97 タブラ・ラサ(3)
静かな個室。点滴も輸血パックも何もなかったので、郁人は一瞬そこがどこなのかわからなかった。
身じろいで右腕に響いた痛みにやっと気づいて、白い布団を捲る。
包帯に巻かれた腕は何事もなさそうにそこにある。しかし上からなぞってみるとちくちくとした痛みと、不自然な
「起きましたか?」
着ぐるみはもう着ていない。
征彰が右手にいくらかお札を握ったままカーテンを引く。
「えっと、ここは病院?」
「はい。思ったより傷が深かったらしくて、縫うことになりました」
「何針くらいって?」
「七針くらいだと、お医者さんは」
「結構いってたんだ」
征彰は眉を下げた表情で、腰を曲げた。
「すいません」
「……何が?」
「怪我、させてしまって」
郁人の腕に目をやって申し訳なさそうに言う。
「パンダくんのお仕事はほたるちゃんを守ることでしょ? 任務遂行したんだよ。俺はちょっと余計なことをして、勝手に怪我しただけ」
征彰は郁人の言い分を否定するように首を横に振る。強情だ。
郁人は少し強引に話を変えることにした。
「その話はいいや。今、ほたるちゃんは?」
「……警察署に居ます。佐倉先輩と小森先輩も。三島さんは手術が終わった後すぐに、これを渡してきてどこかに。多分、警察署に行ったんだと思います」
そう言って掲げたのは握っていたお札。治療費はこれで払えということだろう。
「とりあえず起きたことを伝えてきます。お医者さんは目が覚めたら帰っていい、とおっしゃってたので一応準備だけしておいてください」
「わかった。ありがとう」
征彰が病室を再び出て行くと、郁人はまた一人になった。
白い天井を見上げて、右腕を
警察曰く、ほたるは集団の意思を背負った──と思い込んでいた──人々につけ狙われていたらしい。
とある掲示板。いわゆる生見ほたるのアンチ、と呼ばれる人種が集まる場所にそれらしい内容のスレッドが見つかった。
人を傷つけることを助長する発言から、冗談かもわからない殺害予告まで。過激なものに溢れていて、それ自体はもとからあった場所だという。しかし最近の騒動の影響で、そこに集まる人数も増えていつになく活性化していた、と言ったのは警察署のおそらくパソコンに詳しい人。
ここしばらく、アクセス数が異常にの伸びあがっていたのだという。
きっとそこにいた多くの人間は本気で「ほたるに死んでほしい」と思っていなかっただろう。ただ少し精神的に追い詰められて、傷つけば溜飲が下がる。そんなことを考えていたように思う。
それらの意見を総意だと受け止め実行に至ったのが、今回逮捕された男性、それと梅田で機材を切りつけた連行された男性の二人だった。
そう、見解を述べていた。
警察らは、ほたるがもっと悲しんだり嫌な顔をすると思ったらしい。
ほたるは取り乱すことなく「そうですか?」と尋ね返していた。
「普通自分の悪口を書かれていい思いをする人はいません」
「……昔はすごく嫌だったんですけど。顔とか、ダンスとか、歌とか……例えば『あんまりスタイル良くないくせにモデルとかやって』みたいなことは日ごろから言われ慣れていました。珍しい話でもないし」
女性の警察官に向かって、淡々と口を開く。
「それは、私の努力不足です。魅力不足、というか……人には好みがありますから」
警察官は頷く。
「でも悲しいな、と思うのは私が『そうである』という状況に批判的な意見を述べる人です」
例えば、と促されてほたるは口ごもる。
「……。たとえば……私が同性愛者だってこと、とか。もし毎朝青汁を飲んでいるとして『青汁飲むとか人じゃない』と言われてしまうと」
悲しいです。
「いいんですよ。青汁嫌いなら嫌いで。でもそれで青汁飲む人を批判するのはおかしいですよね。同性愛だって気持ち悪く思えばいいです。でもその人を排斥したり批判するのは、なんか違う気がするなって。『そうである』同士で腕を組めばいいのに、『そうでない』を取り除いてグループを作るともやもやするのと一緒です」
隣の部屋でそれらの話で聞いていた全員がそうだ、と腑に落ちた。
しばらくして、ほたるのマネージャーが駆けつけた。今の保護者はとりあえず彼女らしい。
ほたるが聴取が終えると、マネージャの手を引いた。
「私、会見を開こうと思う」
「……」
「今回の騒動についてちゃんと話すわ」
マネージャーはおそらく覚悟していたのだろう。なんならばそのための準備もすでに始めていたかもしれない。
「でも、開示請求は行わない。これはみんなが夢のファンだからじゃない。発端として私に非があったから。プロデューサーさんは納得しないかもしれないけど、この方向で行こうと思う」
どう、とほたるは同意を求めた。マネージャーはいい顔をしなかった。プロデューサーと同じような意見だったというわけだろう。
しかし渋りはしたものの、ほたるの意向を否定する気はなかったようだ。
マネージャーは淡い笑みだけを浮かべて頷いた。
「詳しい話は後でしましょう」
ほたるは振り返る。郁人の腕を見下ろすと、眉を下げて静かに
「怪我させてしまってごめんなさい」
「ナイフを持ってたのはほたるちゃんじゃないよ」
「ちがう。あれを生み出したのは私、だから私のせい。ちゃんと償わせて」
「俺は後回しでね」
ほたるは申し訳なさそうに、けれどしっかりと頷いた。まずは自身のファンに、失望させてしまったお詫びを。誠心誠意の償いを。
ほたるが去っていく。
しばらくはあのコスプレイヤーを見ることはなくなるだろう。
郁人は縫った右腕を見下ろして安堵の息を吐く。
そして体が
少なくとも過度なまでに、世間に馴染みたい、多数派に紛れたいとは思わなくなったに違いない。
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