93 アノミー(13)
「ほたるはプロデューサーさんとマネさんと会議中」
腕を組んだ美緒にちゃんと捕まった郁人は廊下の先に目を向ける。
「内容はあんまりわかんないけど、ほたるは重要な会議とか仕事中は電源を切ってることが多いから。心配になるのは分かるけどね、今日は普通だった」
「美緒さんはなんでこの時間まで事務所に?」
「あたしはさっきまでボイトレ受けてたの。事務所専属のトレーナーさんがいるから」
「ボイトレ?」
「ボイストレーニング。歌の練習」
「熱心なんだね」
「当たり前。テレビでも歌うのに、とんでもない歌声なんか聞かせてやれないじゃん。子役からやってて有名になった人って、みんなすごいからさ。こんだけやらないとだめなんだよ。これでも、全然足りないし」
美緒は遠くを見据えて黙り込む。何人か思い当たる同業者がいるのだろうか。
「見たよ」
「何が?」
「昨日、テレビに出てたよね」
郁人の言葉に美緒は見上げた。
毎週水曜日に放送される音楽番組に新曲を
「見たの、マジ? 見ないタイプだと思ってた」
「普段はね。見ても知らない曲ばっかりだし、正直楽しくない」
「酷い言いよう。聞こうと思えば覚えるでしょ」
「聞こうと思ってないからわかんないんだよね。でも見た」
「『ポップエナジー』だけ?」
「他のは、ながら見だったけど」
美緒は少しだけ嬉しそうに口元を緩めて、「それで?」と続きを尋ねてくる。
「よかったよ。歌って踊れる人間が、この世に少なくとも五人以上いるってことにびっくりした」
「よかったんだ。知らないくせに言うじゃん」
「うん。でも、一つだけ思ったんだよね」
「なに?」
「ほたるちゃんがいないと物足りない気がした」
美緒の口元から笑みが消える。
そっか、と呟きが聞こえた気がした。
「そう、だよね。そう思うか、うん。やっぱりほたる居なきゃ足りないね。あんまり
この状況に、慣れたくないんだよね。もう、三人失ってるからさ」
前回のリーダーを含めて三人。三年前、劇的に人数が減った。
「ここだけの話。あたし、三人と離れるときにちゃんと挨拶できてないんだよね」
「そうなんだ」
「あたしはあの時中二だったから、連絡とか全部親だったんだよね。向こうも、高校受験したいとかで辞めたし、気まずかったんでしょ。逆に言っちゃえばさ、あたしもセンターの子も子役上がりだけど、ほたるは違ったから残ってくれたのがすごく嬉しかったんだよね」
美緒は笑い直して頷く。
「だからさ、普段見てない人でも『足りない』って思ってくれるのは、まだ帰ってくる余地があるってことでしょ」
「意外にポジティブだね」
「あたし、ネガティブなこと言わない主義なの。あの時は思わず口をついて出ただけで。そうじゃないと、この世界で生き残れないから」
エレベーターが静かに動き出して、美緒は一度言葉を切った。
「ほたると
エレベーターの一階にランプがついて、薄く開いた扉から俯いたほたるが顔を出す。
美緒は郁人の腕を軽く叩く素振りだけをすると、隣を通って廊下の先に消えていく。逃げ足の速さ、と言ってしまうと怒られそうだが。
郁人は猫背気味になったほたるの肩を叩いた。ほたるは気づいていなかったらしい。少しだけ
「……なんだ、郁人か。びっくりしちゃった」
「大丈夫? 今日は」
「うん。こんな時間だし、優ちゃんのところには帰れないから。多分、夜だから張り込んでるかも……わかんないだろうし」
余裕のない途切れ途切れの言葉。
「じゃあ。家、おいでよ」
「……なによその誘い文句。やっぱり、郁人ってなんかおかしいわね」
「ちょっと、ちゃんと話したいんだよね」
ほたるは少しだけ足を引くと、視線をずらして浅く笑う。
「ちゃんとって、話すことなんか」
「知ってるよ。みんな、ほたるちゃんのこと心配してる」
「……」
「一回、話をしよう。別に全部否定的なわけじゃない。相談する人、必要でしょ」
ほたるは小さく首を振るが、郁人は彼女の腕を掴んだ。
「必要だ、って言ってるんだよ」
ほたるは黙ったまま返事をしない。
「……話、してくれるよね」
ほたるは拒絶のように少しだけ郁人の腕を引くが、郁人の顔を見て断念したらしい。黙ったまま、曖昧に頷いた。
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