89 アノミー(9)

 辻村美緒は苛々いらいらとフラストレーションを貯めながらも、大人しく待っていてくれるようだった。郁人がどこに行ったのかはわからないが、響子に課せられたのはこの場を乗り切ること。

 ドラマ化決定の帯がつけられた知らない小説を片手にしている美緒に、手っ取り早く響子は着ぐるみについて言及してみることにした。


「それ、永永ユンユンよね」


 本から顔を上げた美緒は白と黒のそれを一瞥いちべつする。


「そうだけど」

「昨日の音楽番組見たの。『ザ・アーティストデー』に出てたわよね」

「……」

「永永懐かしいわ。昔イベントで見たの!」

「……」


 あまりにレスポンスの鈍い会話は居心地が悪い。

 お願い、早く帰って来て!


「別に、無理して話そうとしなくていいよ」

「……え?」


 響子は美緒の一言にさっと緊張が冷めた。


「押しかけたのはこっちだし、別におもてなししろとも思わないし」


 何故か怒られている。

 なにか不愉快させてしまったらしい。響子は芸能人を前に冷や汗が止まらなくなっていた。

 どうして郁人は自然に会話を交わせていたの。普通、緊張してしまうものだろうに。普段テレビを見ない利点がこんな時に発揮されているとは。


「あんたがしゃべりたいって言うなら別にいいけど」

「……そ、そんな、喋りたいって。おこがましいこと」

「おこがましい? 同い年なんだから遠慮なんて要らないのに。聞きたいことあるなら聞けばいいじゃん」


 美緒は本心からそう思っているのか、響子の挙動不審に首を傾げていた。

 響子は美緒に応えるべくそれなら、と腹をくくった。


「その……美緒ちゃんはなんで安達くんに当たり強めなの?」


 美緒の眉がピクリと揺れる。

 響子は息をのむと内心謝り倒した。一番いけない質問をしてしまった。

 しかし、美緒は響子が思うより気分を害していなかった。


「あいつに似たやつが昔、握手会に来たことがある」


 響子は抱えていた頭を上げる。


「えっと」

「似てるけど全然似てない」

「それはどういう」

「大した話じゃないけど、自分にとっては結構トラウマだったりするもんだよね」

「……何があったの?」


 響子は美緒の投げやりな態度に、不安ながら会話を促した。




 いつも通りの握手会だった。

 中学二年生のとき。慣れてきた数回目の握手会。たった数秒の触れ合いをCD込々千五百円で買うなんて、美緒はそう思っていた。

 けれどのこの金額はアイドルからしてみればものすごく安いものだと気づいたのはその時だった。


「ライブ楽しんでくれた? 前回のライブにも来てくれてたよね、また次も待ってるから来てよー?」


 軽く触れて次の人に。半ば作業的に似通った言葉を掛ける。逆に言えばそれだけで心を満たされる人もいるのだから、造花の四葉のクローバーを配るようなものだとも思った。

 次の人は見慣れない人だった。あまり見ないほど小綺麗で、一瞬同業者かと思ったくらいだ。けれどマスクのせいで顔がよくわからない。


「来てくれてありがとね。また次も来てくれたらめっちゃ嬉しいかも」


 ちょうど、互いの手が触れ合ったとき、冷たい金属に触れる感触と、錆の匂いがした。皮膚がぷつんと破けて、沈み込む感覚。経験したことのない、そして一生思い出したくない感触だった。


「……いった」


 咄嗟とっさの行動だった。左手で右手首を掴む。右手の手のひらからは見たことないくらい血があふれていた。自身を照らす灯りが血をぬらぬらと流動的にとらえている。

 美緒は顔を上げた。


「あんた……つ、捕まえてっ! だれか!」


 その人はしばらくそこから離れなかった。じっと血を流して顔をゆがめる美緒を見下ろしていた。一秒もなかったが目を合わせた時、美緒の脳裏に焼き付いて離れなくなった。

 栄養不足みたいな痩身そうしんと無駄に伸びただけの身長と、見下ろすやけにきれいな二重。そいつは袖にカッターを隠し持っていたのだ。警備員に連れ去られていくときも抵抗せずじっと見つめてきて、美緒は意識を逸らすのに必死だった。


「美緒! 早く救護室に」

「手当しなきゃ!」


 今でも街中で似たような背格好の人を見かけると、無意識に背中を向けてしまう。話すとどうしてもきつい口調になってしまう。

 元々優しいタイプだとも思っていないけど。




「……そんなに似てるのね」

「今覚えば似てないかも。安達、人に刃物向けるようなタイプじゃなさそうだし。何ならむしろ、はさみとか刃の部分持って渡しそうだし」


 申し訳ないとは思ってる。

 美緒は顔を反らしながら小さな声で呟いた。

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