閑話

浴衣(1)

 チャイムがテストの終わりを告げる。

 手の中のペンを置いて、クラスメイトたちが伸びをして疲れを忘れようとしていた。


「やった、終わったよ!」


 ぽつぽつと空白の見える解答用紙を回収されてから、机から身を乗り出して響子に話しかける。

 勢いのいい報告に響子は苦笑いを見せた。


「終わったわね」

「数学難しかったぁ」

「でも世界史は絶好調そうだったじゃない」

「だからと言って数学の赤点を回避できると限らないじゃん。ね、ね、それより今日か明日か、浴衣見に行かない?」


 テストはもう終わったのだから、どうでもいい話だ。

 響子は「浴衣」の二文字に目を丸くする。


由良ゆら、浴衣買うの?」

「去年は行けなかったじゃん。ほら、わたしのおじいちゃんの三回忌さんかいきで」

「確かにそうだったわね」

「響子だけでも行ってきたらよかったのに」

「まあ、一緒に行く人いないし……」


 響子のつぶやきに由良は口角をゆっくりと持ち上げた。


「響子も浴衣、持ってないでしょ? 見に行こ! で、買っちゃおうよ。着付けは……どうしようかな。ネットで調べるとか?」

「気がはやり過ぎよ。よかったら私が教えるわよ」

「え、響子って着付けできるの?」


 響子は由良の驚きに微笑んだ。

 由良はたまに驚かせられる。響子は実はお育ちがいいんじゃないか、と。たまにどこで知ったのかもわからないような礼儀作法を知り得ていたり、回らないお寿司に行ったこともあるというのだ。これはお嬢様だ。


「響子先生教えてください!」

「そんな先生だなんて、着物より簡単だから由良もすぐできると思うわ」


 かくして、響子と由良は放課後、浴衣探しに出ることになった。




 目星をつけておくべきだ、というのは響子の提案だった。そもそも、二人はどんな浴衣が似合うのかわからない。年齢によって似合うものは変わってくるだろうし、それを踏まえると二人はしばらく浴衣を着て祭りに出かけていなかった。

 夏祭りは今週末。猶予ゆうよは四日程度だ。


 響子はフォークにパスタを巻き付けながら、携帯で眺めていたページを由良に見せる。


「例えば、こんなのとか。それか、こういうの」


 紺に大輪で淡い紫の朝顔が咲いている古典的なもの。あるいは、花火の細かい書き入れが華やかなもの。

 由良はそれらを見比べながらふんふんと頷く。印象の違う二種類だ。


「この二つだったら、由良は朝顔の方が似合うと思うのよ」

「柄が大きいと小顔効果あるかなぁ」

「よく分からないけど、そうかもしれないわね」

「じゃあ、おっきい柄にしよっと。でも朝顔じゃないのがいいな」


 由良はクリームパスタの最後の一口を咀嚼そしゃくし飲み込みながら答える。


「どうして?」

「ちょっと地味」


 由良の容赦ない発言に響子は肩を揺らした。


「地味? 可愛いのに」

「響子はもちょっと派手なのがいいよ。わたしは、これが似合うと思う」


 響子に見せたのは由良が似合うと言われたものと対照的に、黒に白百合のシックなデザインの浴衣。


「大人っぽいし」


 響子は髪を耳に掛けると恥ずかしそうに笑う。


「ほんとに言ってる?」

「言ってるよ! じゃあ、後で合わせてみて。保証するから」

「じゃあ、早く食べ終わらないと」


 響子は一口には多すぎる分を口に運んだ。




「あれ、生徒会長じゃない? えっと、去年の」


 夏祭り浴衣フェアの特設広間で浴衣を吟味ぎんみしていると、由良が遠くを指さしてそんなことを言う。

 ハンガーの隙間から顔を出して響子は指さす方に目をやると、確かにそれは福島ふくしま拓実たくみだった。どうやこちらに向かって女の子と一緒に歩いてきているが、たしか一度会ったことがある彼の妹ではないだろうか。


「妹さんとお出かけなんて仲良しね」

「福島先輩、妹居るんだ。へえ、優しそう」

「仲が悪くないとは思うわ」


 去年の文化祭で妹が見学に来ていたのを思い出す。結局彼女は風稜学園に入学しなかったわけだが、そのときの兄妹きょうだいの仲は悪く見えなかった。

 そんな会話を交わすうちに、妹の方が視線に気づいて拓実の背中を叩いていた。


「あの人」

「ん? おう、小森」


 妹のおかげで気づいた拓実は響子に向けて手を上げる。


「福島くん、久しぶり」

「久しぶり。小森も浴衣探しに?」

「そう。そっちは妹さんの浴衣探し?」


 響子が妹に話題を振ると、顔を逸らして耳を赤くする。


「初彼氏と初デートなんだよ」


 拓実が声を潜めて響子に言う。なるほど、それは一大イベント。失敗は避けたい。

 何が可愛く見えているのか男性の目線も欲しいところだ。

 しかし拓実にも用はあったようで、妹に脇を小突かれていた。


「そっちだって、『髪飾りどっちがいいかな~』とか聞いてきたくせに」

「髪飾り?」


 妹の告げ口にあれよあれよと拓実はしどろもどろになる。


「あー……えっと、夏祭りに行く口実にできないかと思ってさ。その、優を誘おうと思って」


 響子は目を丸くして瞬きをする。


「誘ってないの?」

「いや、だって去年は失敗したんだよ!」

「失敗って、行きたくないって拒否されちゃったってこと?」

「ちゃんと誘ったんだよ。お祭りにも行った」

「ならいいじゃない」

「問題はそこじゃないんだよ!」


 やけに熱の入った様子で拓実は語る。よっぽど許せないことがあったらしい。


「優、浴衣着るの諦めてたんだよ!」


 着付けが上手くいかなかったのだろうか?

 響子はフォローまがいに「そんなこともあるわよ」と言っておくが、拓実は首を振る。


「いや、絶対着れたんだ。着るのをやめたんだよ、俺が迎えに来る前に。じゃないとあんなに怒らないだろ」


 あんなにと言われてもどれだけ怒られたのかはわからない。


「それに俺は優があの紫陽花あじさい柄の浴衣を着てるところが見たい!」


 拓実の欲望に妹は冷めた目で見上げていた。他人にお熱な親族を見るときほどきついものはない。ただ少しのあわれみも含まれていたのは、やはり仲の良さからだろうか。


「え? ちょっとストップ。紫陽花柄、って女物?」

「そうだけど」


 響子の質問に拓実はあたかも普通そうに言う。


「優ちゃんが自分で買って着ようとしたってこと?」

「俺は言ったけどな。可愛い浴衣着てる優とデートしたい、って」


 そこまで黙って聞いていた由良がきゃー、と黄色い声を上げた。由良は無類の恋バナ好きだ。よく知らない他人の話ですら盛り上がることができる。


「やだやだ、素敵。めっちゃいい話。もっと聞かせてください!」

「そうしたら考えておくって言われて」

「やばーい!」


 拓実が照れながら話す様子に由良が手を叩く。響子が会話の切り口を失ってあたふたしていると妹と目が合った。なんだか、感情が同調している気がする。


「そ、それより。福島くんは優ちゃんに髪飾りをプレゼントすることで、浴衣を着ない選択肢を消そうとしてるのね」

「その通り。策士だろ?」

「それはちょっとノーコメントだけど……でも、あまりゴリ押ししないようにね。本気で嫌がられちゃうと可哀想だし」

「それは分かってる。それじゃ、オレらもうそろそろ自分たちの買い物に行くから」

「そうね。呼び止めて悪かったわ」

「いや、久しぶりに話せてよかったよ。あ、最後に」


 背を向けかけた拓実は振り向きざまに響子の手に持っている浴衣を指さす。


「どうしたの?」

「似合うと思うぜ、それ」


 じゃあな、と後ろ手に手を振って去っていく。妹は丁寧にもお辞儀をして兄の元へと駆け寄っていった。


「久々に別の人の恋バナ聞いたよ~。ね、響子」

「そう、ね」


 響子は半分上の空で由良の声を聞き逃していた。

 優が女性物の何かに手を出しているのを、響子はまだ見たことがない。てっきり勘違いしていただけなのだろうか。


 そう考えながら、響子は手の中にあるシックな百合柄の着物を見下ろした。

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