95 タブラ・ラサ(1)

六月二十七日 木曜日


「朝、早くない?」


 洗面台を前に髪を梳くほたるを見て、郁人は声をかける。


「おはよう。今日は久々に学校に行こうと思って」

「先週は?」

「休んだわ。先々週も、人の目が嫌で行けなかった」


 郁人は顔を洗うと拭わずに歯磨きを始める。

 ほたるは郁人の杜撰ずさんな行動に目を丸くした。


「一回拭いたらどう?」

「歯磨きで飲み込むタイプじゃないから、口ゆすぐとき絶対濡れるじゃん」

「飲み込むタイプがいるの? 私、見たことないわ」

「俺も見たことはないけど、聞いたことはある」


 ほたるはリボンを結び終えても、郁人の歯磨きが終わるのを待っていた。最後にまとめて紙タオルで顔を拭くと、普段からやっているのかと驚きの目は変わることはなかった。


「ほたるちゃんはなんで急に学校に行く気分に?」


 ほたるは高校から通信制の高校に通っている。学校から提示された課題をこなし単位を取ることで、高校卒業認定を取る仕組みの学校だ。そして週に一度、登校日が設定されていた。


「……なんか、郁人が制服着てるの見るうちに、『行かなきゃいけないな』って思ったのよ」

「佐倉だって制服着てたでしょ?」

「私が戻るころには、優ちゃん私服だったもの」

「そうなんだ」

「……優ちゃんにもすごく感謝してる。課題とか、手伝ってくれて助かったわ」


 その、とほたるは言葉を詰まらせる。郁人が自室に消えて鞄をリビングに持ってきても、まだ指を突き合わせて言いづらそうにしていた。


「優ちゃん、意外と賢くてびっくりしちゃった」

「それ、言ったら怒られるやつだね」

「だって部屋にいっぱいゲームとか漫画とかあったんだもの。郁人とか、本はあっても漫画とか持ってないでしょう?」

「颯人は持ってた気がするけど」

「確かにそうだったかも」


 ほたるは持ってきていたトートバッグから帽子を取り出して被った。マスクと眼鏡をかけて、手鏡の前で調子を整える。


「もう出るの?」

「一回、家に戻って制服に着替えてから行くわ」

「マスコミは大丈夫?」

「……もう、いないって。美緒が教えてくれた」

「そっか。行ってらっしゃい」


 ほたるはぎこちなく頷く。

 すぐにはリビングのドアノブを押し下げなかった。


「郁人」

「どうかした?」

「……予定通り、鍵島でもやるつもり」


 ゲリラ路上ライブの話だ。郁人は不安な目でほたるの背中を見る。


「そしたら三週間だから、ちゃんと復帰して……みんなの前で言おうと思うわ」


 寄こされた眼鏡の奥にあるほたるの視線は揺らいでいる。


「守って、くれない?」


 ドアノブを握る手に力がこもる。


「もう普通になろうなんて思わない。自分の気持ちを偽らない、って決めたから」


 ほたるの決心に郁人ははっきりと頷いた。郁人の反応にほたるは口角を持ち上げる。


「じゃあ、行ってくるわ」

「行ってらっしゃい」


 ほたるはマンションを発つ。

 郁人は制服のネクタイのスナップボタンを留めながら、無意識にテーブルに広げていた花房さくらからの手紙を見下ろした。

 きっと美緒はほたるの弱さを気づいている。でも、気づいていることを悟られてはいけないのだ。それはほたるの努力を──虚勢をないがしろにしてしまうから。


 インターホンが郁人を呼ぶ。

 梅雨が明けかけ暑さが本格的になり始めた今日こんにち、郁人はセーターを鞄の中にしまって肩に担いだ。


「おはよう」

「おはようございます」


 靴を突っ掛けた状態で玄関を開けると、征彰が立っていた。

 今日は木曜日だ。火曜日か木曜日はたまに朝練が無くなる。顧問こもんが午前、別の学校にいることがあるかららしい。


「迎えに来てくれたんだ」

「朝練ない日は、一緒に登校したいんです」

「一駅分学校から離れちゃうのに、わざわざどうも」

「ちょっとした運動がてらに走って来たので」


 征彰は面倒だという感情を一切見せないでそう言う。

 郁人が鍵を閉めると、征彰がエレベーターホールの方に歩き出すので引き留めた。


「エレベーター待つより、階段で降りない?」


 征彰は納得して体を翻す。

 ちょうど、四階分降りきった時に征彰は口を開いた。


「さっき、ほたるさんと下ですれ違ったんです」

「そうなんだ」

「彼女、鍵島でもやるつもりなんですか?」


 郁人は頷く。一段ずつ軽快に降りていく。


「着ぐるみ、確保したんですよね」

「うん」


 美緒に手配してもらったパンダの着ぐるみ。

 征彰は一息を置くと、本題を口にしてくれた。


「……俺に、任せてもらえませんか?」

「着ぐるみ役?」

「はい」


 郁人は振り返る。征彰は階段から見える景色を眺めていた。その方角はちょうど鍵島駅前。

 理由を聞いてほしくなさそうにしていた。いつも話をするとき、征彰は受動的になる時だけ目が合わなくなる。それはすごく話しやすいのだけれど。

 それは自分は喋らない、というちょっとした意思表示なのかもしれない。


「じゃあ、任せた」


 郁人は考えすぎだと自身をたしなめながら、オートロックのドアを抜けた。

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