90 アノミー(10)

 郁人が瑛史郎を引っ張ってきたのはそれから十分後、げっそりした瑛史郎は廊下中に響き渡る声量で「いやや! いややー!」と叫んでいる。


「行きますけど、安達先輩かばってくださいよ!」

「俺は暴力を振るわない方の味方だから」

「おれ、なんもしてへんって!」


 美緒は瑛史郎の声にすくっと立ち上がると、生徒会室の扉を開けて廊下に向かって声を張り上げた。


「うるさーい! つべこべ言わずに謝れ、瑛史郎!」


 怒号に引っ張り合っている郁人と瑛史郎が顔を跳ね上げる。


「いややー、般若はんにゃみたいな顔してんの見えるやないですか。こんなん安達先輩も鬼の仲間やん!」

「誰が般若だって?」


 美緒は廊下を突き進むと、瑛史郎の頭をかなり強めに叩いた。明らかな暴力だ。


「人に迷惑かけんな。悪いのは瑛史郎なんだから」

「おれ別になんもしてへんやん」

「してないのが問題だっつってんのよ」


 揉み合いの始まりそうな状況に、郁人と響子が間に割って入る。


「とにかく、落ち着いて話そう。ほら椅子に座って」

「そうよ! ちゃんと話し合いからね?」


 美緒は不機嫌そうな顔でしぶしぶ頷いた。


「で、何があったの?」


 郁人の切り込みに瑛史郎はあからさまに嫌な顔をして耳をふさぐ。


「塞がないでね」


 郁人が瑛史郎の手を引きはがすと、瑛史郎はしぶしぶしょんぼりとして手を膝に置いた。謎に行儀がいい。

 そしてそれを横目で見ながらも美緒は話し始めた。




 美緒はそもそも幼少を大阪で過ごしていた。小学二年までの間、ふたりはマンションの隣同士の住人だった。


「アホやん! みお、アイドルになるとか言ってんねんけど」


 よくある話。


 美緒は小さい頃から本気でアイドルを目指していた。アイドルのことはたくさん調べて、事務所の入り方から履歴書の書き方も──もちろん書くのは親だけれど──調べたのは美緒だった。

 その真剣さを馬鹿にするやつらはたくさんいた。


「みおはかわいいからアイドルになれるで」


 よくある話。


 瑛史郎は美緒の唯一の味方だった。本気で応援をしていたのだ。

 美緒はそんな最中、親の事情で東京に行くことになった。


「あたし、とうきょうに行くんやって」

「よかったやん!」


 瑛史郎の反応はポジティブなものだった。もちろん、美緒は面食らった。

 離れ離れになるのに? 大阪でもアイドルは目指せる。一つ年下の瑛史郎は無邪気に笑っていた。


「……」

「アイドルのゆめ、かなうんやんな」

「でも」

「あ、でもみおといっしょにおられへんなるんは、さみしいかも」


 ちゃんとわかってたようだ。

 二人は指切りをした。

 家族以外の人と美緒が指切りをしたのは、後にも先にもこれ一度だけ。


「あたし、ちゃんとアイドルなるから、会いに来て!」


 瑛史郎は頷いてくれた。


「あたりまえやん。みおのファン一号やで」




「って、言うたんはあんたやろがい!」


 思い出したかのような美緒の関西弁に、郁人と響子は身を縮こまらせた。立ち上がって身を乗り出した美緒は、瑛史郎に人差し指を突きつける。


「ライブに来てくれるんはありがたいけどな、なんで握手拒否して帰ってんねん! いっつもゲートの外からちらちら、ちらちら、警備員さんに説明するあたしの身にもなってみい!」

「普通に考えて恥ずかしいやろ! 幼馴染と握手とかどんな趣味やねん! ……って」


 美緒は瑛史郎の言い分に盛大にため息を吐くと、パイプ椅子にドカッと腰を下ろした。


「はー……マジで意気地ない。昔の方が断然かっこよかったのに」

「そんなん言われてもやん。てか、ちゃんとライブには欠かさず行ってるやろ? それの何が不満やねん。ちゃんとグッズも買って応援してるし」

「なに『お前が来て欲しいって言うから行ってやってるんや~』みたいなこと言って、恥ずかしくないわけ? 次握手しに来ないならもう知らないから。今あたしの中の瑛史郎の株、地をう寸前なんだからね」


 ぷい、とそっぽ向いた美緒をなだめる響子。郁人は瑛史郎に「おれの何が悪いんかわかりません!」と泣きつかれていた。

 痴話ちわ喧嘩けんかに巻き込まれてる? と間違っても口に出しては命はないだろう。


「というか、中原くんはなんで握手してあげないの?」

「そんなん、恥ずかしいからに決まってるやないですか」


 郁人は瑛史郎の言い分に眉根を寄せて斜め上を眺めた。


「考え方の齟齬そごじゃない? この問題の原因ってさ、美緒さんが握手会のことを『アイドルとファンの交流だ』と思ってるのに対して、中原くんが『幼馴染に握手しに行ってる』って感じてるってことだよね」


 響子が郁人の言語化に頷く。

 そうだ。どうして噛み合っていないのか、理解できた。

 瑛史郎もなるほどと拳を打っている。


「つまり解決方法としては美緒さんが諦めるか、中原くんが完全にファンに徹するかでしょ。ただ前者は美緒さんのアイドルとしてのプライドを傷つけさせることになるし、後者は中原くんの意識を変えなきゃいけない」

「もうすでに傷ついてるから怒鳴り込みに来たんだけど?」


 美緒の主張に瑛史郎はウッと言葉を詰まらせた。


「そ、それは悪いとは思う……けどな。でも、意識を変えるってどうやるん、って話やん。もうデビューしてから五年くらい推してんねんで」


 だったら、と声を上げたのは響子だった。


「だったら、これからプライベートでも会えばいいじゃない。そしたら、目の前で喋るのと、舞台の上じゃ差別化できるようになるんじゃないかしら」

「そんなことしてたらあたしがスクープされちゃうじゃん」

「うっ……それもそうね」


 美緒に穴を突かれ響子は引き下がる。しかし、それも少し肯定的に捉えていたらしい。


「ビデオ通話、とかならいいけど」


 美緒がすっと机の上に携帯を差し出す。


「中原くんはどう? 君のせいで幼馴染が悲しんでるわけだけど、歩み寄ってあげないの?」

「……そ、そんなん安達先輩に言われたら、やるしかないやんかぁ!」


 瑛史郎は半分嘆きながら自身の携帯も差し出した。瑛史郎のメッセージアプリのアイコンが『ポップエナジー』のいつしかの集合写真になっている。


「じゃあ、一時解決だね」

「美緒もこれでも全く進展がないなら、相談してくれていいから。ね?」


 少し納得いってなさそうに唇を尖らせる美緒に響子が声をかける。いつの間にやら距離が縮まっていた。JK女子高生パワーというやつだろう。


「うん。とはいえ、瑛史郎次第だけど」

「中原くんもちゃんと向き合いなよ。怒鳴り込むまでって、結構フラストレーション溜めさせてたんだと思うし」

「……はい」


 一件落着。

 幼馴染の仲は復活? を果たしたらしい。

 瑛史郎は納得いってなさそうだが、五年待たせた罰だ。


「それじゃあ、私は帰るから」


 郁人はきちんと美緒から着ぐるみを受け取る。しかし美緒はパンダの頭から手を離さなかった。少しだけ手が震えていて、郁人は首を傾げた。


「どうかした?」

「……。なんかごめん」

「なんか、って何?」

「なんかは、なんか」


 パンダに爪が食い込む。


「いいじゃん、何に謝ってるとかわかんなくても」


 美緒は手を離すと郁人に背を向けた。


「パンダ、ちゃんと可愛がってよ。傷つけたら許さないから」

「ちょっとその保証はできないけど、できるだけ可愛がるよ」


 ナイフに刺される可能性があるので、傷つけない約束は守れるかわからない。

 美緒は郁人の正直な言葉に変な顔をする。


「なにそれ。まあ、いいや。じゃあね」

「うん」


 美緒の帰っていく足取りは軽く見えた。

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