96 タブラ・ラサ(2)
六月二十九日 土曜日
生徒会室にぽつんと置かれたパンダの着ぐるみ。
征彰はそれを手に取ると持ち上げた。
「中に扇風機ついてますね」
「つけてもらったんだよね。三島さんがすごく暑そうにしてたから」
パンダの頭だけを被って、首から下は人間、半人半パンダになる。
「意外と違和感ないな」
「違和感ないですか」
「街中に居たらぎょっとするけど、バランスが良い感じ。でも不審者極まりないからやっぱり下も着た方がいいね」
征彰は制服のワイシャツとスラックスだけになって着こんでいく。ファスナーを押し上げれば完璧なパンダだ。
「名前どうする?」
「パンダじゃダメなんですか?」
「人のこと人間って呼ぶのと一緒だよ。別にいいなら、そう呼ぶけど」
「じゃあパンダくんでお願いします」
征彰──今はパンダくん──は頭を支えながら、とてとてと歩く。随分歩きづらそうだ。
「もしかして征彰もサイズ合ってないの?」
「視界が悪すぎるんです。段差は教えてくれると助かります」
「手、つないだ方が良さそうだね」
郁人がパンダくんの手を取ると、先ほどよりもスムーズに歩く。
数人に振り返られたが、郁人の立場が生徒会長ということもあって不審に思う人は少なかった。なにかのイベントの準備程度に思っているに違いない。校門で待っていた響子と優だけは異様な光景に顔をゆがめていたが。
「ということでパンダくんです」
郁人のパンダ紹介に優は納得していなさそうな表情で「はあ」と頷く。
「人を人間って呼んでるようなもんだろ。鍋島はそれでいいのか」
「佐倉先輩も同じこと言うんですね。でも俺はパンダくんです」
パンダくんが両手を上げて振る。片足を上げたりとわちゃわちゃと動いているのは見た目相応な行動だが、中にいる征彰がそれをやっているのが面白い。
「あ、そう」
優はどうでも良さそうに答えた。
数年前、ゲリラ路上ライブの会場の一つにどうして鍵島が選ばれたのか。
ほたるは教えてくれた。
──さっちゃんの出身地だから
どうやらその時のメンバーの出身地を会場に含めていたらしい。例えばそれこそ、八王子はセンターの子の出身地だったという。
鍵島駅前のショッピングモールの敷地、建物の
予定時刻と思われる時間の三十分前には、すでにそれなりの人だかりができていた。
パンダの征彰が壁
すでに、ほたるには告知済みだった。着ぐるみは味方であること。そして郁人たちも監視を行っていること。
パンダの着ぐるみは護衛だ。
ほたるに刃を向ける人間がいるなら、身を挺して前に出る役。征彰がどうして買って出てくれたのかわからないが、頼もしくはある。
そして郁人たちは散らばって観客を見張っていた。
予定時刻、新品になったコードを引っ張るほたるが設営を完成させる。ほたるは今日もまた、何かのコスプレをしてそこに立っていた。
にっこり笑って、一礼をして、その間彼女は何もしゃべらない。今までと同じように、ただの『一般人コスプレイヤーN』として振舞う。
観客たちは歓声を上げながら拍手で盛り上げていた。
ステージ側から客を見るパンダは首を振る。不審な動きをする奴はまだいない。
もうそろそろ一曲目が終わる。あと二、三曲。次は、とほたるは指さしのジェスチャーを見せて二曲目を流す。
猫なで声がポップな曲を歌いあげているそれは、おそらく今日の衣装に類する作品のテーマソングか何かだろう。
このまま何事もなく終わってほしい。郁人のみならず、その場にいた観客までもが思っていた頃だ。
ほたるが目元のピースで親指を立てた、その時だった。
奇声が遠くから聞こえて、観客たちもまた動揺し振り返る。
ナイフを胸の前に構えた黒い服の男性。顔はよく分からない。ただ、観客たちは悲鳴を上げて道を開いていく。
「征彰!」
群衆の脇から見ていた郁人は状況に素早く気づき、ステージに向かって叫んだ。
ステージ側からは観客の人だかりで、何が起こったかよくわからなかっただろう。
指示通りパンダの着ぐるみはほたるの前に立ちはだかると、そのまま男性に向かって足を突き出した。それは見事足を引っかけてバランスを崩させるのに成功し、男性は転倒しかける。
しかしそれに激昂した男性はあろうことかパンダのナイフを頭上に振りかざした。
悲鳴が上がる。
血が床に散って模様を作りだした。
男性の手からナイフが落ちて、肘は天に向けてねじられている。男性はうつ伏せで取り押さえられていた。
「抵抗したら肩痛めますよ」
血は郁人のものだった。ナイフが腕を
郁人は後ろから男性のナイフを持っていた腕を捻り、押し倒したのだった。袴を履きたいという理由一つで過去に習っていた、合氣道を
着ぐるみの頭を外した征彰は、郁人の代わりに男性の背中に膝を押し付けると両腕を掴み上げる。
「止血してください、早く!」
征彰の必死の発言に郁人は傷口を抑えながらも大丈夫だと首を振る。しかしそれを許さなかったのは響子だった。ハンカチごしに郁人の腕を強く押さえつけると、救急車の番号に連絡をする。
「ほたる、モールのトイレの個室に隠れてろ」
「で、でも」
「早く」
ほたるは優の厳しい声色にこれ以上歯向かうことなく自動ドアをくぐり抜けていく。これで個室を覗くといった罪を重ねるような女性の共犯者がいない限り、ほたるは安全だ。
そして優は片手間に警察に連絡をし終えて、男性の手から落ちていたたナイフを踏みつけた。きちんと危なくないように刃の部分を足で塞ぐ。
「これ、お前のアカウントだな」
優はしゃがみ込んで、SNSのページを表示させた携帯を男性に向けた。男性は分かりやすく青ざめて抵抗する。
「は、はなせ!」
「鍋島、絶対放すなよ。で、これはお前のなのかそうじゃないのか。言え」
「……そ、そうだよ! 何が悪いんだよ。ドルオタはヤバいって言いたいのかよ!」
「そんなこと一言も言ってないだろ」
サイレンの音に男性は力を緩めうなだれた。
駆けつけたパトカーの中から、男性が数名、それから三島が降りてくる。三島は腕に血がにじんでいる郁人に駆け寄ると、手を掴み上げた。
「傷口を心臓より高くしてください。血は止まっていますか?」
「と、止まってないの」
傷口を圧迫し続けている響子が震える声で告げる。
「救急車は呼びましたか?」
響子はこくこくとぎこちなく頷いた。
「なら、私が同乗しましょう。それまでの間強く抑え続けてください」
それから、と三島が立ち上がり、もう片方の問題に立ち会う。
男性は征彰から解放される代わりに、警察官に手錠をプレゼントされていた。
優が三島にほたるの居場所を告げると、男性がパトカーに押し入れられたのを見てから連れてくるように言う。
「トイレの個室に、とは佐倉さんの判断ですか?」
「もし男を逃がしてしまった時、どこでも構わずナイフをふるうと思ったので」
「そうですね。おそらく、生見ほたるさんも事情聴取が必要になると思います。よろしければ、佐倉さんも警察について行ってあげてくれませんか?」
「分かりました」
「こちらは病院の処置が終わり次第向かいます。場所はあとで送ってください」
そうして優がほたるを連れ戻しにショッピングモールの中へと入って行くと、ちょうど救急車のサイレンが聞こえてきた。
郁人は薄らぐ意識の中で
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