92 アノミー(12)

六月二十六日 水曜日


 学校帰り『保安局』に顔を出すと、ロビーの受付嬢に呼び止められた。三島は外出中だという伝言を受け取って、郁人は仕方なく三階に足を運んだ。

 隅に追いやられたデスクに腰を下ろして、今度はきちんとデータベースに文字を打ち込んでいく。


 関連性が疑われる事件

 一回目、六月二十日。場所、八王子駅前にて路上ライブを行っていた女性に、二十代から三十代とみられる男性がナイフを向ける事案が発生。

 二回目、六月二十二日。場所、大阪駅御堂筋みどうすじ南口付近で路上ライブを行っていた女性*の持ち物と思われる機材に、二十代男性がナイフを用いて傷をつけた事案が発生。男性はその場で取り押さえられ、現行犯逮捕された。

 一回目、二回目の加害者は別人と見られており、逮捕された男性はSNSの投稿に触発されてやったと供述している。


 加害者の男性は須田すだゆめの熱狂的なファンだと、SNSから判明されたらしい。狂信的なファンによる掲示板の悪質な書き込みから、何から何まで世の中を悪循環にさせている。信じるという行為が人をここまでにさせるのは恐ろしい話だ。

 一般人コスプレイヤーNが生見ほたるということは、本人が必死に隠していようと、もう世間では認知されてしまっているに等しかった。

 本当なら、やめさせてしまいたいところだ。けれど、これによってほたるの味方の声が大きくなっているのも現状。

 時が事件を解決──うやむやにしてくれるのを待てるだろうか。この先どうなるか、あまり考えたくないところだが。


「安達さん」

「戻って来たんですね」

「はい、着ぐるみもこの通り」


 傷一つついていない。

 心なしかパンダの目は暑そうに垂れ下がっていた。本日の役目はきちんと果たしてくれたようだ。


かしわでは何も起きませんでした。嵐の前の静けさ、と考えると嫌な予感しかしませんが。でも、ひとまず何もなかったのは安心です」

「よかったです」

「ただ、彼女はすごく精神的に参っていそうです。季節の変わり目でもあり、環境が身体にも良くなさそうで」


 眉を下げて言う。これは佐倉にも言われていたことだ。

 顔が憔悴しょうすいしきっている。心配だ、と。


「でも、安達さんは」

「よく、わからないんです」


 郁人は液晶に目を向けて零す。


「初めこそ、ほたるちゃんに味方が付いてくれたら、精神的にも安心し始めるんじゃないかと思ってたけど。もはや今、彼女は義務感でみんなの前に立っているんですかね……?」

「対話、したらいいんじゃないですか?」


 三島はにっこり笑って言う。


「安達さん、なんだかんだと言って、人と場所を設けて会話するの嫌がるじゃないですか」


 三島の適切な指摘に言葉を詰まらせる。


「バイトの一部だと思えば比較的抵抗は少なさそうですが、ただの相談に場所を設けて日時を設定して。そうすると貴方はすごく嫌そうな顔をしますよ?」

「それは……」

「気恥ずかしいからでしょう」


 何も言えない。その通りだと思った。

 きちんとその時の感情を説明しろと言われたら、上手くできないだろうが、少なくとも気恥ずかしいというのは間違っていない。


「ほたるさん、今ご両親はシンガポールにいらっしゃるんですよね」


 郁人は思い出す。あの家も、ちょっとした放任主義だった。ほたるがアイドルになりたいとオーディションを受けるのに、両親はうんとも、ううんとも言わなかったらしい。それは寛容なのではなく、両親がほたるに興味がなかったから。

 興味がない、と言い切ってしまうと疑いたくなるが、事実として旅行と称して彼女の両親がシンガポールに移住してからかなり時間は経っていた。


「今、誰が寂しさを埋めるんでしょう」


 心の拠り所にしていた須田夢とも連絡が取れなくなって、もう二週間。

 世間の本音も埋もれてよくわからない。惑わされて、ほたるは周りの言葉すら疑っているのかもしれなかった。


「やっぱり、みんな一人になるのは寂しいんですね」


 三島は他人事のように言って微笑んだ。




 優の部屋のインターホンを押す。

 日が落ちかけた時間帯は、優も夕飯の支度など進めていたのだろうか。カラメル多めのプリンになっている髪を後ろで縛って、赤いエプロンをつけた姿で扉を開いていた。


「ごめん急に。佐倉、ほたるちゃんは?」

「まだ帰って来てないけど」

「遅くなるって聞いてた?」

「いいや。確かにいつもなら帰って来てるくらいの時刻だな」


 室内に掛けられた時計を確認して言う。

 優はほたるに電話を掛けるがすぐにビジートーンが流れて繋がらない様子だった。


「通話中か、電源が切れてるって」


 少し待てば折り返し連絡が帰ってくるだろうか。いや、それほど待っていられる話でもない。


「今日、千葉でライブがあった日だよな」


 優が確認するように尋ねてくる。


「そう。三島さんが着ぐるみを着て見張っててくれて。今日は何も起きなかったって」

「時間からしてさすがにもう帰って来てるよな」

「さっき三島さんとも会話したし、そのはず」

「……それで向かってる場所って言うと、まあ一つしか思いつかないな」

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