94 アノミー(14)

──リーダーになっちゃったんだもんね。誰にも、弱音なんか吐けないよね


 一人の部屋でうずくまっているほたるを、真っ先に抱きしめに来てくれたのは夢だった。

 自分の道を進み始めて、親が離れるのは早かった。両親はやりたいことに積極的過ぎるほどに行動力を示す人種だったからか──今思えばこの親にしてこの子ありだった──音楽を学ぶと言って中学生の娘を一人置いてシンガポールに行ってしまうのは、あまり常識的ではない行為だった。

 り所のないほたるは、家族を求めていた。


──わたしだけは、ほたるちゃんの味方だから


 だからSNSを見たとき、夢のファンからの誹謗中傷を知って「全部自分の独りよがりだったんだ」と思った。

 勝手に仲間だと思い込んでいただけ。

 夢がびっくりするほど重厚な変装をして、ゲリラライブに駆けつけたのは知り合って間もなかった時の話。

 四人になって初めて人の前に出た時、秋葉原だった。

 帽子と、眼鏡にマスク。モノクロの服装で、女性のファンは少なかったからすぐ目についた。

 前に水を渡した子だわ。あの撮影、何もなく終わってよかった。うちにはいないタイプの子だな。あざとくてなのに控えめで、さっちゃんともちょっと違うのよね。さっちゃんは性格悪いからなぁ。名前、調べとかないと。

 ハートマークを胸元で作って前に突き出す。

 これがファンサってやつよ。覚えた?

 マスクを顎にずらしていた夢は、ぽっかりと口を開けていた。




 彼女は東京から向かえそうなライブには全部来てくれた。

 須田夢。

 大志を抱いていそうな名前だ。夢はデビューからあらゆる雑誌の撮影に引っ張りだこだったらしい。

 ほたるが専属を務める雑誌の撮影にも夢は顔を見せた。

 小さくて、人形みたいな顔。無邪気な笑顔は幼さの象徴で、可愛くて仕方なかった。

 でも、この感情は見せてはいけないものだと知っていた。

 純情ではなかったからだ。

 女の子は男の子を好きになるものらしい。女の子は可愛いものが好き。化粧が好き、服と、ピンクも好き、ユニコーンも。可愛い女の子が好きじゃいけないのかしら。みんなは人形にキスしたことないの?

 男の子なんて、全然かわいくないのに。どうして好きになるんだろう。

 わからないけど、ほたるは他人と違うところは押し込めるべきだと学んでいた。

 出る杭は打たれる。

 純真じゅんしん無垢むくだと思っていた夢がお手付きだと知った時はちょっとびっくりした。

 けれど感情は変わらなかった。つまるところ、可愛くない女の子でもほたるは好きなのだと学んだのだ。みんなが男の子を好きになるのと何ら変わりないと気づいた。

 無邪気な笑顔もただの〇と一だと知ったのに、むしろ魅力は割増だった。

 飛び級のごとくデビューを果たした夢はグループの中でも、ある意味除け者で居づらかったに違いない。きっと彼氏はそういう居場所の一つみたいなものなのだろうと思った。

 夢を抱きしめて、その首筋にキスをした。泣けない涙を声に出して、背中を撫でられながらつけた温いキス。もちろん何にもなっていなかった。

 夢は少しだけ驚きながら、悪い顔をしていった。


「わたしなら、ほたるちゃんの拠り所になってあげるられるよ。今まで上手くできなかったから、つぐないたいの」

「……」

「キス、もっとしていいんだよ」


 この人形はほたるだけのものになることを望んでくれた。

 でも、本当に、本当に。


「思いを実現するつもりはなかったのよ」


 そう誰にも言うことはなく、ほたるはなあなあと、叶ってしまった大志を持て余していた。

 これもまた言い訳の一つ。

 夢とすべてをつなげてくれた聖地は、ゲリラライブの会場。

 また夢が見に来て、憧れの目で見てくれることを願った。憧れじゃなくてもいい、あの時みたいに帽子と眼鏡にマスクでいいから。

 ほたるを否定しない。それだけ教えてくれたらよかった。




「でも、もう。無理ね」


 泣くのを拒んで、ほたるは目を見開いたまま目頭を押さえていた。ぱた、と机の木目を濡らして、ほたるは鼻をすする。

 泣いてないなんて、言えない表情をしていた。


「私はこの世界で生きる以上、それこそ、このオプションで悪目立ちするべきじゃなかった」


 出会ったばかりの優の言葉を思い出しながらほたるは嘆きを声に出す。

 郁人はポケットから携帯を出すと、軽く操作してほたるの前に突き出した。ボイスレコーダー、と書かれたアプリには、音声がいくつか入っている。

 郁人が指さしたのは上から三番目の録音。真ん中より後ろにバーが移動されて再生された。


──嘘じゃない!


 夢の声だ。ほたるは赤くなった目でバーが滑ってゆくのを見つめる。


──ちゃんと好きだった。はじめはわかんなかったけど、今も、ホントはよくわかんないけど。でも、バカになんかしてないし! ちゃんと誠意がある付き合いだったって、言えるよ!

──レズビアンだってこと、面白そうとか、思わなかった?

──そんなこと思うわけない。だって……だって、指が五本あって、どの指が好きですかって聞かれて、多分、親指とか人差し指とか、小指が人気なんだろうけど、それで中指が好きですって答えて「あなたは人を侮辱ぶじょくしてるんですか?」っていうの? そんなわけないじゃん!


 ほたるは、くすりと笑ってしまった。

 ああ、このよくわからないたとえ話、好きだった。そんなことを考え始める。


──ゆめは、まだ何指が好きなのかわかんないけど、でもいいでしょ? 好きなもの聞かれてわかんなくても、わかんないのをいいとしてる人だっているかもしれないんだし


 夢の威勢はそこで途切れて、椅子に座ったのか無機物同士がぶつかる音がする。


──これ、ほたるちゃんに聞かせてもいい?

──……ゆめは、むしろ聞いて欲しい。……接近しちゃダメ、連絡しちゃダメって、したら首切られちゃうから。それはきっとほたるちゃんも望んでないし、悲しむし。ほたるちゃんに導いてもらったアイドルの道を壊すことなんてできないよ……


 小さいノイズと共に音声が終わる。

 携帯から顔を上げると、郁人は首を傾げて反応を待っていた。


「……郁人って、なんでそこまでしてくれるの?」

「一度は人に救われた側だから、かな」


 ほたるは口を泳がせる。


「きっと、生きてたら誰でも一度は救われた体験があると思う。例えば、走ってこけた時、テストで悪い点数を取ってしまった時、とんでもないミスを犯してしまった時、とかね。もっと些細ささいでもいいよ。物を落として拾ってくれたとか。そしたら、貰った人は誰かにその恩を渡すんだ。循環って言ってさ。俺は、貰った恩が大きすぎる。一生、人にやさしくし続けて余るくらいには」


 郁人は携帯の画面をスワイプすると、もう一つの音声をタップした。


「だから、頑張って恩を渡し続けてる」


──ゆめ、逃げないことにしたから。ほたるちゃんがどうするか、わかんないけど。ゆめはほたるちゃんを悪く言う人を、絶対ファンだとは認めない。誰かを貶した分で褒められてもうれしくないから。謹慎が解けた後の音楽番組に、時間をくれたの。そこでは言うよ。ちゃんと謝ってから、ちゃんと怒ることにした。ゆめ、ゲリラライブ行きたいよ


 ほたるは、口を震わせて聞いていた。夢の決心を告げる声は、口調のわりにあまりに弱々しかった。怯えているのに、けれど武者震いだと言わんばかりの強気。


「今日の会議は、開示請求?」


 ほたるは頷く。

 SNSでほたるを傷つける人に法的な処置を行うかどうかの会議。事務所が踏み切ってもおかしくないほどネットの海は荒れていた。


「ほたるちゃんがどの選択をするかは、ほたるちゃん次第だけど。向き合っても、いいと思う。多分、自信になるよ」


 携帯を手にすると、ほたるは郁人を呼び止めた。


「さっきの音声、送ってくれない?」

「わかった」

「それから、黙っててごめんなさい」


 郁人は椅子から立ち上がると、また頬の赤い跡をなぞる涙を見て背を向けた。


「寂しいなら、誰にでもわがまま言って、頼っていいんだってさ」

「……」

「人の受け売りだけど」


 扉を閉めて少し殺風景になった自室で、郁人は本棚に手を伸ばした。高いところにある数冊から一冊を抜き取って開く。

 そこには一枚の手紙が挟まっていた。

 郁人が挟んだものだ。誰にも見られないように。


──年下に弱音が吐ける人間じゃないよ、ほたるは。みおはわかった気になってるだけ


 にや、とチェシャ猫のように笑った顔が文末に添えられている。

 絵文字はこんなにわかりやすいのに、どうして文字はいびつなのだろう。

 公衆電話に挟まっていた白い便箋びんせん


──安達郁人へ


 と宛名が添えられていて、開くと差出人は花房さくらだった。

 指で紙をさすって気づく。裏にもボールペンで書いたときの凹みがあることに。

 裏返すともう一つ、メッセージがあった。


──佐倉優から、デビュー前の騒動を聞いてみて。きっと相変わらずわたしに激怒する(笑)


 優を馬鹿にしたような内容だ、と思えばちゃっかり文末に笑っている。

 郁人はため息をついて手紙を封筒に戻すと、ベッドに背中から倒れ込んだ。

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