馬鹿みたいに大きな声で驚いた兄の声が家中に響く。

 拓実はリビングからバタバタと出てくると、そのままサンダルをつっかけて家を出た。


「なんでなんで。夏祭り、夏祭り!?」


 日本語の語彙ごいを失っている拓実に向かって、優はたしなめる。


「髪飾り、買ってくれたって聞いたから。行きたいのかと思ったんだけど」

「買った買った! え、夏祭り誘ってくれてんの?」

「嫌だったら帰る」

「嫌じゃない、行こう! ちょっと、用意してくるから待って」


 慌ただしく家の中に引っ込む拓実を見届けて、優は心なしかうれしそうにしていた。

 優は同じように家に飛び入る拓実を見ていた佳澄を呼び寄せた。佳澄は優の口元に耳を寄せる。


「あのとき、呼び止めてくれて助かった」


 佳澄は徐々に口元を緩ませながら「それほどでも」と照れてしまう。


「今特に遊びに行きにくいしさ、拓実が遠慮して誘うの渋ってたらと思って」


 互いに遠慮しあっていたらしい。佳澄はちょっとした共感からこくこくと頷く。


「兄が嬉しそうで何よりです」

「それより佳澄ちゃんも浴衣着て、友達と?」

「いえ、彼氏と……。あ、時間」


 携帯で確認した時刻はもう家を出る時間だ。

 優は慌てる佳澄に手を振る。


「行ってらっしゃい」

「いってきます! あの、二人も楽しんでください」


 手を振り返しながら言った佳澄の言葉に、優は家の方に目をやってから小さく頷いた。




 それから拓実が出てきたのは五分後のこと。

 手にくしと小さなゴムの入った缶を持って出てきた。


「ちょっと玄関まで入れよ。暑いし、髪やってあげるから」


 家の美容院は継がないと言っている割に、拓実は一般男子高校生と比べてヘアメイクの技術が高い。

 ただ拓実曰くそれは趣味でもなんでもなくたまたま身についてしまったものらしい。器用なのだ。

 優は家にお邪魔して上がりかまちに背を向けた。


 髪は軽く一つにまとめただけ。図々しいかもしれないが、髪飾りと聞いて拓実は優の髪も触りたいのだろうと思ったのだ。

 そしてその憶測は当たっていた。証拠として楽しそうに優の髪に櫛を通している。


「ちょっと髪引っ張るから、痛かったら言ってな」


 こめかみのあたりの髪をすくわれると耳元でさりさりと音がする。手際のいい編み込みの音だ。ぱちん、と小さなゴムでまとめられると手櫛で拾われて反対側も編み込まれていく。


「下の髪はどうする? アイロン持って来るか」


 拓実は洗面所の方に消えると、ヘアアイロンを持ってきて玄関のコンセントにプラグを差した。それからヘアアイロンが温まるのを少し待って、優の髪が外向きに撫でられていく。

 靴箱の扉にめ込まれている鏡を優に向けると、拓実は満足したように腰に手を当てて頷く。


「いいじゃん。最後にバレッタつけるから、ちょっと頭抑えるぞ」


 手鏡を姿見と合わせ鏡に向けると、優は首を傾けた。シンプルな浴衣にいいアクセントになっている。金魚の赤がちょうどいい塩梅あんばいで、位置も黒髪に重なっているので金がぼやけてしまっていない。


「浴衣、どんなやつ持ってたか覚えてくれてたんだな」


 優は鏡越しに拓実に目を合わせた。


「去年、優ん家に迎えに行った時、ソファに浴衣が掛けられてるの見ちゃって、それからずっと『見たいなー』って思ってたんだよ」

「一年も?」

「一年も。でも今日見れて未練は晴れました」

「祭り行かずに満足するなんて安いやつだな、拓実は」

「もちろん、祭りも行くぞ。ちょっと片付けてくる」


 高校生、最後の夏。

 正直、高校生のうちに拓実と祭りに行けるのは去年が最後だと思っていた。

 優は鏡を見つめながら編み込みに手を伸ばす。

 中学生になってばっさり髪を切ってから、拓実は髪を伸ばした方が似合うと言ってくれた最初の人間だ。また面接のために切らなくてはいけないのが悔しいが、優はバレッタの金属を撫でながら考える。


「おまたせ。じゃ、行こうぜ。ちょー可愛いから自慢して歩こっと」

「恥ずかしいからやめろ」

「恥ずかしがってる優も可愛いので自慢一択だな」


 優は下駄のまま拓実に軽く蹴りを入れると、拓実は大げさに体を傾けた。


「優に嫌がられたらしょうがないから、待ち受けだけにとどめておいてやる」

「それ誰かに見せて自慢するんだろ」

「ちっ、バレたか」


 日が傾き始める空の下。

 下駄の軽ろやかな足音とサンダルのスポンジが地面を踏む音が、同じ歩調で響いていた。

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